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読みやすいヴォネガット入門編かな。酷評の対象にされがちな本作だけど、彼の気持ちが素直に表れてるんじゃないかと。
失敗が見えていても壊さなければならない。
そんな人間への優しさを感じる一冊。
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ヴォネガット初の長編小説。1952年。
500ページ近くあり、かなり長いが、やはりヴォネガットは長編がいい。
最初の長編ということもあり、いつものノリとはちょっと違う。
まず、なんと言っても時系列順に物語が進んでいる。これはヴォネガット的に珍しい。
それから、トラルファマドール星人もキルゴア・トラウトもいない。
あんまりイカレた人は出てこない。しかしながら、「イリアム」という地名が登場する。
この先何度も出てくるこの地名、わたしは実在の都市だとばかり思っていたら、
架空なんだそうな。うーん、やられた。
そんなオーソドックスな手法で書かれたこの作品だが、
中盤くらいからだんだん箍が外れてくるの感じた。
序盤は、短編集にあるSFっぽいノリなのだが、主人公のポールが郊外に家を買うあたりから、
なんというかいつものヴォネガットだなぁと思った。
途中途中でさしはさまれる「ブラトブールの国王(シャー)」のエピソードは、
その後の作品に(形を変えてではあるけれど)引き継がれているように感じる。
わたしが感じる「ヴォネガットらしさ」とは、運命に逆らえずにどんどん流されていく視点にあると思う。
その変化を見つめる視点はいたって冷静で、どう抗ったところで引き戻されるものでもない。
その状況がそんなに「しっちゃかめっちゃか」なものであっても。
ヴォネガット文学の面白さは、彼が誘ってくれるその「しっちゃかめっちゃか」に乗ることにあると思う。
確かに皮肉もあるし、教訓もあろう。政治批判、文明批判、大いに結構。
ニヒリストとしてのヴォネガットは超一流。
しかし、そのニヒリズムは「しっちゃかめっちゃか」があってこそ映える。
彼は批判の対象について、是正を求めるような聖人ではない。
求められた是正が実行されたところで、絶対もとの鞘に納まることはない。
きれいに解決するわけはない。
そこまで描いてくれるから、わたしはヴォネガットを信じるし、
「あーでももうしょうがないじゃん」という人や事項が
あっちこっちに存在することは、認めなくちゃいけないんだ。
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第三次産業革命により全ての生産手段が機械化、自動化され、一部の技術者や公務員を除く人々は皆閑職しか与えられずにいる、そんな近未来のアメリカが舞台。人事が全てパンチカードで機械によって振り分けられ、技術者や公務員と一般人との居住区が分けられているという、効率・能率優先主義の社会に疑問を持つ人たちが革命を起こすという話でした。機械化による雇用数削減という問題よりも、作中に描かれている格差が今の私たちにリアルに迫ってきます。SFというカテゴリーに入っていますが、それが好きな人も嫌いな人も読める作品です。むしろ、SFという枠を超えた作品であると言えます。長編ですが、すらっと読めるのでおすすめ。
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あらゆる仕事が機械化された時代が背景の小説。(もはやそんなに遠い未来のことでもなさそうだ。)バーもすべてが機械化されて回転寿し屋のように酒が回ってたりする。オープンしたての頃はその目新しさで話題を呼び、大盛況となったのだが、すぐにつぶれてしまう。その数ブロック先に、生身の人間がカウンター内に立ち、ジュークボックスが置かれているバーがあったのだ。結局はみんなそこへ帰っていった。
そしてここから革命が生まれることになる。この酒場の描写箇所だけはこれがいつの時代だといっても通じる。外へ出れば、未来世紀ブラジルなんですけれど。人間が集まる場は人間を求める。酒場は永遠なんじゃないかと希望を持てた。ただ嬉しかった。
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「第二次世界大戦ののち、わたしはしばらくシカゴ大学に通った。人類学科の学生であった。当時そこでは、人間個々人のあいだに(優劣の)差異というものは存在しないと教えていた。いまでもそう教えているかもしれない。もうひとつ人類学科で学んだのは、この世に、奇矯とか、性悪とか、低劣といわれる人間はひとりもいないということである。わたしの父が亡くなる少し前に私にこういった。「お前は小説のなかで一度も悪人を書いたことがなかったな」それも戦後、大学で教わったことのひとつだ」
(本書あとがきより、引用されていたヴォネガットの言葉)
ここにヴォネガットという作家の「素」とでも言うべきものが凝縮されている。悪人のいない世界。個々の優劣など存在しない社会。その中で巻き起こる、愚かしく滑稽で、愛おしい出来事の数々。私は確かに、そういったものに惹かれてこの人の本を読み続けて来たのだった。そんなことを思い出させてくれる読書でした。是非一度。出来れば「タイタンの妖女」とか「ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを」を読んだ後に。
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再読候補。華氏451とほぼ同じ時期にほぼ似たようなテーマで書いていますがこちらの方が好きですな。ユートピアにおいても官僚制は決して冷酷で硬質なものではなくて、むしろ情緒を取りこんだ家父長的な粘着質で生暖かいものだからこそ余計に凄味があるというか。
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主人公が真実、自分の周りの関係に悩み、自分で行動を起こしていく。
その過程の中でおこる様々な出来事は、SFなのであるが、現実に重ねあわせると何もかわっていないような気がした。
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資本主義と社会主義どっちで行くの?という時代背景の中で、どちらにせよ直面する「管理社会」というのがこの小説の一つのテーマ何じゃないかと思います。
いわゆる冷戦が終結して30年近くたつみたいですけど管理社会っていうテーマは未だに解決された問題ではないですよね?
