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紙の本
命をつなぐ日々を淡々と。
2006/08/15 21:00
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:求羅 - この投稿者のレビュー一覧を見る
主人公の木川正介は、中国・長春で敗戦を迎える。ソ連軍によるシベリア送りを避け、中国内戦に巻き込まれながらも、毎日五馬路へ出かけてボロを売り、生き延びている。
ギリギリの生活を維持しながら、淡々とその日その日を過ごす男の姿には、異国の地に残された人間の悲哀が漂う。と同時に、戦争という理不尽な暴力に屈しない、たくましさも共存している。
この作品は、木山捷平の自伝的小説である。だからつい、主人公の男と作者の姿を重ね合わせて読んでしまう。フィクションなのに、ドキュメントのようなリアリティがあるのだ。
第二次世界大戦後、敗戦国民として中国に残された日本人は、悲惨だったという。
それは、残された多数の資料や証言が、21世紀に生きる私たちに切々と訴えてかけてくる。また、作者自身、敗戦後の一年間は「百年を生きた苦しみに相当する」と語っていたことからも、その苦難は想像に難くない。
しかし本書は、そんな苦悩を、重く暗い筆致で描いている訳ではない。むしろ、飄々と生きる主人公の姿に、置かれた状況の悲惨さを忘れてしまう。立ち小便で、妻の名を平仮名で書く場面は、滑稽ですらある。
ボロ売りを楽しんでいるかのような振る舞いや、日本に妻子を残しながら、中国人の女性と一緒になることを夢想する主人公の姿に、最初はとまどい、彼の心理が理解できなかった。こんな状況で、なぜこんなにも普通に暮らしていけるのか、不思議だった。
けれど、読み進めていくうちに、男の胸の内が分かってくる。
淡々と日々をやり過ごしていかなければ、生きることさえ難しかったのだ、ということが。深い悲しみや強い怒り、恨みを、心の奥深くに沈めて日常を過ごすことが、“生きていく”ことなのだ、ということが。
ただ目の前の一日を、無事過ごすことだけに全神経を集中させる。飄々と生きる姿の中に、極限まで追いつめられた人間の、“生”への執念が感じられるのだ。
掴みどころのない主人公が、時おり見せる強い感情に、はっとさせられる。酔いに任せて自作の短歌を朗吟する場面は、楽しい座興の中に悲痛な感情が込められていて、印象的だ。
抑えきれない感情がふとした拍子に表に出る場面は、それが作品全体を通して数少ないからこそ、余計に読む者の心に強く印象付けられ、澱となって残るのである。
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