紙の本
時代に最も求められている能力を持つ人間が頭角を現す
2008/09/22 15:44
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:MtVictory - この投稿者のレビュー一覧を見る
シリーズ「逆説の日本史」の第12巻。本巻でカバーする時代は17世紀前半の頃である。今回は一冊すべてが家康がテーマとなっている。秀吉の死後、家康がどのようにして徳川幕府を成立させていったかを描く。
著者が家康を保守主義者と呼んでいるように、家康は日本の統治を鎌倉幕府時代に戻し、強化した。家康には改革者というイメージはない。関ヶ原にしても大坂の陣にしても家康は決して圧倒的有利ではなかったが、長年の経験を活かし、したたかにライバルたちを潰していったことが分かる。大坂夏の陣の頃には家康に対抗できるようなライバルはいなくなっていた。皆、力量不足で、家康に従うしかなかった。
時には謀略を使いながら、リーダーシップを発揮し日本を再統一した。長い戦乱の時代が続き、それに終止符が打たれたことは結果的には当時の人々が求めていたのが家康のようなリーダーだったということになる。
家康の凄さは高齢にあっても意志・野望が衰えることがなかったこと。自分の目標の達成のためには手段は選ばないが、決して無茶はしない。じっくりと構えて時を待つ。しかしここぞというタイミングは逃さない。決断力と実行力に優れていた。時流をしっかり読み、時流を掴んで、事を成している。しっかりした参謀役にも恵まれていたのだろう。文字通りの戦国レースは「チーム家康」が勝ち抜いた。
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逆説の日本史第12巻は徳川家康。家康を知っているようで知らなかった、目からうろこのお話も多く、ソレガシ的には大満足です。彼は信長とは違ったタイプの天才ですね。
2007.12.18読了
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まだ文庫化なっていなかったので、このサイズで購入しました。待てなかった…
早く読みたいけど、読みたくない、そんな微妙なラインで踏みとどまっています。
だって…西軍…フルボッコですよ…。
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関ヶ原の戦いから天下泰平まで、徳川家康の政策や方針を知ることができました。
これで信長・秀吉・家康という流れが完結したわけです。
とても興味深いものでした。
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久々に読んだ逆説の日本史シリーズ。関ヶ原の戦いから大坂夏の陣、覇権奪取までの家康政策がテーマ。
関ヶ原の戦いはどの角度からみても面白い。このテーマを一冊で終わらせてしまうのは惜しいな。
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子供のころ太閤記を読んで育ったので、徳川家康という人がどうにも好きになれない。信長が死んだあとで、謀略の限りをつくして天下人になった秀吉と、同じようなことをやったにすぎないのに、家康が悪くとられるのは、関西人のやっかみだけでなく、秀吉というキャラクターにある底抜けの明るさみたいなものかもしれない。
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12巻は家康だ。
家康の頭痛の種は,秀吉という一代の怪物が秀頼に残した膨大な遺産であった。関ヶ原が終ったばかりの頃は世の中には浪人があふれている。この浪人と秀吉の遺産が結びつけば,豊臣家はあっという間に10数万の大軍を組織することができる。家康はこの遺産を消費させるために,戦乱で焼かれた多くの寺社を豊臣家の手で復興してはどうかと親切ごかしに持ちかけた。それが太閤の供養になるというのである。淀殿と秀頼は愚かにもこの手に乗った。ここで,豊臣家は滅んだともいえる。もっとも,二人の立場で考えれば,こうすることで家康との融和を図り,乱を避けようという気持ちがあったのかも知れないが,とにかく多くの寺社がこの太閤遺産で再建された。京の寺々は応仁の乱であらかた焼けた。京阪神地方に今ある寺社は,秀頼や徳川政権によって再建されたものが以外に多い。この場合,徳川がやるというのは,実質的には『天下普請』で大名が手伝わされているケースがほとんどだが,秀頼再建のものは豊臣家がほとんど単独で建てたものである。いかに太閤遺産が膨大であったかがうかがわれるのである。
関ヶ原の戦いに勝ち,実質,徳川の覇権を確立した1600年から夏の陣で豊臣家を完全に滅亡させた1615年まで,なんと15年もかかっている。しかも,その15年はただの15年ではなく,人生五十年と言われた時代の,59歳から74歳までの15年である。よく待ったというか,よく堪えたというものである。そして家康は,豊臣滅亡の翌年,正確には1年も経たないうちに75歳の生涯を終えた。
徳川幕府は300年もながらえたが,その土台は家康が確立している。室町幕府は,足利尊氏のころは文字通り武士の第一人者であり,3代義満の頃は『日本国王』であり,6代義教は全ての人々に『魔王』と恐れられた。にもかかわらず,15代義昭はどうして大名の一人に過ぎない信長に反攻し追放されることになったのだろうか。これから作る徳川幕府が室町幕府のようにならないためにはどうすればよいのか。どうすれば永続するのか。家康の取った政策は,『大名統制』であった。
大名統制の内容は2つにわけられ,一つは政治的・政策的にいかに大名を封じ込めるかということと,もう一つは思想的に徳川家の優位を高める,言葉をいい変えれば『徳川』の名を神聖なものとし,反逆は倫理的にも悪であるという,常識を打ち立てることであった。