で、そんなちょっと固いテーマとは別にカートの物語の語りスタイルというのがあると思うんです。
管理社会の中でも息づく人々の悲喜こもごもの人生を何とも愛おしく語るカートの文体、それこそが効率主義に対する一つの答えになっているような気がするんですけど、そんなことないでしょうか?
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ヴォネガットの処女作は正統派か?
プレイヤー・ピアノとは自動演奏式ピアノのこと。作中では機械文明への反発みたいな象徴的な意味で使われている。
処女作故に語り口はまだ毒気が少ない。複数のショート・ストーリーが入るとかいった特徴はこのころから顕著だ。
時は第三次世界大戦後の近未来。川の片側には管理職と技術職そして自動運転の機械が、もう片側には機械に仕事を追われた一般庶民が住んでいる。
技術職として将来が有望な主人公は、さらに高い地位を与えられることになるはずなんだが、古い友人と会うことで彼の人生が狂い出す。結果的に、人間を機械支配から解放するという革命に参加してしまう。
本作として機械文明への警鐘とか紹介されることもあるが、物語の主題はそこにはないと私は思う。機械文明は単なる背景だけの意味しかない。ヴォネガットが書きたかったのは、それを背景にした人間だ。
ラストで機械を破壊するがすぐにそれを直そうとする技術屋とか、途中で何度も主人公の車のヘッドライト切れを指摘する一般市民とか、有力な学生を引き抜くフットボールチームのコーチとか・・・。私なりにまとめると支配階級への疑問、つまりヒエラルヒーへのレジスタンスが本作の骨格だと思う。
まだこのころのヴォネガットは、攻撃対象である支配階級を絞り込めていないようだ。対象が父親であったり、IQが高い管理職であったり、人間を追い出す機械であったりとばらばらである。この意味では消化不良の作品かな。
続く作品群で、金なり愛なりをテーマに作品が続くわけだが、この処女作ではテーマが絞り切れていないだけに、すっきりと終わってしまう。登場人物の役割が意味不明なまま終わってしまう感じがするのが少し残念だ。
なお、エンディングに関しては昔読んだかんべむさしの「決戦・日本シリーズ」を思い出してしまった。
2種類のエンディングがあり、それぞれが相手方に突撃するシーンで終わる名作だ。ところで氏は今はラジオに出演しているらしい(自身のWebより)。
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「誰かが不適応のままでいなければいけない、今の社会に対して疑問を持っていなければならない」という信念を持って小説を書く(出版は許してもらえない)夫。とそんな夫を誇らしいと思う妻のエピソードが1番好き。
読んで1番に考えたのは「ブラフーナ!生きよ!」という言葉。うん、私もブラフーナ!あと、どんなに文明が発達しても人は人と触れ合って成長するんだ、うん。
それにしても、何でポールみたいな人がアニータと結婚したんだろな。
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機械が高度に発達し、コンピュータEPICACによりIQと適性を認められた極小数の管理者と技術者が支配する未来のアメリカ。大多数の人間は職を失い、自尊心をも失いかけていた。
第三次世界大戦中に人手不足のため機械への依存が高まると、機械は飛躍的に進歩し、EPICACと呼ばれるコンピュータにより全てが決定されることとなった。この組織を作り、発展させたジョージ・プロテュース博士の息子、ポール・プロテュース博士は高い地位にあったが、このような世界を徐々に疑問に感じ始めた。ポールより出世が早かったがその地位を投げ打った旧友フィナティー、夫を出世させることにしか頭に無く、何事に関しても口出しする妻のアニータ、人生のすべてを競争だととらえ行動する部下のシェパード、そして、彼らとは別視点から、この機械に支配された世界を眺めるブラトプールの国王(シャー)と通訳のハシュドラール・ミアズマと合衆国国務省のハリヤード博士。
ポールは会社をやめ、妻のアニータと共に農業を営んで暮らすことを決意した。しかし、アニータ猛反対した。ポールはアニータと別居したあと、フィナティーが参加する幽霊シャツ党と呼ばれる機械の支配を脱し、人間の尊厳を恢復するための革命の盟主に祭り上げられた。しかし、この革命は失敗し、幽霊シャツ党の幹部が警察へ出頭するところで終わる。
