紙の本
大好きです、リンドグレーン
2022/04/30 18:57
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投稿者:にゃんぱり - この投稿者のレビュー一覧を見る
北国育ちのせいかリンドグレーンの描く子どもたちの生活にとてもひかれます。
きびしい冬も楽しく遊び、やっと訪れた春を思いきり味わい、短い夏を愛おしみ、秋の実りに感謝する。
素朴で暖かい人たちに出会えます。
紙の本
楽しい子どもたち
2015/08/27 13:52
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投稿者:ぺろ - この投稿者のレビュー一覧を見る
やかまし村の子どもたちを読んだのでこちらも購入してみました。6人の子ども達の生活、遊びなどが描かれていてやかまし村の子どもたちを読まれた方にはぜひ読んでほしい本です。こちらも楽しかったです。
紙の本
翻訳物が好きな小学生。
2015/08/15 17:42
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投稿者:うさこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
『やかまし村』三部作の2作目です。
『やかまし村の子どもたち』を読んだ息子に頼まれて買いました。やかまし村の子どもたちののびのびとした暮らしに、現代の小学生でも憧れるようです。
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やかまし村はスエーデンの小さな農村。クリスマスにはショウガ入りクッキーを焼き、復活祭には卵パーティーで大もりあがり!夏休みには宝物をさがしに湖の島へ。子どもたちの四季おりおりの遊びやくらしを、いきいきと描きます。
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子ども時間をのびのびと生きる子どもたち。スウェーデンの四季の美しさや生活の様子の描写がたまりません。日本のパパやママや先生には?????の子どもたちの姿かもしれませんね。子どもを変にいじらない大人の姿から、スウェーデンの豊かさが感じられます。帰りたいよ~。
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これほどまでに分かりやすい四季は、日本だけかと思ったら
そうでもないという事が判明。
いやでも冬がすごいだけ?
また色々食べ物が出てきて美味しそうでした。
そして新しい住人誕生!
こうして人数が増えていくのはいいのですが
ふと別な事に気が付きました。
お手伝いさんは、住み込み?
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再読。クリスマスに大晦日にイースター。
ジンジャークッキーはおいしそうだし、大晦日に鉛を暖炉で溶かして、そのかたちで占いをするのも楽しそう。
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スウェーデンの小さな村・やかまし村に住むたった3家族の6人の子どもの過ごす春夏秋冬。
これを読んだ当時、「オッレの妹がうまれました」にあるケルスティンの挿絵を、何回も何回もまねして描いた思い出。
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やかまし村は、たった3軒の家で構成されている村で、そこで暮らす3人の男の子 & 3人の女の子(その後+1人の赤ちゃん)の日常が描かれています。 その6人の子供達の中の8歳の少女の一人称で語られる「遊びの毎日」は実に生き生きとしていて、少なくとも KiKi ぐらいの年齢の読者には遠く離れた国のお話でありながらも違和感を感じさせない物語なんじゃないかしら? 同じ作者の「ピッピ」のように奇想天外な登場人物が出てくるわけでもなし、「カッレ」のように大きな事件が起こるわけでもない。 でも読んでいて「あった、あった! こういうこと。 KiKi の子供の時はね・・・・・。」と似たような体験を思い出させる何とも懐かしく、微笑ましい物語の宝庫でした。
