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A.C.ダントー『物語としての歴史』(国文社)における「分析的歴史哲学」という見方に触発された著者は、歴史記述の可能性を「物語る」という行為に見出し、柳田國男とW.ベンヤミンの両者の主張にこそ近代の「物語」喪失への危惧であったことをとば口としながら、歴史記述、言語行為、学問的言明(文学・哲学・科学)の各方向から「物語り」の意味を捉えていく。「物語る」ということは、世界を事物総体と捉えるのではなく(反実在論)、出来事の網の目と捉える(存在論)うえで、解釈学的行為である。そして歴史的な時間とは、流れるもの(物理学的時間)でも、知覚が捉える現在の振り幅としての過去・未来の把捉時(現象学的時間)でもなく、これらの異なる時間の像の重なりあうもの(解釈学的時間)であって、記述者の立場によって当然解釈は異なるものであり、その意味では解釈の解釈とならざるを得ないものが、歴史における物語り論というポイエーシス(行為)なのである。哲学における議論にとどまらない幅広い視野がすばらしく、本書を魅力的なものにしている。
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野家先生の本にはじめてふれました。最初はペダンティックに思えましたが、読み終わることには非常にわかりやすいということに気づきました。秀作だと思います。
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今年、最大の収穫。脳内のシナプスがバチバチと火花を散らしながら、次々と新しい回路を形成した。
http://d.hatena.ne.jp/sessendo/20090904/p2
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「物語」と「歴史」の関係、そして科学、文学、宗教との関係を「語る」行為で読み直す一冊(「物語論的歴史哲学」)。
本書によれば人間とは、「諸々の出来事を一定のコンテクストの中に再配置し、さらにそれらを時系列にしたがって再配列することによって、ようやく『歴史』や『世界』について語りはじめることができる」「物語る動物」。
だとすれば、既成の世界イメージを異化する新しい物語の語り部は、文学だけでなく科学の分野からもそして、哲学の文屋からも出現可能。
野家先生といえばローティの紹介者というイメージが強いのですが、本書を一読すると、そのイメージも一新する。哲学紹介者ではなく、日本人の哲学者がここにもひとり。
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「物語る」ということは、どういうことか。僕としては、パターン・ランゲージを用いた対話ワークショップの意味と意義を考えるために参考にしたい。
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ヨーロッパ系の言語では、「歴史」と「物語」とはギリシャ語の「ヒストリア」に由来する同根の語にほかならない。英語では後に"history"と"story"とに分化してそれぞれ「歴史」と「物語」の意味を担うことになったが、フランス語やスペイン語やイタリア語では今でも両者に同じ語が当てられていることはよく知られている。p176
<メモ>
フランシス・フクヤマ『歴史の終わり』
議論の端緒
<メモ>
ビートたけし震災名言
今回の震災の死者は1万人、もしかしたら2万人を超えてしまうかもしれない。テレビや新聞でも、見出しになるのは死者と行方不明者の数ばっかりだ。だけど、この震災を「2万人が死んだ一つの事件」と考えると、被害者のことをまったく理解できないんだよ。
じゃあ、8万人以上が死んだ中国の四川大地震と比べたらマシだったのか、そんな風に数字でしか考えられなくなっちまう。それは死者への冒涜だよ。
人の命は、2万分の1でも8万分の1でもない。そうじゃなくて、そこには「1人が死んだ事件が2万件あった」ってことなんだよ。
http://naokitree.blog33.fc2.com/?mode=m&no=129
<序文「歴史の終焉」と物語の復権>
歴史は絶えず生成と変化を続けていくリゾーム状の「生き物」なのである。p12
大森荘蔵、歴史記述とは「過去の制作」にほかならない。『いま哲学とは』p13
<第1章 「物語る」ということ―物語行為論序説>p16
「知覚的体験」を「解釈学的経験」へと変容させる解釈学的変形の操作こそ、「物語る」という原初的な言語行為、すなわち「物語行為」を支える基盤にほかならない。p18
「語用論的パラドックス」:「私は今ここにいない」Cf. J. J. オースティン
