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柴田元幸の翻訳の授業の実況中継。マイペースな自分は大学の全ての授業でこの本を出してくれることを望むが、しかし採算が取れるのは自分の授業に村上春樹を呼べる柴田元幸ぐらいしかいないような気もする。とりあえず、真面目に訳しながら読みはしなかったけど、面白いは面白い。英1を改革しただけあって、柴田先生は教材づくりに意識が向いているのだろうか。面白く勉強できるような本を次々と出している気がする(ナイン・インタビューズとか)。あと、登場しているに違いない友人がどれかなあと思いながら読むのも楽しい、と書いてみて思ったけど、別にどれでもいいわな、そんなに楽しいわけではない。とりあえず題材が新しいのが刺激的で良い。だって古典を翻訳しても全然面白くないわけさ。
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翻訳家の柴田氏が教授として勤める大学の
授業で自分の訳した小説を中心として、
学生と共に翻訳の演習を行う、
というものです。
翻訳するときの、「、」の使い方、youの
訳し方、ちょっとした言葉の順序の入れ替え、
短縮、聖書や音楽などの知識なしには、
訳せない箇所・・・などなるほど、と
思える翻訳のイロハ、や微妙なニュアンスの
表現の仕方など知る事ができて面白かったです。
特に、「映像的」「視覚的」な文章の訳が
印象的だったように思います。
....bubbles cascading
これは、バリーコアグローの「鯉」という
作品で、鯉になった人間の口から泡が
滝のようにほとばし出ているシーンなの
ですが、確かに少し光の差し込む水の中で、
水面に向かって泡をぶくぶく
はきだしている、鯉の姿が浮かぶな、と。
あとは、物語の中で登場人物が顔をひざに
くっつけているんですけど、顔のどのあたり
までくっつけているか、またhipは腰と訳す、
against the wallは壁に
向かっているのか壁に背を向けているのか?
(正解は壁に背を向けている)
壁の距離間など・・・視覚的な部分の表現が
実は難しい、かつ肝心なのかな、と思いました。
あとは、村上春樹氏も登場していて、
「アフターダーク」その他、翻訳について
も語っていて、二度おいしい、と思いました。
柴田先生の翻訳の添削受けられたら、
嬉しい&楽しいだろうなあ・・・
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学生訳をたたき台にした翻訳講義の実録。
柴田氏の講義のすばらしさはもちろんだけれど、
20歳そこそこでこれだけの訳文が書けて、さらにこんな講義が
受けられる東大生に羨望のまなざし。
小説の翻訳をこうして真剣に学んだことはないけど
「あ!」と目からうろこの箇所は多数。付箋を付けていったら
付箋だらけで、本の上面がフサフサになってしまった。
4章に珍企画として、講義室を訪れた村上春樹氏と学生の
やり取りが挟まれているが、これもまたおもしろかった。
最終章だけ、少し自分で訳してみて、講義を受けている
気分に浸ってみた。全部やってたらかなり勉強になったろうな。
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一応大学が英語科なんで、翻訳のクラスとかあった。一年間の授業で一冊翻訳する、となると「がしっ」とした長編は無理で(ジョン・アーヴィングとかは無理ですね、明らかに)短編とか中篇が多かった。
覚えているのはアーサー・ミラーの「セールスマンの死」とかテネシー・ウィリアムズの「ガラスの動物園」とかね。ん?なんか戯曲ばっかだな。
覚えているのは一年生の時にカントリーミュージックとか、ポピュラーミュージックを訳す授業。先生が「もっと感情を込めて」という面白い先生で「私は町を旅立つ」なんて訳すと×で「おいらは街を出るのさぁ」なんて訳すと○。
翻訳って難しいよね。単純に単語を日本語に置き換えればいいってもんでもない。ということで本屋でまさに「教室」な本を見つけた。
柴田元幸教授の翻訳に関する授業の実況中継みたいな感じ。章ごとの頭に米文学の短編、あるいは長編の抜粋がある。(英語でね) それを書くパラグラフぐらいの単位で訳していくもの。いやぁ、面白い。学生と柴田教授が「ここの句読点はつけるべきか?」とか「この"you"は訳すべきかそれとも無視するべきか」みたいな話を延々とやってる。あ、念のため硬い討論ではないです。「とったほうがいいんじゃないかな?」「僕は訳すべきだと思うです」みたいな会話。こうやって翻訳力ってついていくんだね。やっぱり理論じゃない。