政治的・政策的には,財力と権力の分断である。室町幕府が滅んだのは,諸大名の力が強すぎたからである。このため,外様にはある程度の領地を与えたが,中央政府の機構には参加させない。逆に,譜代の家臣は禄高は小さいが,政治の中枢に置くといったように。
思想については,朱子学だ。朱子学は主君・父母に絶対の忠誠を尽くすことを最良とする。徳川家に反攻するのは悪であるという教育を根付かせるため,朱子学を幕府の公式の学問とした。しかしながrあ,皮肉なことに,朱子学が勉強され,研究されてくると,徳川が主君なのか,いや違う,日本の主君は天皇家だということに行き突いてしまい,明治維新を迎えることになるのである。
家康は,このようにして,大名であろうが,朝廷であろうが,分断支配した。しかし,分断支配の最高傑作は,本願寺の分断であっただろう。信長ですら,石山本願寺には11年もの長きにわたり手こづっている。では家康はどうしたか。それは,内部分裂を利用したのである。
本願寺では,顕如の嫡男である教如が跡を継ぎ十二世となった。しかし,顕如の未亡人である如春尼が顕如の末っ子の准如こそが正統な跡継ぎだという遺言状があるとして秀吉に裁定を求めた。秀吉は,准如こそが後継ぎだと裁定した。秀吉没後,教如は家康から寺地を贈られた。つまり,本願寺はこの時から2つになったのである。准如の豊臣系を西本願寺といい,教如の徳川系を東本願寺という。もともとは同じ一向宗(浄土真宗)であったものが,今では浄土真宗本願寺派(西本願寺)と,真宗大谷派(東本願寺)となっている。
そうして,力を分散しつつ,更に宗教の骨抜きを行っている。それは,江戸時代の宗教統制策として最も有名な『檀家制度』である。檀家制度とは,江戸時代以降,寺院が檀家の葬祭供養を独占的に行うことを条件に,寺と檀家の間に取り結んだ関係を言う。檀家に対して,檀那寺への参詣,父母の法要,寺への付け届けなどが義務として明示された。また切支丹の監視も檀那寺の義務となった。これらの行為を拒否することは檀家からはずされ,切支丹のレッテルを張られて処罰されることを意味した。つまり,江戸時代の檀家制度は,寺が檀家を完全に人身支配した制度であり,檀家は寺の経営を支える組織として組み込まれたものであり,磐石の体制として作り上げられた。檀家制度は明治以降現在に至るまで寺墓を持つがゆえに葬式法要を媒介とし儀礼のみで連綿と続いている。
念仏にせよ,法華にせよ,中世の日本人の多くはその信者であり,まさに宗教のためには『自爆テロ』も辞さないような信徒があちこちにいた。徳川も,その譜代の家臣に一向一揆で反乱を起されている。それが江戸時代は全くおとなしくなった。この檀家制度実施以降,仏教勢力による一機は唯の一度もなかった。なぜ,仏教の宗派は元気がないのか。たとえば新興宗教の団体のように,あるいはキリスト教の信者のように,社会に出て盛んに布教活動をして教勢を拡大しようとしないのか。これは昔からではない。それこそ,中世にはどんな宗派も盛んに活動した。毎日のように寺へ出かけ,お坊さんの法話を聞いたり,町へ出て友人・知人や見知らぬ人々に入信を呼びかけたり,あまつさえ対立している宗派と武器を取って殺しあうことすらした。それがこの檀家制度以来まったくなくなった。国民全てはどこかの寺の檀家とならねばならず,それを離脱する自由はない。たとえば念仏の家に生まれ,法華の教えの方が魅力的だと感じても,あるいはその逆でも改宗は許されない。寺の側から言えば,昔は自由競争だったから魅力のある宗派となるために僧侶も日々研鑽し,信徒のことを真剣に考えなければならなかった。だが,この制度以降はどんな無愛想なことをしても,客は逃げないし,客の方からの付け届けすら義務付けられている。こうなると,もうお客さんではなく,完全に人身支配したもの,つまり奴隷であった。この状態が江戸時代は続き,日本の仏教は完全に骨抜きにされてしまった。葬式仏教などと陰口をたたかれてしまっている。もちろん,懸命に葬式仏教からの脱却を指向しているところはあるが。
信長・秀吉・家康の宗教政策によって,我々日本人は宗教的情熱を奪われたが,そのことによって,人類の病気ともいえる宗教戦争の害から開放されたこともまた事実なのである。
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信長、秀吉、家康の流れを捉える。家康はさらに鎌倉、室町幕府の事例を参照できたから、江戸幕府は260年も続く基礎固めに成功したのではないか。
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2005年刊行。家康論。特記すべき事項なし。
少しでもまともな研究書をかじっていれば、本書のレベルでは正直低いと言わざるを得ないので、見切り時なのかもしれないが、毛利・島津の反徳川行事の具体相は未知だったため、その再現は良かった。
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大河ドラマ(青天を衝け)を見ている身としては、面白い箇所が沢山ありましたが、資料が残っていないためか、いつもよりか、井沢氏の「逆説」の部分の裏付けが弱いというか、説得力に欠け、少し小説めいたところがあったように思われます。
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織田信長の急死で挫折した天下統一を成し遂げたのは「中国大返し」で光秀を討った羽柴秀吉であった。家臣の立場で織田家へ忠義を尽くす名目で地歩を固めていって五摂家と並ぶ豊臣家を創設し最終的には関白から太閤となった。もちろん死後に権力世襲を予定してのことであったが(前巻)、おなじことを修正した形でしたのが徳川家康であった。 戦国武将の中で抜きんでた才能とまでは言えなかったかもしれないが、読書家であり長期計画によって徳川三百年の平和を築いた。宗教の武力解除は成功したが。一橋慶喜が出てもう一つの帝という火種は爆発した