登下校の際に石の上を歩くことを仲間内の決まりとして、万が一何かの拍子で地面に足をつけちゃうようなことがあったら「死んだことにする」な~んていう遊びは KiKi にも覚えがあります。 もっとも KiKi たちの時代は、その遊びには子供なりにちゃんとした(?)本当の理由がありました。 当時は舗装道路と言えば自動車道路限定でした。 そして急増していた「交通事故」から学童自動を守るために通学路は畑の中とか民家の軒先が指定されていて、そこは未舗装だったんですよね。 だから一度雨でも降ろうものならそこかしこに水たまりができちゃって、そこを歩くと靴はドロドロになるし、下手をすると靴下まで泥水が浸み込んで気持ち悪いことこのうえない。 だからどうにかして靴をドロドロにしないために石の上を飛んで歩くというのは必要に迫られていたことでもあったんです。
でも、それをそのまま口にしちゃったら余りにもつまらないし、まして程よい距離感で都合の良い石があるわけでもなし。 だからそこに遊びの要素を持ち込んで、「石から落ちたら死んじゃうということにしよう!」となったんですよね。 この物語を今回再読するまで、そんなことはすっかり忘れていたんだけど、読み進むにつれて飛び石下校にまつわるアレコレを鮮明に思い出しました。 本来「靴を汚さないため」の飛び石下校だったはずなのに、子供の跳躍力ではとうてい辿りつけない石しか見つけられなかった時に「えいや!」とばかりに飛んでみたら、結局大きな水たまりのど真ん中に落っこちて、挙句そこで足を滑らせて靴はおろか、スカートからブラウスまでドロドロになっちゃって、帰宅するや否や母に叱られたことまで思い出しちゃった・・・・・ ^^;
さて、このシリーズで描かれる一つ一つの出来事は実際に似たような経験があって懐かしかったり、同じような経験はないものの、そこに流れる子どもらしい「遊びの精神」に共感してノスタルジーに浸ったりすること多し・・・なんですけど、その感覚は必ずしもこの物語に限ったものでもありませんでした。 例えば「小さな牛追い」みたいな物語でもそれに近い感覚は持つことができました。 でも、この物語を読んでいて初めて振り返ることができて、読了後も強く印象に残ったお話がありました。 それは、「乳歯が抜ける」という誰もが体験してきた事件(?)とそれに対しての子供たちの反応の物語でした。
KiKi 自身は乳歯が抜けきって永久歯にはえ変わって早○十年。 そんな事が自分の人生の中で起こったことさえ忘れていたけれど、今回この物語を読んでいてあの歯のあたりがむずかゆい感じやグラグラし始めた時の頼りなさ。 硬いものを噛んだときにたまたまそれがグラグラしている歯の部分にあたり、「グキッ!」となったような気がしたうえに涙が出そうなほど痛かったこと。 その歯のグラグラが気になって気になって、しょっちゅう口の中に指を入れて弄っていたことなんかをありありと思い出しました。
最近の子供は抜けちゃった乳歯をどうしているのか知らないけれど、KiKi の子供時代は上の歯が抜けたら縁の下へ、下の歯が抜けたら屋根の上に向かって投げ
「早く立派な歯がはえますように」
と唱えるのが決まり事のようになっていました。(← これは地域的な風習だったのかしら? そのあたりはよく知りません。) 我が家ではこれを子供1人でするのではなく、両親と一緒にするのが「家庭内ルール」だったため、父が帰宅している時で、母の手が空いている時間で、さらに明るい時間帯(つまり夜はありえない)にしなくちゃいけなかったので、歯が抜けてからこの行事が執り行われるまでにはそれなりの時間が空いてねぇ・・・・。 その間はその大切な「抜けた歯」をこの物語の子供達同様、小さな箱(それがどんな箱だったかは覚えていないけど)に入れて、暇さえあれば眺めていました。
決して眺めていて気持ちの良いものではなかったはずなんだけど、それでも何だか宝物のような気がしていたんですよね~。 あの抜けた歯というヤツは子供時代から大人へ向かうイニシエーションの賜物であり、人生の中で大人への階段の第一歩を示す象徴でもありました。 そんな大切な一大イベントだったはずなのに、人は生きていく中でそんなことがあったことさえ忘れ去っちゃうものなんだと思うと、何気にショックを受けたような気分になりました。
さて、この物語の中で1つだけ KiKi なんかの子供時代とは大きく違うところがありました。 それはやかまし村の子どもたちが学齢に達しているにも関わらず、学校の同学年のお友達とはほとんど交流していないように感じられることです。 一巻目の「やかまし村の子どもたち」だけならいざ知らず、2巻目に進んでも3巻目に進んでも、ず~っと向こう3軒両隣という狭い社会の中だけで遊んでいるんですよね~。