途中、村上春樹が特別ゲストで参加して翻訳愛を語ってます。
話は変わるけど、そこで村上春樹が言っていたのが、「エスクァイヤ」という雑誌で「村上ソングズ」という自分の好きな歌詞を訳す、という連載をやっている、とのこと。いやーそういうことあらかじめ言っといてくれないと。読まなきゃ。
話し戻すとこの本は面白いです。取り上げられる英文が決して決して難解なものでないので英語学科卒じゃない人でも楽しめると思いますよ。
こういうある人にとってはどうでもいいこと「このtheyは訳すべきか否か」とかを真剣に結構時間をかけて議論できる、というのがそもそも大学じゃないですか。
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おそらく今日本で一番有名な翻訳家であると思われる、柴田元幸氏の翻訳演習の授業の模様がかなり細かに記録されている。生徒とのやりとりが面白く、ただ自己完結している訳ではないところが、非常に参考になる。また、途中に村上春樹も登場していて、二人の対談という貴重な話も聞ける。
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東大の講義をまとめた本だが、翻訳のテクニックや、また言葉の差異やくり返し、文体をどう再現するかということが書いてあり、文章を書くときの参考にもなる。
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こんな授業なら東大に行ってもいいなぁ。大変だけど、充実した授業なのだろう。楽しそうな雰囲気が伝わってきて、羨ましくもある。
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柴田さんを知ってお手紙を書いてからあれよあれよと教授にまでなられてしまった。しかし実力もすごいと思う人。これはそのまま授業を本で読んでいる感じで楽しい。あらためて翻訳の難しさも生徒とのやり取りで見えたり。
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ジェイ・ルービン「英語は動詞がものすごく強い。日本語はだいたい副詞プラス動詞を使うと強さが出るけど、そのまま英語にするとせっかくの強さがなくなる。だからなるべく強い動詞を使って、副詞を使わないようにしています」p135
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大学の講義本て好きです。
もし自分がこの講義の参加者だったら、歯がゆさも覚えたと思う。
言葉の使用は、ある程度以上の選択はどうしても、一長一短になる。
翻訳夜話で、柴田さんが村上春樹氏の翻訳への手入れが楽である理由として、
多くのひとは、翻訳を否定されると人格まで否定されたように感じてしまう。
村上さんはそんなことはない。
というようなことを言われていた。
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再読です。
で、やっぱり面白い!!!
東大文学部翻訳演習完全収録という本書。
毎週、課題を与えられ翻訳に挑む学生たちも、それを添削する柴田先生(院生のヘルプがあるとは言え)も、どんなにか大変な日々だと思うのに、みんな、とても楽しそうなんですよ。
頑張って勉強して東大に入るとこんな面白い演習に参加できるんだなぁ、とこれは前も思ったことだけど。(*^_^*)
学生さんたちが優秀なのはもちろんだけど、とても前向きに“翻訳”という世界に取り組まれているのが素敵です。
また、実はここが読みたくてこの本を買ったわけなのですが、演習に村上春樹さんご自身が来られて、学生の質問に答えたり(学生さんたちの驚きと喜びを想像すると、私まできゃぁ~~!(*^_^*)と言いたくなる)、また、同じ作品を村上訳、柴田訳で比べたりする章がこれまたとてもとても面白かった。
翻訳って・・・
「横のものを縦にする」(*^_^*) だけでは成立しないんだよね、とこれも改めて。原文の持つ世界観をいかに伝えるか、が命なんだ・・。
以下、私の覚書のために・・。
●英文の語順で日本語に訳す(特に、節の順番!)のが基本。
●日本文のリズムを大切に。
●原文の持つ雰囲気を壊さないように。→ あまりにこなれた日本文に訳すと、原文の持つ“奇妙な”感じを崩してしまうことがある。あえて固い日本文に訳してみることが必要な場合もある。
