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雲南に行った。
四川にも行った。
歴史書を読んでその地を訪れるのもいいけれど、
『街道をゆく』を読んでいけば、ガイドブックを持っていくよりもより細かいところに注意がいく。
土の色からその歴史や風俗に眼をむけ、中国の根の深きをおもい、感動する。
誇りっぽくて、不可解で、それでいて荘厳な中国の大地は
司馬遼太郎が訪れた時と少しも変わっていない。
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19の江南取材に続き飛行機で四川省・雲南省へ。中国南部、それもかなりの奥地で古代から近代までの日中関係に想いを馳せる。紀元前に作られ今も現役のダム「都江堰」も興味深い。古代中国は文明の巨大な光源であったと改めて。。。
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実際に雲南に行くので、ガイドブックとして読んでみる。そうすると、文化や知識が分かるし、司馬遼太郎の目にはこう見えるのかということもあって面白いものだった。彼の旅はたぶん80年代だろうから、30年ほどの比較というのもある。
司馬遼太郎の歴史物があまり好きではないのだけど、街道をゆくはもうちょっと読んでもいいかなと思った。
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かつて蜀だった四川省では三国志の時代に思いをはせ、雲南省では博物館に展示されていた耳杯と呼ばれる漆器から、漆技術を通して遠く離れた日本との関わりを想像している。
中国の「街道をゆく」は、中国がいかに日本の歴史に影響を与えてきたか痛感させられ、読んでいて面白い。
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ちょうどこれから展開する四川と雲南。
その地域を歴史的視点から眺めることの意味を知った。
その地域には、歴史というものが流れていた。
そして、歴史と人と生活が連関していた。
「鍬や鋤などの鉄板のふちに
赤味噌や白味噌で壁を築き、
その中央に肉やネギをおく。
煮えるにつれて赤白のみその壁が
だんだん溶け、中身が程良い味になっていく。」
極端にいえば、もともと漢民族
というものは存在しなかった。
高度の土器生産に長じた民族が
最初にこの可能性の高い大陸にやってきて住み着き、
ついで青銅冶金に長じた民族がきて、
殷帝国を造り、さらにそれよりも
治金能力は粗本ながら政治・軍事という
集団統御に長じた民族がやってきて、
この大陸の農業生産を飛躍させ、
新興地主の乱立する乱世の中で
古代的生産社会が崩された。
ついで、西方に発生した遊牧文明が東に移って、
中国大陸の周辺を大きく取り囲むが、
これらとは別に長江(揚子江)水系にあって
稲作を興した民族が、
大陸の文明に多様性を与えていく。
長江流域の稲作圏は、当時、楚と呼ばれた。
楚を代表する当時の大親分は、
項羽(紀元前232~202年)であった。
四川省は、古代タイ語系のひとびと。
雲南は、日本の源流になるのではないか?
四川は、巴(重慶)蜀(成都)
四川盆地 約6000平方キロメートル
諸葛孔明(181~234)
李白(701~762)
西域の貿易商人の子 イラン系
アア危キカナ 高キカナ
蜀道ノ難キハ 青天ニ上ルヨリモ難シ
竹添井井(進一郎)桟雲峡雨日記 明治9年
熊姓の人を祖とする → 神代
空港から成都まで北に向かって18キロ。
西晋時代(265~316)
左思 「三都賦」に蒟蒻がでてくる。
酢にしたして食ったという。
磨芋豆腐 雪磨芋 芋角
黒豆腐 鬼肉(クイロウ)
杜甫 712~770
48歳の時 成都にはいる。
司馬遼太郎の疑問は、「なぜ杜甫は、仕事をしなかったのか?」
宦官としてすぐれていたのは、
紙の発明をした 政官 蔡倫 後漢中期
明 鄭和 雲南出身
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今年の旧正月は雲南へ行く。
雲南の内容が昆明しかなかったのは少々残念だが。
雲南の木や、土への洞察はガイドブックに書いていないこと。
南方の少数民族は弱いと思っていたのだが、
ミャオ族の描写に目からウロコ。
そして、リ博士のイ族であるとの告白。
私もイ族に会えるのが楽しみになった。
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四川省辺境の山地から貴州省、それに雲南省などの一帯のことを「西南亥」とよんでいた。・・・牧畜好きのチベット系をのぞいては、ほとんど稲作民族であり・・・その民族が日本人に似ていることで雲南省で稲作する少数民族が私どもの先祖の一派でないか、という仮説は・・・支持されている。私もそのように感ずる。(P155)著者がこの説に同意するほどに似ている少数民族とは~早速ググッてみた(笑
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読書たる当方があまり乗っていないからかな、前編含めてイマイチですか。
ただあの戦争につき誰がその被害を被ったのか、もう少しセンシティヴであっても過ぎることはないと改めて感じいった次第で。
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何千年も前のダムを今も使っていたりと中国の歴史にはびっくりさせられることしばしばあり。中国の壮大な歴史は尊敬に値する。