もっとも彼らが通う学校は本当に小さな学校で、クラスだって学年別ではなくて日本でいうところの1年生から6年生までが1つの教室に集っちゃうという状態だから、実は同学年の子供が1人もいない・・・・ということがあったのかもしれません。 さらに言えば、やかまし村から学校まではかなり遠いので KiKi の子供時代のように「一旦うちに帰って、ランドセルを置いたら公園に集合!」とはいかなかっただろうこともわかります。 しかもこの通学路を集団登下校よろしく、常に6人で行き来しているので、「放課後に運動場でかけっこしてから帰ろう!」というのも難しかったのはわかります。 恐らくイマドキの(これは KiKi の子供時代も含め)子供と比較して、家庭内での労働もあったこと��しょう。
でもね、KiKi なんかの感覚では学齢に達するとそれまでは年下の子とも楽しそうに遊んでいた子供であってさえも、知力も体力も自分には及ばない年下の子と遊ぶより同年代の子供と遊ぶことを優先するようになっていくのが普通だと思うんですけど、この「やかまし村の子どもたち」は相変わらず6人の小さなコミュニティの中だけで遊び続けているんですよね~。 だからと言って社会性が育っていないのか?と言えば、そうでもないのがこれまた不思議でねぇ・・・・・(苦笑)
さて、最後にこの本(「やかまし村の子どもたち」)の宮崎駿さんの推薦文をご紹介しておきましょう。
この世界に楽園があるとするならば、やかまし村がそれです。 読んだ子供達は、みんなこの本が好きになり、自分たちもやかまし村に生まれたら良かったのにと思います。 こんな風な楽しさは子供の時にしかありません。
それなのに、このような村でくらすチャンスはめったにないのです。 それで、「ああ~おもしろかった」と読み終えてから、ちょっぴり残念が気持ちがするのです。
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母は、やっぱりリンドグレーンが好き。特別なことは何も起こらないけれど、それでも楽しいリンドグレーンの世界。日常の幸せをひしひしと感じながら読めることが、何よりも嬉しいのです。娘は、ゲラゲラと笑いながら読んでいました。自分の日常と重ねて楽しめていた様子。娘は、ラッセファン。母は、断然、オッレファンです。
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再読。
映画の映像もとてもいいんですよね。
スウェーデンの人にとってはこの作品が一番子供時代を思い出してなつかしくなる話なのだとか
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年明けに"お年玉本"をどうしようかな~と思いながら、読んでみた。リンドグレーンというと、ピッピくらいしか読んでない。読み終わってから気づいたが、シリーズ3冊のうち、これは真ん中の巻で、先に『やかまし村の子どもたち』、あとに『やかまし村はいつもにぎやか』があるらしい。もちろん単独でも読めるけど、他の2冊もまた読んでみたい。
読みはじめた最初は、ラッセ、ボッセ、わたし(リーサ)、オッレ、ブリッタ、アンナ…と出てくる子どもの名前がごっちゃになって、これはどこの誰やったっけ…と最初に戻ったりしたが、だんだん馴染んできた。
スウェーデンの「やかまし村」の6人の子どもたちの日々。6人…というと、学年ごとに出入りはあったけど、学童保育に通うさいごの学年、小3のときに一緒だった「6人」を思い出す。はっきりとは書かれていないが、やかまし村の子どもたちはそれくらいの年頃だろう。
私がおもしろかったのは、「アンナとわたしのお買い物」。
お母さんに入り用なものを頼まれたリーサ。「買う品物を、書いておいたほうがいいわね」とお母さんは言ったが、鉛筆が見当たらなかったので、リーサは「おぼえといて、ちゃんとおもいだすから、だいじょうぶ」と言って、お母さんの並べたてる品物をおぼえた。
リーサが頼まれたのは、イーストを200グラム、いちばん上等なあぶりソーセージを一つ、ショウガを一袋、針を一袋、イワシの缶詰を一缶、甘いアーモンドを100グラム、酢を一壜。
そこへアンナがいっしょに買い物にいかないかと飛び込んできて、二人はかごを持ってでかける。アンナのほうも買う品物を書いてはいなかった。
アンナが買ってくるものは、石鹸、黒パン一包み、コーヒー500グラム、角砂糖1キロ、ゴムバンド2メートル、いちばん上等なあぶりソーセージを一つ。