●英文は誰の目線か、ということがはっきりしている特徴があるので、そこに留意。もし、目線が変わってきていたら要注意。
●主語その他の代名詞は、全部訳さないのはもちろんだけれど、半分くらいを目途にするといいかも。
●shockをショックと訳すと、文の中での重みが違ってしまう、みたいな、よく知る英語に要注意。
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東京大学での演習を採録したというのは、とても興味深い。その場に居る学生に連なることができるような気がするから。読者にそう感じさせるための、本書の構成も見事。読みやすくするための配慮が随所に。近年の私には珍しく、書き込みなどしながら頁を繰りました。今をときめく柴田元幸の翻訳に「違和感」とだいそれたことを言ってしまったからには、ちょいと搦め手でこういう本を先に押さえておこう、なんて思惑で、「いつかそのうち」の棚から降ろしてきました。9課のうち、ダイベックとカーヴァーとヘミングウェイとカルヴィーノぐらいしか読んだことがない(もちろん邦訳で少しだけ、それにカルヴィーノはイタリア語だし)という、米文学には初心な私です。それだけに、それぞれの内容に教えられることも多かったけれど、敢えて言う(ことが許される)なら、「とても良質な大学文学部の演習の記録」を、それほど大きく超えるものでは、ない。期待を大きく超えるものでも目新しく斬新なものでも、ない。…もちろんそれでいいのです、それでこそ正解です。ただし繰り返しますが、こんな形で採録されたものはあまりないし、そういう意味で貴重です。実際の演習をこのような形に仕上げるのが、どれほどたいへんなことか!!無論、原文とか文法などを無視して、柴田先生と学生とのやりとり(特別講座「村上春樹さんを迎えて」もあり)を読んで楽しむだけでもじゅうぶん。全講義に参加して後、私にはむしろ、「まえがき」が心に残りました。まったくそのとおり、と思うからです。実際の院生TAの仕事ぶりにも感服しました。まえがきには「名教師だのダメ教師だのというが、授業を活かすも殺すもまずは学生次第なのだ。」とありますが、ほんとうにそうなんで、授業することによって授けられるものが多いのは、実は学生ではなくスタッフや教師自身なのです。それがわかっている先生による授業から、学生はより多くを受け取ることができる……。ここにはひとつの「幸福な教室」の姿もまた採録されているように感じます。さて、それでどうなんだ?と問われると、つまり何もかもが「自分」に還って来るしかない。当り前のことで、自分の中にあるものしか「日本語」として出てはこない、ということです。でも、これがまた不思議にも面白くも嬉しいことに、新しい文章に出会うと、それと格闘するうちに、新しい「もの」が自分の中にも芽生えて育ってくるのです。何語でもいいや、翻訳でもそうでなくてもいいや、たくさんの「ことば」(必ずしも「言語」とさえ限定されぬ)に出会いたい、あらためてそう思いました。長くなりました、失礼。
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柴田氏は翻訳家としての才能だけでなく教師としての才能も豊かであるとみた。なんか言い聞かすのが上手いわ。東大の翻訳演習の模様を文字に起こしたものである。あらかじめ渡された課題のテキストを生徒が訳し提出し、教師と院生が添削する。それを次の授業で何人かの生徒の訳文を比較しつつより良き翻訳を求めて教師と生徒が話し合う。ここでは翻訳文としての日本語の問題に討論の時間が費やされ、そしてそこから作品や作家の内部に切り込んでいく。レイモンド・カーヴァーの『Popular Mechanics』が課題となった回が興味深い。登場人物は破局寸前の夫婦。たった一人の子供をめぐって言い合いになる。どちらも自分の手元に引き取りたいというのだが、その主張の仕方がどこかずれている。彼らは「the baby」という言葉を連発するのだ。これを「子ども」と訳すか「赤ん坊」と訳すか。
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翻訳教室(柴田元幸)
Jay Rubin:
とにかく翻訳とは科学的なものじゃない。どうしても主観が入る。それが入らないと、人間のやる作用じゃない。客観的に、何の感情もいれないで訳しても、ある言葉の文法をもう一つ別の言葉の文法に移すだけで、無茶苦茶になってしまう。個人の解釈が入らないことには、何も伝わってこないと思います。だからこそ翻訳というのは古くなったりもする。いわば「廃り物」。
(P145)
村上春樹:
