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読後感もそうだが、読んでいる最中の感覚が何とも不思議だった。毎日少しずつ読み進めていたのだけれど、「よし、読もう」という気持ちよりもむしろ「夫人や他の皆さんに会いに行こう」というニュアンス。それは、例えば第一部を取り上げれば、文庫サイズで200頁以上を費やして語られるたった一日の出来事が、何気ない仕草や視線、会話から、描写は自然と内面へと移ろい、まるで人々の間を自由に漂うそよ風のように語られることで、より人物を身近に、親しみをもって感じられるからだろうか。第二部を読んで、このようなことを思った。傍観者のようなこの距離感が心地良かった。
決してエンタメ的な小説ではないし、自分自身、この小説の文学的な価値や意義、歴史的背景などはさっぱり解らないが、言葉の自由さを味わえる読書体験ができたように思う。もしかしたら、この本に挟まっていた広辞苑の広告の栞の、「ことばは、自由だ。」というコピーに感化されたのかもしれない。
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小説はやっぱり素敵だなと思う。
焦点をあてているのが、何か大きな出来事ではなく、折り重なり揺れ動く人の感情であるところが好きだった。誰もが人との関わりの中で、意識と記憶を織り交ぜて生きてる。その絶妙なバランスが表現できる方なのだと思う。
また、リリーが真に自立を得る様子の描写が素晴らしかった。
私は、こういう作品に小説の醍醐味が詰まっていると思う。
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ヴァージニア・ウルフは初めて読みましたが、とても素晴らしかったです。登場人物たちの揺れ動く感情、流れてゆく想念が緻密にかつ軽やかに描かれている様は見事。まるで点描画を描いているかのような文章だなと感じました。けれでもウルフが書き上げた画は巨大なモザイク画のようであり、ジグゾーパズルのようでもあり、万華鏡のようでもあり……言葉を繋ぎ合わせることでこんなにも多面的な印象をも読み手に抱かせるのは流石だと思いました。他のウルフの作品も読みたいです。
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きっと多くの作家がウルフの作品から、神の啓示ではないけれど影響を受けたのではないかと思う。
だってそういうイマージュを引き起こさせるものがありすぎる小説だもの。
はじめ、とりかかりは難しいなーと思った。
意識の流れが登場人物のあの人この人に飛ぶものだから、
人物関係がぼんやりとして戸惑い、いらいらさせられたのだけれど、
慣れてくるにつれ心地よく全体の流れに身をゆだねていた。
古き良き時代、美しき良妻賢母のラムジー夫人は哲学者で気難しきラムジー氏と
8人子ども達と仲良く別荘暮らしをしていたそうな。
そこはイギリススコットランド北西岸沖、ヘブリディーズ群島のひとつの島。
別荘に招くお客も多く、8人の子持ちにもなれば仲良くはご多分にもれず簡単ではなかった。
でも、この家族の交流のあたたかさ、親しみは凡庸ではないのだ。
と、これが美しくも繊細な文章で綴ってあるのが第一部「窓」。
第二部「時はゆく」で暗転。
第三部「灯台」にいたると、にじみでるような希望の光がほのみえる。
この構成がにくい。
美しきラムジー夫人と末っ子ジェイムズを庭から描こうとしている、お客様の画家リリー・ブリスコウ。
全編の表と裏に登場し、意識の独白をして、その目を通し語られる家族の姿が、
作者の意識であり、思想であるともいえる。
ヴァージニア・ウルフの亡き両親にささげるレクイエムの意味も。
ああ、
通俗的に書いてしまったのだが、本当はものすごく芸術的な、芸術的な作品なのである。
もちろん、何度も読まねばならない、愛読書になるだろう。
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読みにくいながも読了。