二人はでかける前に、おじいさんにお店で買ってきてほしいものがあるかどうかをたずね、「樟脳と塗り薬を一壜」頼まれた。
でかけようとしたら、オッレのお母さんにも買い物を頼まれた。40番の白糸を一巻き、ヴァニラ入り砂糖を一缶、いちばん上等なあぶりソーセージを一つ。
買うものを全部おもいだせるか、ちょっと心配したけれど、天気はいいし、道の脇の木はいい香りがしてくるし、二人は腕を組んで、かごをふりまわし、歌いながら歩いた。「あぶりソーセージ、ひとつだよ♪」 「いちばん、いちばん、上等な♪」という具合に。
さてお店について、二人は自分の番が来るまで長ーいこと待って(大人たちは、どんどん前に出てってしまう!)、やっとエーミルおじさんに注文を聞いてもらえた。まずアンナが、自分のお母さんと、おじいさんに買っていく品物を並べたて、計って包みにしてもらった。つぎに、リーサが、自分のお母さんと、オッレのお母さんに買っていくものを並べたて、包んでもらった。
エーミルおじさんにすっぱいドロップをもらって帰途についた二人は、やかまし村への分かれ道のところで買い忘れに気づく。「ねえ、アンナ、わたし、イーストを買ったかどうか、おぼえてる?」(p.108) 包みを全部手で押してみても、イーストらしいのはなく、二人はいやいやながらお店に戻って、イーストを買って、またすっぱいドロップをもらった。
そしてまた分かれ道のところまで帰ってきて、こんどはアンナが叫ぶ。「あら、おじいさんのしょうのうのぬり薬は!」(p.109) 二人はしかたなくお店に戻り、エーミルおじさんの笑ったこと!二人は、ぬり薬をもらって、またすっぱいドロップをもらう。
もういっぺん分かれ道に来たとき、アンナが怖い顔で言った。「わたし、どうかんがえても、お砂糖を買わなかったと思うわ。(p.109)」 かごの中のものを何度も手で押してみたけれど、砂糖らしいのはない。また店へ戻ってきた二人を見て、エーミルおじさんはたまげるばかり。砂糖をもらい、またすっぱいドロップをもらった。
「ね、アンナ、あの分かれ道のとこ、かけてとおるのよ。それしか、方法がないわ。そうしなかったら、買いわすれたものをおもいだすばっかりだわ。」(pp.110-111) それで二人は分かれ道を駆けて通り抜けた。そして、またあのあぶりソーセージの歌をうたおうとしたときに、アンナが言うのだ。
「リーサ!わたしたち、あぶりソーセージを買わなかったわ!」(p.112) 二人はしばらく道の脇に座り込んで、口を利かなかった。だって、もう分かれ道を過ぎて、急な坂を次々にのぼって、そんなところまで帰ってきていたのだ。二人は、いやいやながら道を戻り、お店へ向かった。あぶりソーセージを三つもらって、こんどこそ二人はやかまし村へ帰る。
分かれ道のところで、水車小屋のユーハンが馬に車を引かせてやってくるのが見えた。リーサとアンナは、車に乗せてもらって村まで帰った。リーサはお母さんに「どうしたの。おそろしく時間がかかったのね!」 (p.115)と言われる。そりゃあ時間もかかる。二人はお店まで何度も何度も戻ったのだ。
かごの中から品物をぜんぶとりだしたあとで、お母さんはそんな苦労も知らずにこう言った。「ほんとに、しっかりした子だわ。なにひとつ、わすれてこなかったものね!」(p.116)
二人が「いやいやながら」お店に戻るところや、分かれ道を駆け抜けても、やっぱり買い忘れがあったところに、笑ってしまった。二人がかごをふりまわしながら歌って歩く姿が、挿し絵になっていて、それもまた笑いを誘う。"これからは買い物に行く時は品物を書いていこうと思いました"みたいな、変な教訓話で終わったりしないのもいい。
結局この本は"お年玉本"にはしなかったけど、おもしろかった。
(1/3了)
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【やかまし村の春・夏・秋・冬】
【やかまし村はいつもにぎやか】
アストリッド・リンドグレーン著、大塚勇三訳、岩波書店、2005年、2006年
リンドグレーンの「やかまし村」3部作の2,3冊目。
原作はそれぞれ1949年、1952年に出版されている。
「水の精を見に行きました」
「アンナとわたしは、なにをやってるのか、じぶんでもわかりません・・・」
「賢者の箱」
などの章は、子供向けの本なのに、43歳男性の自分がおもわず笑ってしまう。
本当にいい本だ。
子ども達だけに読ませておくなんて、なんてもったいない!
