紙の本
象の散歩
2006/09/20 12:22
15人中、15人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:くにたち蟄居日記 - この投稿者のレビュー一覧を見る
エセーが新訳になったので購入して読み返している。
高校時代に岩波文庫のエセーを読んだ。エセーという本は読者に人生経験を要求することに最近気が付いた。親のすねをかじっている高校生がエセーを読み 理解することはどだい不可能である。但し 難しい本を読んで分かった気がするのも青春時代の特権だが。
モンテーニュはゆっくりとした口調で語る。その様子は象の散歩のようだ。ゆっくりと ゆったりと歩く。それがエセーの基調である。
新訳は今後配本されていくらしい。全巻出るまでには時間も掛かろう。但し 配本を待っている間に更に人生経験が増して 読み込む「深度」が深くなれたら それも読書の醍醐味だ。
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かの有名なShu Uemura(植村秀)が二十台前半で肺結核を患った際、病床で読んでその後の人生に大きな影響を与えたというので感化されてみた。別名『随想録』
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人間の理性、判断力、知識には限界があることを謙虚に認め、試行錯誤を恐れずに真理を追究しようとしたモンテーニュの思想
「どこで死が待ちかまえているのか、定かでないのだから、こちらが、いたるところで待ち受けよう。死についてあらかじめ考えることは、自由について考えることにほかならない。死に方を学んだ人間は、奴隷の心を忘れることができた人間なのだ。」
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註釈で興味ぶかかったのは、イタリア語のtristezza。名詞では悲しみと悪意の両方の意味があるそうです。モンテーニュは悲しみというものを自制心を失うものとして警戒しています(第1巻2章)。それにしてもなぜ意味が両義なのか、そのルーツを知りたいものです。形容詞triste ならば悲しいで、tristo となれば悪意がある、と意味が変わります。まれに前者でも悪意があると解釈されます。(p.26)
英語でもフランス語経由でtriste などがありますが、悪意という意味はありません。ノーテンキなイタリア人は、悲しみというものに悪意を嗅ぎとる習性があるのかもしれません。日本人の感覚からすれば、人生は美しいというよりも、人生ははかない、哀しい、というほうがしっくりきます。モンテーニュの随筆をめくって、人間としての自制をうながされるのも幸福なひとときです。読みようによって、モンテーニュはいくらでも変現しそうです。翻訳のよさがそれを保証しています。
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だいぶ前の事だが、翻訳という技術が全く情けないものになったと誰かが嘆いていたが、最近の翻訳者たちはすごいのではないか?宮下訳のエセーも従来にない読みやすさがある。第1巻でも全部読めたのは訳者のおかげである。
「死など恐ろしくはない」といいながらいつも死について考えているモンテーニュがなんとなくおかしいなどど思いながら読んだ。
英才教育を受けフランス語よりラテン語を得意としたモンテーニュという人となりも考えさせられるものがあったし、若くしてさっさと隠居し、塔にこもって出てこない館主のわがままを支えた人たちの事も想像してみたくなる。
現代では、隠居しても、こんなわがままはとても通らないのは言うまでもないが、当時だって容易な事ではなかったのではないのかな。
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エリック・ホッファーが暗記出来るほど読んだという事で手にしたのですが、面白いです。 難しくなく、スッと入れるのは翻訳家の方の努力の賜物だと思います。
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仕事の休憩時間の愛読本。びっくりする内容が淡々と平易な文章で語られていて、何とも面白い。勿論モラリストとしての随想もあり、時代を選ばずに読み継がれているのも納得の古典。だからフランス文学はやめられない。
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16世紀の思想家であるモンテーニュの代表作品です。古典とはいえ、最近でた新訳版なので、かなり読みやすい文章になっています。
「悲しみについて」「我々の行動は、その意図によって判断される」「恐怖について」「同じ意図から異なる結果になることについて」等々、興味深いテーマについて著者の思うところが書かれています。
読みやすい文章と興味深いテーマ。この2つの要素が揃っているにもかかわらず、読了まで2年もかかってしまっています。(正直、前半部分の内容は忘れてしまってます。(^_^;))
本作には過去の文献から多数の引用があるのですが、それが殆どすべて古代ギリシア・ローマ時代のもの。古代ギリシア・ローマ時代から、本作が書かれた16世紀の間には「キリスト教一色の中世時代」という、ある意味哲学の長期停滞があるので、引用がこの時代のものに偏るのは仕方がないことですが、現代の読者である僕にとっては、アリストテレス、ピュタゴラス、アルケシラオスというような「・・・ッス」が氾濫する文章を、読み続けるのは正直辛いものがありました。
示唆に富み、読むだけの価値は十分ありますが、読まれるときには、それなりの覚悟が必要かなと思います。
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大学の授業の教材ですこし読んで
そのあとすぐ 古本屋に行って原本買ったことを覚えてます
ものの見方とか とらえ方の教習本みたいな感じ
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第二十五章 衒学について