顕在的な遂行的発言の場合、「今・ここ・私」という指標語は「話者の直接的現前」を保証する文法的枠組みの役目を果たしている。p50
ロラン・バルト「われわれは今や知っているが、テクストとは、一列に並んだ語から成り立ち、唯一のいわば神学的な意味を出現させるものではない。テクストとは多次元の空間であって、そこでは様々なエクリチュールが結びつき、異議を唱えあい、そのどれもが起源となることはない。テクストとは、無数にある文化の中心からやってきた引用の織物である。(中略)仮に自己を表現しようとしても、彼は少なくとも、次のことを思い知らずにはいないだろう。すなわち彼が<翻訳する>つもりでいる内面的なものとは、それ自体、完全に合成された一冊の辞書にほかならず、その語彙は他の語彙を通して説明するしかない、それも無限にそうするしかないということ。→クリステヴァ「間テクスト性(inter-textuality)p58
「一篇のテクストは、いくつもの文化からやってくる多元的なエクリチュールによって構成され、これらのエクリチュールは互いに対話を行い、他をパロディー化し、異議を唱え合う。しかし、この多元性が収斂する場がある。その場とは、これまで述べてきたように、作者ではなく読者である。読者とは、あるエクリチュールを構成するあらゆる引用が、一つも失われることなく記入される空間にほかならない。あるテクストの統一性は、テクストの��源ではなく、テクストの宛先になる。しかし、この宛先はもはや個人的なものではありえない。読者とは歴史も、伝記も、心理も持たない人間である。彼はただ、書かれたものを構成している痕跡の全てを同じ一つの場に集めておく、あの誰かにすぎない」『物語の構造分析』
T. S. エリオット「芸術家の進歩とは、いわば絶えざる自己犠牲、絶えざる個性の滅却なのである」p70
物語を特徴づけるのは何よりも「起源の不在」である。物語は、今現在の話者によって語り伝えられた姿でしか存在しない。「起源」は幾重にも折り畳まれた歴史的経験の重層性の中にすでに姿を消しているのである。p76
[経験について]p82
経験は「語る」ことを通じて伝承され、共同化される。やがてそれは「生活世界(Leebenswelt)」の下層に沈澱することによって、われわれの行為を制約する「生活形式(Lebensform)」へと転化するであろう。あるいは、それを「アポステリオリ」の「アプリオリ」への転化と言い換えてもよい。つまり、「経験」の反復によって獲得された規範が、沈澱を通じて間主観化されることにより、逆に「経験」を可能にする条件へと転成を遂げるのである。Cf. 藤本隆志「根拠と根源」
経験が因果の関係了解である以上、経験は「物語」を語る言語行為、すなわち物語行為を離れては存在しないのであり、逆に、物語行為こそが「経験」を構成するのである。p85
<第2章 物語と歴史のあいだ>p97
J・G・ヘルダー「人は現在のことは指し示せばいいが、過去のことは物語らねばならない」『言語起源論』
ウィトゲンシュタイン「語りえないことについては、沈黙しなければならない」『論理哲学論考』
「話し」の自由性と「語り」の形式性というコントラスト。Cf. 西郷信綱『神話と国家』p100
歴史家ポール・ヴェーヌ「小説と同じで、歴史はふるいにかけ、単純にし、組み立てる。一世紀を一頁にしてしまう」p123
<第3章 物語としての歴史―歴史哲学の可能性と不可能性>p125
【1. 歴史の「側面図」と「正面図」】
「歴史の形而上学」の端緒と原型=アウグスティヌス『神の国』p138
【歴史哲学をめぐる6つのテーゼ】p158
①過去の出来事や事実は客観的に実在するものではなく、「想起」を通じて解釈学的に再構成されたものである。[歴史の反実在論]
②歴史的出来事(Geschichte)と歴史叙述(Historie)とは不可分であり、前者は後者の文脈を離れては存在しない。[歴史の現象主義]
③歴史叙述は記憶の「共同化」と「構造化」を実現する言語的制作(ポイエーシス)にほかならない。[歴史の物語論]
④過去は未完結であり、いかなる歴史叙述も改訂を免れない。[歴史の全体論(ホーリズム)]
⑤「時は流れない。それは積み重なる。"Time does not flow. It accumulates from moment to moment" [サントリー・テーゼ]
マルクス「五感の形成はいままでの全世界史の一つの労作である」『経済学・哲学草稿』p184
⑥物語えないことについては沈黙せねばならない。[歴史の遂行論(プラグマティックス)]
いかに荒唐無稽な物語文であっても、われわれはそれをアプリオリに虚構として排除する権利を持ってはいない。真実であるかの���別は、あくまでも全体的布置との整合性という基準に従って事後的になされるほかないのである。p181
新約聖書ヨハネ伝の冒頭「初めに言葉(ロゴス)ありき」p209