児童文学者の長谷川摂子が以下の寄稿をしている。
ーー
わたしたちは生き物です。生きているということは身体の奥に生命力の火を燃やしている、ということでしょう。その火の力で体も心も温まってこそ、さまざまの活動に取り組むことができるのではないでしょうか。もちろん、動物にも生命力の火はそなわっています。動物はいつもその火のゆらめきと行動が一体になっています。その一体性を本能と呼んで良いかもしれません。しかし、人間は動物のように本能をむき出しに、無自覚に生きるわけにはいきません。人間はその火をかまどのなかに閉じ込めつつ、燃やさなければならないのです。生産活動のための組織、習慣や制度、さまざまの人間関係をまとめる社会秩序、やくそくごと、そんなかまどで生命の火をじょうずに囲って生きているのです。しかし、その規制があまりにつよくなり、かまどのレンガが二重三重に厚くなったら、もし、酸素をおくるかまど口までふさがれてしまったら、人間はどうなるのでしょうか。心も身体も冷え冷えとし、エネルギーが萎え細り、体調が悪くなったり、無気力になったりし、人生は憂鬱になってきます。生きるということはこの火のぬくもりをかまど越しに、心身の全体にひろげ、エネルギーをしっかり維持する、ということではないでしょうか。
そこで遊びは大切な役割を果たすと、わたしは思うのです。遊びは経済活動や生産とは直接むすびつかない、実質的には意味のないものかもしれません。でも、それだからこそ、遊びは軽やかに生命力と結び付いてくれます。遊びは活発な体の動きや想像力によって、かまどのレンガをうすくしたり、かまどの口をあけて酸素をおくりこんで火をかきたて、生命の火のぬくもりを心にも体にもいっぱいに広げてくれるもの。そんな気がしてならないのです。
ーー
人が育つことの極意がここに書かれているのではないか。
そして、今日、新たな役目を引き受けることになるが、そのスタートにふさわしい文章だ。
遊びは、子どもにも大人にも、いま必要とされている。
わたしたちは、鬼ごっこをやりました。・・・牡牛たちは、目をみはって、わたしたちを見つめていました。なんで人間が鬼ごっこなんかするのか、牡牛には、きっとわからないでしょう。といって、よく考えてみると、わたしにもなぜだかわかりません。でも、なにしろ、鬼ごっこはおもしろいんです。
(「やかまし村の春・夏・秋・冬」)
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やかまし村シリーズ第1作。住んでいる6人の子どもたちのうち、8歳になるリーサの視点で書かれている。電子機器のない時代の子どもたちの様子が素敵な挿絵と共に生き生きと描かれ、子ども時代に夢見た生活を思い出させる作品。ゲームやパソコンとにらめっこの今の子どもたちにもぜひ読んでもらいたい。
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スウェーデンの春夏秋冬を楽しむ子どもたちの姿。
クリスマスに始まり、そり遊び、大晦日、新年のパーティー、スケート、4月1日、復活祭、雨など季節折々のイベントが描かれている。日本と異なる習慣を知って憧れた。
ショウガ入りクッキー、レモネード、カステラなど出てくる食べ物のすべてが美味しそうだった。今では食べたことがあるものもあるが、ここに描かれているものより美味しいことはなかったと思う。今でも「いちばん上等なあぶりソーセージ」はどんなに美味しいだろうと想像する。お使いに行ってみたいし、食べてみたい。
オッレの妹ケルスティンが生まれたところは、たびたびリーサが優しいと言及していたオッレの優しさがよく出ている。オッレが妹を可愛がるのに嫉妬する犬スヴィップは、前の巻で意地悪な靴屋さんに飼われていたものをオッレが優しくして懐かせ、もらってきた犬である。オッレは嫉妬する犬にもきちんと愛情を注ぎ、嫉妬しなくていいようにする。優しいオッレも、それに気付くリーサもいい。
おじいさんの80歳の誕生日を祝うところでは、少々歴史を感じる。きっと苦労してきたおじいさんが、孫娘のアンナに死なないでと言われてちゃんとした返事はしないところ、戦争の記事ばかりの新聞で80歳の誕生日を迎えたことが記事になっており、それを繰り返し読むところ、戦争がやってくるかとのボッセの質問に、おじいさんが「神さまが、ちっちゃなやかまし村をかばってくださるだろうよ。」と答えるところ。ここは小さい頃からなぜか悲しくなってしまう。やかまし村で過ごすリーサたちには想像もつかない時間や世界が、この物語の背後にもあるのだ。そう思うと途方に暮れる。
大人になった自分は、その後で子どもたちが語る将来の自分たちの姿に、おじいさんと一緒に「ほう、ほう、そうだ、そうだ。それまでには、なん年もかかるよ。ほんとに、子どもだっていうのは、いいもんだなあ。」としみじみした。もう子どもには戻れないし、やかまし村のような生活はできないが、だからこそやかまし村の物語はいつも輝いている。