以来、二十五年間、小説かいては翻訳やって、翻訳やり終えると小説を書いてって言う風に、僕は「チョコレートと塩せんべい」と行ってるんだけど、チョコレートを食べて塩辛いものを食べたいなと思うと塩せんべい食べて、甘いものがいいなと思うとまたチョコレートを食べて。永遠に続くんですよね。雨の露天風呂ともまた々。出ると冷えてお風呂に入るとまた暖まるからまた出て冷える。一種の永久運動ですね。
(P151)
村上春樹:
体力がなければ何もできないですよね。単純な話、いくら能力があったとしても歯が痛かったらものなんて書けない。肩が凝ったり腰が痛かったりしたら机に向かって仕事なんてできない。そういう意味で体力は必須条件なんです。僕はこの二十何年間で二十何回フルマラソンを走っているけれど、みんなは馬鹿だっていうんだよね。でも、僕がずっと思ってきたのは、体力がなければ何もできないということ。というのは、集中力というのは体力なんですよ。若いときは集中力っていくらでもある。五時間机に向かってずっとやれって言ったらできる。体が丈夫だから。でも、それが三十になり四十になり五十になってくると、体力がなければ集中力って続かないです。だから小説家でも若いときにすばらしい作品を書いて、そのあとだんだんパワーが落ちて行く人がいますけど、その原因はほとんどの場合体力ですよね。シューベルトとかモーツァルトのように才能がどんどん溢れ出て来て、溢れ出るだけ溢れ出させて、それがとぎれたらおしまい、死んでしまう人もいるわけだけど、ほとんどの人の場合パワーが落ちていくのはすなわち体力が落ちていくこと。だから僕は若いときに決心して、体力だけは維持しようとずっとやってきた。
(P181)
柴田:読者の声は聞かれますか?
村上:インターネットでウェブサイトをやっていたときは全部読みました。僕がそのときに思ったのは、一つひとつの意見は、あるいはまちがっているかもしれないし、偏見に満ちているかもしれないけど、全部まとまると正しいんだなと。僕が批評家の批評を読まないのはそのせいだと思う。というのは、一人ひとりの読者の意見を千も二千も読んでいるとだいたいわかるんですよね。こういう空気があって、その空気が僕のものを読んでくれているんだということが。悪いものでありいいものであったとしても。で、一つひとつの意見がもし見当違いなもので、僕が反論したくなるようなものだったとしても、それはしょうがないんですね。
僕は、正しい理解というのは誤解の総体だと思っています。誤解がたくさん集まれば、本当に正しい理解がそこに立ち上がるんですよ。だから、正しい理解ばっかりだったとしたら、本当に正しい理解って立ち上がらない。誤解によって立ち上がるんだと、僕は思う。
柴田:そういうと、その批評家一人の声は読者一人の声と同じものだということですか?それともまた別のものですか?
村上:たとえばウェブサイトに批評家がメール送ってきたとしますよね。そうするとそこにメールが2000あったら2000分の1ですよね。よく書けている批評家もしれないけど2000分の1。僕がとらえるのもそういうことです。
(P187-188)
村上:あのね、僕が小説を書くときいちばん役に立った言葉というのはフィッツジェラルドのものなんだけど、彼が娘に宛てた手紙の中で「人と違うことを語りたかったら人と違う言葉を使え」と言っています。だからね、文章を志す人はほかの人とは違う言葉を探さないといけないんですよ。プロになるにはそれはすごく大事なことです。そして僕も、翻訳したり小説を書こうと思ったとき、これまで使われてない言葉を一つか二つ、使おうと思っているわけ。
(P189)
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翻訳者としての柴田さんのファンとして手に取った一冊。
雰囲気にあわせた訳をするという印象はありましたが、
原典の表現一つ一つをくみ取ろうとする誠実さに感嘆させられました。
英単語のこまやかなニュアンスの説明、
そして、小説の背景についての解説も流石なのですが、
それ以上に印象的だったのが日本語への気配りです。
日本語についても学ばせられることばかりで、
これはもう一種の文章読本と言い切りたい気持ちです。
自分でも英語を頭の中で訳してみては、
学生さんの訳の工夫に唸らされ、
それについての改善点を考えては、
その上をゆく先生の指摘にはっとさせられる。
その連続の中で知的興奮が高まってゆく、とても楽しい読書体験でした。
この後ここで知った小説を読んで楽しめると考えると、
一度で二度も三度もおいしいわけで、実に素晴らしい本ですね。