クワイン「二つのドグマ」のよく知られた一節「地理や歴史といったごく普通の事柄から、原子物理学やさらには純粋数学や論理学に属する最も深遠な法則に至るまで、われわれのいわゆる知識や信念の総体は、周辺に沿うところだけが経験と接触する人口の構築物(man-made fabric)である。すなわち、言い方を変えれば、科学全体はその境界条件が経験であるような力の場(a field of force)のようなものである」『論理学的観点から』→クワインの全体論的科学観
<第6章 時は流れない、それは積み重なる―歴史意識の積時性について>p262~
【1. 知覚的時間と想起的過去】
Eg. 川の流れなど→これは物体の位置移動によって時間の経過を表象するという意味で「運動学的比喩」と呼ぶことができる。
フッサール、知覚的現在「過去把持―原印象―未来予持」p266 『内的時間意識の現象学』
【2. 非連続の連続】
「覆水盆に返らず」
継起する出来事の非連続性と連続性の「矛盾の統一」であり、言ってみれば「非連続の連続」の意識である。Cf. 西田幾多郎
想起は連続的なビデオ画像ではなく、非連続的な出来事のスナップショットなのである。p275
過去の出来事は知覚的現在の下層に活性化可能な形で「沈澱」しているのだと言ってもよい。しかし、その連続性は「流れ」の連続性ではなく、「積み重なり」の連続性なのであり、むしろ「非連続の連続」と言うべきものである。p275
歴史家にとってのカノンともいうべき通時的整合性とは、堆積した時間の地層の間の整合性にほかならない。それゆえ歴史的時間は「流れ去る」という運動学的比喩ではなく「積み重なる」という地質学的比喩によって捉えられなければならない。それは均質的に流れる物理学的時間ではないのはもちろん、過去把持の連続性に基づく現象学的時間でもなく、むしろ重層的に堆積して地平の融合をもたらす「解釈学的時間」と呼ばれるべきものなのである。p278
【3. 八分半前の太陽】
地質学的比喩の前に立ちはだかるアポリア。
:太陽から発せられた光は、光速度が有限であるため、地球上のわれわれに知覚されるまでに八分半の時間を要することが知られている。すると、今現在われわれに見えている太陽は、八分半前の太陽ということになるだろう。今現在の太陽の真の位置は、知覚されている太陽の西方に約2度ずれているのであり、今は目にすることができない。今現在の太陽を知覚するためにはさらに八分半待たねばならないのである。すると、われわれは現在「過去の太陽を見ている」ということにならざるをえない。これは言うまでもなく、過去は過ぎ去ってもはや現前せず、想起されうるのみだ。という基本前提に反している。「過去」が「今現在」に露出しているというパラドックスである。
Cf. 大森荘蔵『新視覚新論』↔中島義道『時間論』
【4. 物語り文と重ね描き】p286
端的に言えば、八分半前の過去の太陽は、見えているのではなく理論的に「考えられて」いるのである。
八分半前の太陽=理論的構成体(theoretical entity)
「八分半前の太陽が今見えている」という文は、「八分半前に太陽から光が発せられた」という理論的出来事と「その太陽が今見えている」という視覚的出来事とを連関させる物語文なのである。p291
われわれは時間的に隔たった二つの出来事を「物語り文」を通じて重ね描いているのであり、そこには矛盾のかけらもない。その意味で、物語り文は「歴史的重ね描き」の装置なのである。p292
【5. 歴史的過去と「死者の声」】p292
体験的過去と歴史的過去との断絶を橋渡しするのは、ほかならぬ物語り文である。物語り文は基本的には歴史的過去に属する二つの出来事を結びつける歴史記述の文章形式であるが、それは同時に知覚的現在、想起的過去、歴史的過去をも相互に結びつけることによって、それらの間の懸隔を埋め、統一的な歴史的時間を形作る働きをする。いわば歴史的時間は物語り文の中に折り畳まれているのであり、そうした物語り文のネットワークが「積み重なる」重層的な時間を形成しているのである。したがって、地質学的比喩によって語られる歴史的時間は「解釈学的時間」であると同時に「物語り論的時間」でもあると言うことができる。p295
歴史=「死者の声」植村恒一郎『時間の本性』
<第7章 物語り行為による世界制作>p299
H・アーレント「リアリティは、事実や出来事の総体ではなく、それ以上のものである。リアリティはいかにしても確定できるものではない。「存在するものを語る(レゲイン・タ・エオンタ)」人が語るのは、つねに物語である」『過去と未来の間』p317
ウィトゲンシュタイン流にいえば「物語りの限界が世界の限界である」Cf. ヒトラーとウィトゲンシュタイン p324
⇒物語り行為は世界制作の行為にほかならない。
【4. 物語りと「人称的科学」】p324
