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紙の本
天下統一は歴史の必然の流れであったのか−
2006/03/21 10:53
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ブルース - この投稿者のレビュー一覧を見る
『信長とは何か』
世に織田信長ファンは多い。歴史上好きな人物を挙げるアンケートでも、常に上位を占めている。事実、合戦や政略の場で見せたその類稀なる洞察力、果敢な決断力と行動力、斬新な発想など人を惹きつけるのに充分なものがある。評者も若い頃、そのような信長の魅力に惹きつけられた一人であったが、年齢を重ねるにつれ、この武将の天下統一の途上で見せた独善的で冷酷なやり方に大いなる疑問を覚えるようになって来た。
織田信長は、広く知られているように、天下統一の過程で立ち塞がる近隣諸国の武将・宗教勢力・一揆勢を徹底的に弾圧し、家中においては無用となった武将を容赦なく粛清・追放処分にしている。無情な戦国時代にあっても、信長のやり口は群を抜いて非道なものがある。
本書は、信長のようなやり方でしか天下統一は出来なかったのか、そもそも天下統一は必要であったのかというユニークな問題意識に貫かれて書かれている。一般の戦国史の書物を開くと、群雄が天下取りを目指して鎬を削っていたように描かれているが、著者によればそれは歴史的な事実から程遠いという。
確かにこの時代は、中央の威令が衰えて、実力者が各地で下克上の風潮に乗り旧勢力に取って代わり領国支配を確立したが、そうしたことが可能であったのも「十五世紀前半の変動と経済的な落ち込み」により従来の京都中心の政治・経済的な構造が解体し地域社会を中心とした構造に転換したことが背景になっている。
それでは、戦国時代前半の合戦の実態は何かと言えば、群雄が天下取りを目指して激突した戦いは皆無と言ってよく、地域の利害関係が絡む国境の紛争から発することが大半であったという。今川義元が信長に敗れた「桶狭間の合戦」にしても、義元は天下に号令しようとして居城を進発したわけではなく、国境の攻城戦に赴き運悪く討ち取れたことが現在明らかになっている。これが、合戦の実態であり、当時にあっては信長だけが例外中の例外の「天下取り」の合戦を展開し全国を争乱に導いたと著者は論断している。
当時は、様々な勢力が拮抗してそれぞれに繁栄しており、信長のような力による強制的な統一というやり方を取らなくても、諸勢力が社会的な達成を深めながら共存していく道もあったのではないかという著者の見解には賛意を表しておきたい。
本書の中で、もう一つ興味深いのは、織田信長の一連の戦いがあれほど大規模で過酷なものになった背景を探っているところである。当時の各地の在地勢力は一揆というかたちで結合しており、それは在地の利害を何よりも優先し、その組織も土豪と呼ばれる地侍と農民たちの横並びの関係で維持・運営されていた。一方、信長は早くからこのような兵農未分離の状態から脱することを目指し、専従のプロの戦闘集団を創り上げその組織もピラミッド状で厳しい主従制で律せられていた。この二つの組織は、組織のありかたや目指すものが全く異なっており、信長からすれば天下統一事業に立ちふさがる勢力として徹底的に殲滅しておく必要があった。これが、一連の戦いがかくも凄惨なものになった原因としているが、組織論からも見ても頷けるものがある。
著者は、このような信長の厳しい組織運営は、家中でも多くの反発と離反者を生み、やがては「本能寺の変」に繋がったとし、力のみに拠ったものがいずれ同じ力によって倒されるのは必然であったと本書を結んでいる。
歴史は、別の角度から光を当てれば全く別の相貌を現すということはよく言われるが、本書はそのことを如実に実感させる好著である。
なお、充分触れることは出来なかったが、信長の幾つかの城下町経営からその政治・経済政策を探ったところは教えられるものが大きかったことを付言しておきたい。
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