読み終わった後、何か印象に残ったが、なぜか分からなくて。他の人の感想など読み、この小説を絵画に喩えているのが、しっくり来た。ストーリーというよりは表現技法を誉めている人が多いのも、なんとなくわかる。細かいタッチの一つ一つはすごいけれど、そこに焦点を当てても何も見えてこない。一歩下がると、そこに描かれているもののイメージがぼんやりと見えてくる。そんな抽象的な絵画に似た小説。
夫人とリリーという対象的な女性の、それぞれの視点にハッとさせられることもたくさんあるけれど、そこが主題という感じでもない。
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イギリスの女流作家。初期の“Jacobʼs Room”(1922)あたりから伝統小説のプロットや性格概念に対して実験的再検討を試み、”Mrs. Dalloway”(1925)や”To the Lighthouse”(1927)などで刻々と移り変わる人物の意識の流れを叙述していく方法を確立
ウルフは外側のリアリズム、すなわち人間の外面的なものをいかに現実らしく書くかを重視した19世紀のリアリズムを否定し、独自の新たなリアリズムを作り出そうとした。
いわゆる実験小説と呼ばれる彼女の三つの作品、『ジェイコブの部屋』『灯台へ』『ダロウェイ夫人』を比較してみると、それぞれの作品における客観的時間の長短は極端に異なっている。
『ジェイコブの部屋』→ジェイコブの幼少期から戦争に出て死ぬまでの20年間
『灯台へ』→10年を挟んだ前後それぞれ1日づつ
『ダロウェイ夫人』→朝起きてからパーティーまでの10数時間人物を外側からでなく、内側から描こうとする。
『灯台へ』においてもウルフはこの方法を採用しているが、実験第一作『ジェイコブの部屋』では多数の人物を登場させ、各場面でそれらの人々の目に映るジェイコブを描いたが、それに比べると、彼女の技法の用い方はその時より効果的になっている。
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十年の時間を隔てて、ラムジー一家と招待客たちがラムジー家の別荘で過ごす、それぞれの一日を描いた小説。三部構成で約400ページ。ラムジー夫人を中心として第一部で描かれる一日のあと、第二部では訪れる者もなく老朽化する別荘宅を背景に、十年間でラムジー家に起きた主な出来事が足早に知らされる。第一部の十年後を描く第三部では、再び別荘地に戻ったラムジー家と招待客たちの様子を描く。
(以降はネタバレを気にせずに記述します。)
第一部の時点での主な登場人物と、わかる範囲での年齢は以下の通り。
「ラムジー家」
ラムジー氏、哲学者、61歳。
ラムジー夫人、美しく行動的で家庭を大事にしている女性、50歳。
夫妻には八人の子供がいる。
ジェイムズ、末っ子で夫人のお気に入り、6歳。
キャム、お転婆な7歳の女の子。
他の子供たちは、アンドリュー(長男)、プルー(長女)、ナンシー、ローズ、ジャスパー(あと一人は不明)。
「招待客」
リリー・ブリスコウ、独身の女性画家、34歳。全体を通して、夫人と並んで内面が描かれる機会が最も多い。
チャールズ・タンズリー、ラムジー氏を崇拝する若者だが協調性がなくて皮肉っぽく、他の家族は嫌う。
ウィリアム・バンクス、ラムジー氏とは古くからの友人の植物学者。独身。
オーガスタス・カーマイケル、詩作をする物静かな老人。夫人を苦手としている様子。65歳。
24歳のミンタ・ドイルとポール・レイリー、夫人が結婚させたがっている若い男女。
第一部で中心的に描かれるのは、ラムジー家を実質的に支えているラムジー夫人だ。子供たちや夫であるラムジー氏はもちろん、彼女に憧れるバンクス氏や、夫人から目が離せない女性画家のリリーも含め、別荘地の一家と招待客の中心には常にラムジー夫人がいる。冒頭は翌日に舟で灯台に行けることを期待する幼いジェイムズに対し、天気が悪いから翌日の灯台行きは無理だろうと無下に突き放すラムジー氏、そんなラムジー氏に腹立たしさを覚える夫人との会話から始まる。その後、主にラムジー夫人、リリー、タンズリー、バンクス氏などの意識を通して、晩餐の後に解散するまでの一日が描かれる。