[物語り行為の枠組み]
「複数の出来事を時間的に組織化する言語行為」その前提:ダントーの「二つの別個の時間的に離れた出来事、E1およびE2を指示する。そして指示されたうち、より初期の出来事を記述する」(物語り文 narrative sentence の定義)Danto "Narration and Knowledge"
[リアリティとアクチュアリティの差異 by 木村敏『偶然性の精神病理』] p330
ラテン語の語源をたどると、リアリティの方は「もの、事物」を意味するresから来ている。アクチュアリティの方は「行為、行動」を意味するactioに由来している。
リアリティ:現実を構成する事物の存在に関して、これを認識し確認する立場。
アクチュアリティ:現実に向かって働きかける行為の働きそのものに関して。
<あとがき>
私自身の「物語り論(ナラトロジー)」はむしろ哲学における「言語論的転回」から触発されたものであり、直線的には新田義弘の論文「歴史科学における物語り行為について」に示唆を受けて、私の専門分野である言語哲学(特にウィトゲンシュタインの言語ゲーム論とオースティンの言語行為論)と科学哲学(特にクーンのパラダイム論とクワインのホーリズム)の延長線上に構想されたものであった。p360
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大変面白いものだった。しかし、同時に(哲学上の)疑問が残った。あらゆる問題系を物語り論に回収し、「物語りえぬことには沈黙せねばならない」との結論は少々違和感が残る。もう一つの違和感は、柳田国男を引き合いに出していることだ。つまり、近年の物語の復権と柳田の物語の墨守は簡単にパラフレーズできるものではないのに、そこをつなげてしまっていることに問題がある。これでは、かつて丸山真男が批判した「一周遅れのトップランナー」としての日本を想起させることになる。
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歴史、科学、文学、哲学を物語るという地平から位置付ける。増補前からあった物語り論、歴史論が出色だと思う。柳田國男に対する評価を新たにした。
ただし、前提とされる哲学的教養レベルが結構高い。誰にでもわかる昔話論みたいなものを想像していると痛い目に合う。
・「物語の衰退」は同時に「経験の衰退」をも意味する。
・理解不可能なものを受容可能なものへと転換する基盤である「人間の生活の中の特定の主題への連関」を形作ることこそ「物語り」のもつ根源的機能。
・リアリティとアクチュアリティ(理解可能と受容可能。非人称的科学と人称的科学)
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歴史は物語行為によって成立するものだという議論です。
この本を購入したのはずいぶんと昔。ずっと積読になっていました。最近、あるとき、電車で、となりに座っていた初老の男性が、この本を読んでいたのです。それをみて、「自分も読まなくちゃ」と思い立って、でも、それからさらに2年くらい経って、ようやく読み始めました。
まあ、なんとなく予想できる範囲内で議論が展開したなあという印象でした。【2019年8月16日読了】
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尻しぼみの尻切れトンボ感があるけど、興味深く読めた。そもそも結論なんてないから、こういうものかもしれない。
歴史は無数の物語り(=ナラティブ)のネットワークにのみ存在根拠がある。物語りは「語り手」と「聞き手」の解釈学的再構成によって生じるため、歴史もまた「間主観的構成」の所産である。脈絡を欠いた出来事は歴史的出来事ではなく、歴史は真実をありのまま描いているわけではない。既成の物語りが「主張可能性」を失い、重大な修正を迫られる可能性は十分ある。
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物語(ストーリー)ではなく、人が理解、認識して行う物語”り”とは何かという話。
大きな物語の終焉から小さな物語としての実存しかありえない状況を振り返り、歴史は物語りとしてのみ存在しうるという主張から始まる。
最終的に、科学含めてすべての人間の知識は、物語りとして理解できるという主張になる。
世界の認知として、人の理解(認知)、言語による分節化を基にする事や、大きな歴史の終わりと現状認識は、強く共感するが新鮮味は無かった。
最終的に科学の物語としてのありようについては、著者も参照しているが、まさにクーンやフーコーの議論とほぼ同じ。議論の流れや、表現が違うことに意義がある?
また歴史認識についてはカルチャラルスタディーズ(抑圧された少数民族の歴史は語られない等)との共通性を思い出した。