紙の本
家族でしか書けない奥深い井上光晴の肖像
2022/01/13 20:59
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投稿者:まなしお - この投稿者のレビュー一覧を見る
井上光晴の小説は数作しか読んでいないが、常に気にはなっていた。この作品は、娘である井上荒野が書いた井上光晴の評伝のようなものだ。家族でしか書けないような、非常に奥深い井上光晴の肖像が描かれている。大変面白く読んだ。井上光晴のまだ読んでいない作品も読みたくなってきた。
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以前にんだ「もう切るわ」の歳さんは光晴氏だな、と思いながら読みました。’もう切るわ’の言葉の意味もわかるので、両方読むのがお勧めです。
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井上荒野さんの父である光晴氏が妻や子達に語って聞かせた生涯は、大抵嘘であるということが光晴氏が亡くなってからわかっても、おどけた風に一言いう家族がなんだかほほえましかった。荒野さんの小説は折に触れて読んでいるが、光晴氏の本は読んだことがないので、そこが感想を語るにあたって残念である。機会があったら詩集など読んでみたくなった。
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作家の父を持つというのはどういうことかがよくわかる本だった。
荒野さんの小説はだいたい読んだことがあるが、光晴さんの本は
読んだことがなかった。今度読んでみようと思った。
娘の目から父がどのような人物であったか、娘に対してどのように
接していたのか、接し方に戸惑っていたのか、そういうものが
暖かな目線で書かれていて非常に面白かった。
父のいんちきな話を家族全員疑いもしない家風とか、そういう
家族という普通のようでいてどの家庭も普通でない感じが
とても上手に説明されていた。父であるけれど、時たま
父ではなく一個人の男という気配を無防備にさらけ出して
しまう父に対しての娘の戸惑いとか、さすが小説家だけ
あって娘が父のことを書いただけの小説なんだけど、
最後まで面白く読めた。そして父・井上光晴にとても興味を持った。
小説家という特殊な人間をほかの視点から見てとらえる文章が
好きだが、これはそういう文章の中でも特に面白かった。
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著者は詩人・小説家の井上光晴の長女である作家井上荒野。
父・井上光晴の家族や周辺の人々との関係から、日本現代文学史に見る氏とは違ったユーモラスな井上光晴氏が浮かぶ。
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出身地から生い立ちから、すべて嘘。トランプや花札をすれば必ずインチキをし、食事へのこだわりや勝手な思いつきで家族をふりまわし、愛人をつくって朝帰りを繰り返す。まったくもってひどい父親だけど、「ひどい感じ」というと、真剣に腹を立てるより、「まったく…」と言いながら、力の抜けた笑いが浮かんでくるような感じがするから不思議だ。
だいたい、出生の話とか「株のおじさん」だとか、井上光晴の話の辻褄があわないことに家族みんなが気がついていながら、あえて追及しようとしなかったというのも、ふつうに考えるとだいぶ抑圧的な家庭を想像してしまうのだけど、井上荒野が描く光晴は、わがままではあっても、抑圧的な感じはしない。それはたぶん、彼のわがままが、他人を支配することで力を感じたいという欲望からくるものではなく、自分自身の強い欲望から発していたせいではないか。たとえて言えば、支配する人がいて初めて王様になる人と、初めから自分が王様であることを疑わない人の違いのような。だから、この本で描かれるチチ・井上光晴は、呆れるくらいわがままだけど、とてつもなく魅力的で、「たいへんだったけど面白かった」というお母さんの述懐もわかる気がする(とは言っても自分勝手すぎ!とは思うけど)。
そして、あらためて井上荒野の文章の美しさ、上手さ(本人が「読了することが幸福なのでなく、読書している時間が幸福であるような小説」を書きたい、と書いているが、これはまさに井上荒野の文章を読むときに私が感じる幸福だ)を堪能しつつ、この力は確かに井上光晴から彼女が受けとってきたものなんだなあと気がついた。二世作家だからということではなく、読みものではない小説とは何かを学んできた人の文章ということ。さりげないユーモアも絶妙で、大いに楽しんで読みました。
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井上光晴氏の本は読んだ事がないのだけれど、作家である娘さんに書いてもらえた事は幸運であるのではないかと思う。
しかも、付き合った男子達に『君はファザコンだね』みたいに言われてしまう荒野さんである。
非常に興味深かった。
作家の家というもののひとつの形態を見た気がする。
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タイトルが『ひどい感じ』というので、光晴氏に何かよくない想い出があるのかと思ったのですが、そういう訳ではなく、光晴氏の書かれた詩の中の一節だそうです。
高見順さんの『いやな感じ』をもじって思いついたのかもしれないと荒野さんは語られています。
お父様の光晴氏は家族にも出生地を偽って中国の旅順生まれ(本当は九州の福岡)だと言ったり、「あんたたちは嘘だと思うだろうけどねぇ…」と実際にどの話も小説の一コマのようだったりしたそうです。逆に言えば、嘘・本当にかかわらず、小説的な話ばかりを私は聞いたといえるとおっしゃられていますが、生まれを家族にまで偽るのは普通ではない気がしますが、小説家らしいエピソードのように感じられました。
ⅠからⅣまでに章立てして書かれていますが、Ⅲの小説の創作に関する部分が一番面白く感じられました。
荒野さんの「あれの」というお名前は本名で、光晴氏がつけられたそうですが、男性に間違えられたり、最大の弊害は「平凡な人生が似合わないこと」だそうです。
荒野さんは、大学生の頃お忙しいお母様にかわって、光晴氏のノートに書いた小説を原稿用紙に清書する手伝いをし、小説の書き方を学んだそうです。
デビュー作の『わたしのヌレエフ』を読んだみんなが「お父さんに文体がそっくりですね」と言ったそうです。はっきり言えば、真似していたそうです。コツさえつかめば真似しやすかったそうで、そんなものかと思いました。
お父様は、この世界の「ぎりぎりの状況を逆転して前に進むために描き続けた」そうです。
「小説のテーマなんか、俺は瞬時に十くらい思いつくよ」「どう、一個十万円で売ってやろうか」などというやりとりもあったそうです。
小説家同士の父娘のやりとりは本当に面白かったです。
読了することが幸福なのではなく、読書している時間が幸福であるような小説。
私はそういう小説を書きたいと思っているが、私にとって父の小説はそういうものだったとの賛辞を述べられています。
エピローグで『もう切るわ』という荒野さんの長編小説はお父様の「もう切るわ」というメモ書きを発端に愛と死と嘘をモチーフとしたストーリーだとおっしゃられていて是非読んでみたいと思いました。
最後のお父様の誕生日には「日本のドストエフスキーは自分だ」というお父様にドストエフスキーの子供向け小説の『孤児ネルリ』をプレゼントしたという話や、子供の頃、お父様と自転車の練習をした日にお顔をくしゃくしゃにされて笑っていたのが記憶の中で、特別な位置を占めているというのが、じんわりとして、小説家、井上光晴の他に普通の父親としての一面もおありだったのだと思いました。
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単なる父の思い出ではなく、彼女なりの咀嚼と表現がなされた作品。井上光晴がどんな人なのか知りたく手に取ったが、彼女の文章を読むとその父がどれほどの能力を持っているか想像できる。