(a)われわれは他人の意見や知識をしまっておく。そしてそれでおしまいである。だがそれをわれわれ自身のものにしなければならぬ。われわれは、火が必要になって、隣にもらいゆき、そこに火がたっぷり赤々と燃えているのを見ると、腰を据えて温まり、自分の家へ火を持って帰るのを忘れてしまう人によく似ている。(中略)ルクルスは戦争の経験がないのに、書物を読むだけであれほどの偉大な将軍になったが、はたしてわれわれのようなやり方で書物の知識を身につけたのだろうか。
読書を習慣とするものは、みな多少なりともこの文章にドキリとするのではないだろうか。読書は他人の頭脳を借りる行為であるから、ただ答えを得るためにそれを求めるとかえって愚鈍になりかねない。
モンテーニュがいうように少なくとも賢くなるためにはわれわれ自身の知恵によるしかないのだから。
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モンテーニュ(宮下志朗訳)『エセー』(1)白水社、2005
ミシェル・モンテーニュ(1533年〜92年)はフランス南西部ボルドー付近に生まれ、ユダヤ系だったらしい。少年期は父の雇った医師によってラテン語で育てられ、トゥールーズで法学を学び、法官になった。父が死ぬとモンテーニュ城を相続し、37歳で法官を引退し、1570年から『エセー』を書き出す。出版は1580年だが、88年版に加筆をしており、本書は『エセー』のファンであったグルネー嬢が整理した1595年版にもとづいている。
この本は第1章から第25章までを収めている。長短さまざまな随筆で、主張するところは良識とか、人間の能力の頼りなさとか、歴史の重視などである。モンテーニュの生きた時代に関する考察も多い。それは「戦争というものはそもそも良識をそこなっても理屈がとおる、多くの特権を有している」時代だった(第六章「交渉のときは危険な時間」)。法官らしく「意志以外に、われわれが支配できるものはないのだから、必然的に人間の義務に関するルールは尽く意志なるものにもとづいて構成される」(第七章)と言ったりする。哲学的な問題も論じ、「恐怖というものが、われわれにとっては死よりも、はるかにやっかいで、がまんできないものである」(第十七章)「死のほかは、なにごとでも仮面をつけることができる。……この大詰めにおいては、もはや見せかけもなにもなくて、率直にやりあうしかない。壺の底にたまった、まじりっけなしのものを見せるしかないのだ」(第十八章)。「人生は、それ自体は善でもなければ、悪でもない。おまえのやり方次第で、それが善の場ともなれば、悪の場ともなるのだ。もしおまえが一日生きたならば、それですべてを見たことになる。その一日はすべての日と等しいのだ」(第十九章)など、考えさせられることも多い。第二十章「想像力について」は、ショック死や性同一性障害、邪視、浣腸、「魔法の結び目」(結婚初夜の性的不能)などについて論じていて、科学史の材料としても興味深い。第二十一章「習慣について、容認されている法律を安易に変えないことについて」では、主にヘロドトスを論拠にいろいろな習慣のちがいについて論じている。伝聞にのっとっているので、にわかに信じがたいものもある。ちなみにモンテーニュの時代、中国の情報はまだ伝わっていないはずだが、インドの習俗には言及がある。また、この項目には宗教改革を「あやまちの数々を打倒しようとして、確実で十分にわかっている悪徳を、あれこれと推し進め」、「自己の良心や、ごく自然な知識・経験を攻撃するような悪徳」としている。第二十四章「教師ぶることについて」と第二十五章「子供たちの教育について」は教育論である。「勉学への意欲と愛情とをそそること、これがなによりも肝心なのです。さもないと、たくさんの書物を背負わされたロバができあがるだけです。……しっかりと学問をおこなうには、ただ自分の家に泊めるだけではだめで、学問と結婚しなければいけないのであります」という。知識でなく判断力を育てるには「その精神の力量に応じて、ものごとを味わわせ、みずから選択、判別させるようにして、とにかくその歩様をきちんを見守ってあげることです」、「子供たちの歩調を受けいれ���上で、彼らを導いていくというのは、高尚にして、強靱な精神によってはじめてなしえる」としている。
全体に軽妙して含蓄に富むが、こういうエッセーというのは、どう書いても自己中心的になるのは避けられないと思う。それはモンテーニュも自覚しているようで、「こんなたわいない、むなしい主題のために、きみの暇な時間を使うなんて、理屈にあわないではないか。では、さらば」と最初に言っている。
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放送大学「歴史と人間」
第8回(5月31日)
モンテーニュとマリー・ド・グルネー
第9回
マルタン・ゲール、メノッキオ、そしてピナゴへ
http://www.ouj.ac.jp/hp/kamoku/H27/kyouyou/B/kiso/1234226.html
文学のエコロジー
http://www.ouj.ac.jp/hp/kamoku/H26/kyouyou/B/sougou/1847449.html
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16世紀に書かれたモンテーニュの随筆。根が暗いのでこれを読んで以来「人生に、ふんわりとした平静さ」をもたらす為に夜な夜な死について考えてる。
第19章「哲学することは、死に方を学ぶこと」
死に方を学んだ人間は、奴隷の心を忘れることができた人間なのだ。
人生を大いに謳歌したというなら、もうたらふくいただいたのだから、満足して立ち去るがいい。
人生は、それ自体は善でもなければ、悪でもない。お前のやり方次第で、それが善の場ともなれば、悪の場ともなるのだ。
人生の有用性とは、その長さにではなく、使い方にある。
死んで不幸になった人間を、見たことがあるか?
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「私はなにを知っているのだろうか?」
連綿と続く修辞の洪水、引用の濁流、、、
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「わたし自身が、わたしの本の題材なのだ」
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うーん
ちょっとしか読まなかった。
これを読むのは、もっとじじいになってからでいいかな。
今はまだいいや。