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左でもない、右でもない。これまでの言説が殻に籠もって何も生み出してこなかったのは何故か。状況を打開するために一人ひとりが自覚すべきことは何か。久々に、中道を行き、かつ骨のある論に出会ったような気がします。
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[ 内容 ]
「ひたすら謝罪」でも、「嫌韓・反中」でもない真の対話がここからはじまる。
[ 目次 ]
第1章 日本人のあいまいな"主体"
第2章 対等な関係は可能か
第3章 「日本人」をもういちど原点から問い直す
第4章 東アジアの厄介な"主体"
第5章 東アジアの厄介なモダン
第6章 "主体"の摩擦
第7章 新しい"主体"へ
第8章 日本人の選択肢
第9章 東アジアの未来
[ POP ]
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[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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日本、中国、韓国の三か国間で度々歴史認識がずれるのは何故か。それを”主体”や朱子学における”理”という観点から解き明かしたのが当書。特に日韓関係には大きく比重が置かれる。
日本では丸山真男の「無責任の体系」論に見られるように戦争の確固たる責任主体がない一方、韓国では正義は"ウリ"(我々)の側にあり、日本の侵略は悪であるという構図が確立しています。ここまでは私も知っていましたが、著者は日本が「民族蔑視は悪」という道徳を以て"ゆるす"ことで韓国人の過激な反日ナショナリズムを招いたと主張する。
ここに、「反省する日本人」を演じ、韓国人と同じ論理で「反省しない日本人」を蔑視する左派、それに反発して「誇らしく栄光に満ちた日本」を標榜する右派とも、日本は韓国よりも優位に立とうとしているという点は変わらないことがわかる。そして、この左右両派の姿勢は冷戦と米の世界戦略という前提があったからこそ成立したことも説明される。
朱子学の"理"の構造は、普遍的な"一理"(統体太極、絶対的理)が個別的な"万理"(各具太極、相対的理)によって支えられている、というものだが、これが東アジアにおける”主体”の厄介な問題を複雑化させている。
著者は主体について、一理と万理の両方を認識して、宇宙的・自然的・歴史的秩序の全体性を認識する"主体的主体"=第一の主体、一理を認識しないで万理のみに営々とする"客体的主体"=第二の主体(教育勅語を教え込まれた日本人や、反日運動を行う中国人や韓国人などが例)、そして隠された地平で秩序を作り出し、両方の主体の上に立つ"第0の主体"という三層構造があることを指摘する。
ここを読み、日本の戦争の責任主体は曖昧だったし、反日が中国、韓国国民の不満の捌け口として利用されるというのも頷けた。
では、どのように歴史認識問題を克服するか。著者は"アイデンティティ"と"コンセプト"の融合体を作ることで、揺らぐことを厭わない他者への共感や痛みを包摂した主体を目指すことを提案する。
アイデンティティの確立、というと自分の外側よりも内側に関心を向け、本質を限定することに眼目が置かれがちである。そのため、アイデンティティを掲げて排外運動が行われることもしばしば。
それを乗り越えるためには、コンセプトを意識して、唯一絶対の仮想道徳的歴史観に陥らないように主体を打ち立てる必要がある。左派や一部韓国人の「日本=悪、韓国=善」または右派の「日本=善、韓国=悪」の構図は単純だけど危険。
私自身が歴史観の客体ではなく、主体として振舞うことは重要である。そうして真摯に歴史に向き合うために大いに役に立った一冊だった。
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とりわけ6章7章が良かった。
中韓の儒教的(朱子学的)価値観をもとにした対日観が歴史認識の問題にどう影響しているのかが良く分かる。
日本における右派左派の主張の歪み、欠陥が端的に指摘されるとともに、そのどちらでもない日本の取るべき方策がある。。。
ドイツの戦後処理にみる西洋的解決策と、日本が求めるべき東アジア的な解決策の相違も面白い。
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現在日韓関係がギクシャクしているが、これは韓国の歴史認識が「韓国=善/日本=悪」という図式でしか日本を見ていないことから起こっているという。それに対抗して日本の右派は「日本=正/韓国=誤」という図式で対抗しようとしてる。
これでは、解決するどころか対決が深まるばかりである。
著者の主張は、日本は「センター軸」を一刻も早く作りあげることが必要だという。左派でもなく右派でもなくまた中立でもない。左派と右派の両方にまたがって自由に対話する。そのためには、日本人にはもっと誇りが必要だと著者は言っている。
日中韓の対等な対話こそ歴史認識を理解する第一歩である。
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日中韓の対話は可能かという点から展開された本。
それぞれの国の固有の文化、その特性を理解しないまま相手の行動を自分の文化基準で判断してしまうことが多い。結果、誤解や威嚇などにつながっていく。
欧米では、ドイツの外交が有名だが、同じようには東アジアでは展開できないだろう。その1つの説が本書の中に書かれていると思った。
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韓国はますます嫌日感情が深まり、日本は日本で「嫌韓」をあらわにするようになっている。どうして両国は「対話」できないのだろうか? 韓日の対話を阻むものの正体に迫り、「対話」するための足場を築こうというのが本書のねらい。
『国民の歴史』(いわゆる「つくる会」の教科書)について、著者は
> たとえば中国の漢字からの離脱という意味で西尾は
>「かな」の役割を熱心に説くが、これは「世界でもっ
>とも完璧な文字」ハングルを宣揚する韓国知識人の語
>り口と同じである。(中略)何よりも「日本人」の連
>綿たる一貫性・単一性・等質性を主張してやまないそ
>の姿勢は、「われわれ韓国人」の本質的な一個性を主
>張してやまない韓国知識人と変わるところがない。
と述べている。これにはまったく同感で、このレベルで争っていては、永遠に「対話」は無理だと思う。では、「左翼」の言うとおり日本人は「反省」だけしていればいいのか? それもまたむなしい。
〈主体〉どうしの摩擦から脱出し、アジアの中で対話していける「日本」を打ち出していきたい。それには「自由と民主主義」を広めるために「謝罪も国際貢献もする日本」というポストモダンな〈主体〉を確立する必要がある、というのが著者の主張。結論から入っちゃうと「結局ソレデスカ」という感じもするが、それを補強するための論は緻密。なにより今後の「希望」を語る点で、「右」より「左」より力強さを感じる。
子どもっぽい「嫌韓」には与せず、自分だけいい子ちゃんになろうという「反省」にも陥りたくないという人には、かなりおすすめ。
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対話を可能にするためには対話のルールの共有が必要であろう。対話が可能な相手なのか?対話に値する相手なのか?対話によって何を得るのか?対話を阻んでいるのは歴史認識だけではなく,別にある気がする。
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右派左派だけではなく センターのポジションが必要であると説く
東アジア圏では 中国韓国両国の勢力経済力が大きくなってきた(当時)発言力もます
歴史的な発展の中で侵略国家となった 日本との違いが大きいようだ
歴史教育については どの国も正しいとは言い難い
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【由来】
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【期待したもの】
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※「それは何か」を意識する、つまり、とりあえずの速読用か、テーマに関連していて、何を掴みたいのか、などを明確にする習慣を身につける訓練。
【要約】
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【ノート】
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