第二部は約40ページと作品のなかでもっとも短いパートであり、訪れる者のいなかった十年間の別荘地を描写する。その期間の重要な出来事として、第一部で中心人物だったラムジー夫人、長女プルー、長男アンドリューの死を伝える。それぞれの死因は、ラムジー夫人が急死、プルーは出産に関わる病気での死、アンドリューはフランスでの戦死とされている。プルートアンドリューはラムジー夫人の後を追うように次々と亡くなった。
第三部は第一部からの十年後、久しぶりに別荘を訪れたラムジー一家と招待客の午前中が描かれる。そこではラムジー氏が気の進まないキャムとジェイムズを連れて、十年前には叶わなかった舟での灯台行きを決行する。一方、別荘に残るリリーは灯台へと向かう舟を見守りつつ、ラムジー夫人の思い出に浸る。ここでの意識の描写の主な対象となるのはリリーであり、灯台へと向かう船上では、成長したキャムとジェイムズの、同行の父親を強く意���した心理が描かれる。
作中ではほとんど目立った出来事が起こらないタイプの小説で、リリーやラムジー夫人をはじめとした長い内面の独白や空想、彼らから見た外界が長く綴られる。逆に、ラムジー家の三人の死のような重大事は短い第二部のなかで突然あっさりと明かされたり、回想として触れられるにとどまる。
有名な小説家の代表作なので一度くらいは読んでおこう、というぐらいの動機の読書だった。ラムジー夫人のような女性を現実に思い当たる方も多いのではないだろうか。とても現実的な人物描写だと感じた。それだけに唐突な死と十年の期間が、夫人の印象をなおさら強くし、第三部でのリリーによる夫人の回想は共通の知人の思い出にふけっているような気持ちになった。
総じて、個人的には特別に感じる作品ではなかった。当面は著者の他作品に触れる機会はないかもしれない。
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思考の大間違い(たとえば、世界が自分ひとりのために完結しているというような)を冒しているときに読み直したい本。人びとが、さまざまの視点からさまざまのことを、物語がばらばらになりそうなほど語るけれど、それはその実細い糸で丁寧に縫い合わされて、読者を場から離さない。……かと思えば時はあっという間に過ぎ去る。そうして最後は、印象的な場面(シーン)の数々をひとりの人物のもとイメージのもとに残して幕を閉じる。こんがらがっていた真珠のネックレスが、糸をするするとただされて、終わりにかちりと留金をされたよう、でもあって、奇妙な充足感とともに、裏切りを成し遂げたみたいなおかしな達成感を見た。
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「明日、灯台へいく」その約束をした家族が崩壊し、その約束で再度集まるような物語。
3部構成の1冊。同じ感情を持たずとも一緒にいる家族。そこからの崩壊と最後の描きが強烈。すべてを理解できてはいないけれど、ラストの風景、ヤヴァイ、泣く。
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こんなに長いのに、一日の物語。
風景描写がただただ美しく、よく知らないまま思い浮かべていた風景と、読後に調べてみた時に見たスカイ島の風景がそこそこ合致していて慄きました。
文章だけでこれだけ伝えられるってすごい。
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津村のよみなおし世界文学の1冊。3部構成になっているイギリス文学である。最後が灯台へということであるが、最初の窓の1部から灯台がシンボルとして出てくる。アメリカ文学のように具体的な場面の連続ではなくて、考えが中心である。
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こんな小説は初めて読んだ。
人物の視点で、意識の流れる様子を整理したりせずそのまま映し出したような文章。
人から人へ、するすると視点が切り替わっていく。
それでも置いてけぼりにはならず、実際の人間の頭の中ってこんな感じだよなあ、と自然に感じられた。
【印象に残った表現など】
・哲学者のラムジーが妻の同情を求める様子。
「生命の輪に参入して励まされ宥められることを求め」
・ラムジー夫人「いろいろ人に与えたい、助けてあげたいと思う自分の気持ちも、虚栄心にすぎないのではないか」
(これは考えたことある。)