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いちばん印象的だったのは、訳者あとがきの中に出てくる『屠殺場5号』からの引用で(p.482)、
『わたしはそこで、人間各人のあいだにはいかなる差異も存在しないということを教えられた。いまでも大学では同じことを教えているかもしれない。
もうひとつ、人類学科で学んだのは、この世に、奇矯とか、性悪とか、低劣といわれる人間はひとりもいないということである。わたしの父が、亡くなるすこし前、わたしにこういった、「おまえは小説の中で、一度も悪人を書いたことがなかったな」
それも戦後、大学で教わったことの一つだ、とわたしは答えた。』
というところかもしれない。
プレイヤー・ピアノ。
読んでいる間、苦しくて切ない理由は、登場人物の誰にも、どの立場の人にも、この機械化が進みすぎた管理社会にも、「あいつが悪い」「こいつはダメだ」「どれこれのせいだ」なんて言えないことだった。
こんな管理社会になればいいのにって思う私も、頭が悪い奴と性格が悪い奴は消えてくれって思う私も。
どんな人間にも、自由とそれに見合った責任を持つ権利があるって思う私も、誰しも1人の人間として尊重しあえるべきだって考える私も。
どっちも本当だ。どっちも嘘じゃない。
だから苦しいのだ、生きていくのは苦しいし、切ないのだ。
ただ、その愚かな人間ってものについて、悪いとも良いともいわず、ヴォネガットは書いている。
いや、皮肉的な目線なのに、でもしょうがないよねっていうちょっと温かい視線で、人間が人間の中で生きるっていう苦しみも切なさも悲しみも苛立ちも、ぶった切ったり裁いたり殺したりしてくれないで、ただ「ブラフーナ!」(生きよ!)と。
あぁ、それしかないんだ。
そうなんだ、わかっている。
勝ち負けの問題じゃないんだ。
勝ち負けの問題にしたら、簡単だ。
でもそれじゃダメなんだ。
私は、何をしたい?私が一己の人間として、したいことは何なんだ?
いつでも考えていなきゃいけない。
ブラフーナ!生きよ!
また読もう。
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1952年に書かれた近未来小説。現代を言い当てているようなところだとか、現代からつながっていく近未来を感じさせるところもあります。全体としてはレトロな未来ですけどね。たとえば、個人のもつIDカードがパンチカードだったりする古さがあるし、半導体はでてこなくて、真空管がでてきます。駒を動かす盤ゲーム(チェスみたいなものかな?)で人間を負かすための機械がつくられたり、機械に仕事をとってかわられてリストラされたり、格差のある階級社会になっていたり、21世紀を予見している(洞察している)ところがでてくる。内容そのものもとてもおもしろいです。また、AとBという対立があって、たとえば作者はAの意見に同調しているとすればAの意見をいうひとの描写やセリフはかきやすいのだろうけど、ヴォネガットくらいになるとBの描写やセリフも卓越している。敏腕弁護士以上に、いろいろな立場や主張を理解してくみあげて表現する力があるよなあ、と思いました。
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舞台は第三次世界大戦後のアメリカ。大半の人々はテクノロジーに仕事を奪われ、少数のengineers & managersが富を得る形へと変わっていっていた。そんな物語の主人公は、東海岸に位置する架空の都市、Iliumの大企業Ilium Worksのマネージャー、 Paul Proteus。妻、Anitaと何1つ不自由のない暮らしを送っていた。しかし橋を渡ればそこに住むのは仕事もなく、社会から見放された大勢の人々。明らかな格差と人間の存在意義を問う姿勢が皮肉にも今の世界と通用する。
Vonnegutのデビュー作でもあり、のちの作品の原点とも言える。物語は定番のディストピアを題材としていて割と単調。しかし共感できる部分はたくさんある。SF好きには読んで欲しい一冊。
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すべての人間のデータが機械によって、一人につき一枚のカードで管理される。そのカードで人間の運命が左右される。カードの内容評価が下がると、そのカードの人間はたちまち職を失ってしまう。機械が人間の職を奪いつつある時代のお話。よくある話と思ってしまうが、1950年代に書かれているのに驚く。
ラストちょっとかっこいい…