・普段の生活での人間性と学問における偉大さの乖離。
(これも実感としてわかる。)
・「我らは滅びぬ、おのおの一人にて」
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第一次世界大戦というそれまでの歴史に類を見ない惨劇が世に暗い闇を落とし、そのことが当時の人々の中に道徳的な葛藤や、生きることへの哲学的な思索を促したであろうことは想像にかたくない。そうした闇のような世界の中で「灯台へ」というタイトルはとてもシンボリックであり、実際darknessとlightningは本書に繰り返し用いられるフレーズで、作品の重要なテーマのひとつとなっている。
本来、人が人のことを理解することは容易な作業ではなく、どこまでいっても推測の域を出ないものである。それは例えると、自己と他者の間には常に暗闇があるようなもので、とくにここでは、戦争という時代背景がその闇をさらに深くしているようである。本書の登場人物たちは、その闇に照らされる灯台の光を探し求めるかのように、想像力を膨らませ、思考を重ね、相手の実像を捉えようとする。その思考の機微、それらが織り成す細やかなビジョンがとてもリリカルで豊かに描き出されているのが、本書の大きな魅力である。なにか共感や物語世界への自己投影を読書の楽しみとする場合には本書はオススメはできない。しかし私としては、今のこの世の中も、人が生きる倫理観や意味合いを問われるような、深い闇が広がっていると思うし、時代の転換点に私たちは生きていると思う。その意味でヴァージニア・ウルフが本書でみせた生きることへの透徹な思索は、現代を生きる私たちにも大きく訴えるものがあると感じる。
訳文の巧さもあると思うが、文章がとても美しく、この点も楽しめる作品だと思う。
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すごく面白かった。
第一部「窓」では8人の子どもをもつ良妻賢母ラムジー夫人から見た1日の出来事が描かれている。ラムジー夫人は美人で、気分屋の夫ラムジーをよく観察してケアし、バラバラな人達を繋ぎ止め、誰からも好感をもたれる魅力があるが、結婚することが女の幸せという古い価値観に疑問をもたず、牛乳や水道のような取るに足りない生活の話題ばかりをする点から、一部の人からは愚かしいとも思われている、一つの理想の母親像を体現している人物である。しかし、ラムジー夫人は女性として求められた役割を果たしていることに自覚的で決して頭が悪いわけではなく、一人で灯台を見つめる時間を必要としており、典型的な母親像をはみ出す部分が随所に描かれていて、その心理描写は鮮やかである。
そして、第三部「灯台」では、第一部から第一次大戦をはさんで10年が経過しており、その間にラムジー夫人(及び子2人)が亡くなったことを知らされる。夫ラムジーの暴君ぶりは顕在で、子ども達も父から命令されて嫌々ながら10年前にラムジー夫人と行くはずであった灯台を目指すことになる。みんなを繋ぎ止める役割の不在という形で、ラムジー夫人の存在感は増しており、第一部の日常が掛け替えのないものであったことが実感される。それでも、ラムジー親子によるセンチメンタルになりそうな旅路は、残った者だけでも生活が続いていくという頼もしさがあり、予想に反して清々しい。
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イギリスの作家ヴァージニア・ウルフの小説。
時は1900年代初頭。そこに遠足に行くことを心待ちにしている幼い子供が明日は灯台に行けるのかを母に問うと、横から気難しい父親が「天気は、まず駄目だよ」と全否定し、幼心がショックを受ける場面から始まる。
以降、複数の登場人物が他人をどのように知覚しているかを、イギリスの小説っぽく冗長に描く。著者は「(人の)生はつり合いよく整えられた一連の馬車ランプの光ではない。我々を取り巻いている半透明なかさ、luminous haloである。この定まららぬ、捉えがたい精神を書きあらことが小説家の仕事ではないだろうか?」と述べている。つまり、いつまで経っても変わらないのではなくて、生は無常であること、そんなことに迫ろうとしているのだろうか。