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「今のところまだなんでもない彼は何もしていない。」で始まる筒井氏の泉鏡花賞受賞作。短く言えば、小説の主人公であることを意識した彼(主人公)が、同時に誘拐された妻と娘を探す物語である。しかしこの作品は、そのように短く言ってしまえるものではない。私はこの作品をフジテレビの深夜番組「お厚いのがお好き?」ではじめて知り、その後氏の代表作「文学部唯野教授」(1990年)とあわせて読んだのだが、文学的に奥の深い作品であることは間違いない。といっても、私は一介の法学部生であり、文学や文芸批評のことははっきり言ってほとんどわからない。まったく恥ずかしいことである。
そんなわけで、「お厚いのがお好き?」の受け売りになってしまうが、この作品は、かつてないほどに文学的な実験を試みた氏の意欲作なのである。まず、主人公が小説の主人公であることを意識していること。加えてその他の登場人物も皆それぞれがそれぞれの物語の主人公なのである。登場人物は皆、個性のオーラを発して、自らが主人公たろうとしているのである。また、小説に登場する主人公以外の事物は、主人公が認識したときに始めて存在するようになっている。このあたりの事情は読んでいただければすぐにおわかりいただけると思う。
さらに主人公の意識がそのまま文面に反映されているのも実験のひとつである。つまり、主人公が寝ぼけているときは、文章も支離滅裂になり、完全に寝てしまうところでは白紙が数ページにわたって続くのである。8文字分空欄があるところは、「8秒間ほど意識が飛んでいたようだ」などと主人公が言うのだから面白い。さらに、時間の省略を一切しないという方針の下、主人公の意識が常に描写されるために、車に乗って誘拐された妻を捜しに行く場面では、いちいち車から見える景色や、ラジオからながれる漫才が描写される。ここで面白いのは、主人公自身が、そのような描写がなければ小説に時間の短縮が生じてしまうことを意識していることである。さらに、それらの描写が主人公自身のなんらかの心理状態を表すものとして、または物語上何らかの伏線となるものとして、作家により意図的に描写されている可能性があるということ、をも主人公は意識しているのである。
極めつけは、自分の妻と娘が同時に、しかも何ら無関係な別々の犯人により、別々の場所へ誘拐されるという設定である。いままでの小説が如何に小説のきまりごとに縛られていたかを省みて、絶対にありえないような設定を試みたのである。主人公は自分の息子に二人の救出を手伝うよう依頼するが、結局息子は自らが主人公であるところの学園生活の事件の方が重大であるという判断を下し、主人公の前から姿を消す。
最後に主人公は、自分は小説の中にいるのだから時間も空間も越えて同時にさまざまな場所に存在できるのだということに気づき、二人の救出に乗り出すのだが…。結末は実際に読んでいただきたい。「、」が少なく、段落分けも章分けもないため、私にとってはひどく読みづらかったが、文学好きの方には大して苦にはならないだろう。是非氏の実験を堪能していただきたい。
それにしても、登場人物が皆個性のオーラを発して、自らが主人公たろう��している様は現実世界そのものだと言えるし、認識しなければ存在しない、という哲学上のひとつの大きな命題をとりこんでいるところはさすがである。こういったところから、この作品と筒井氏が、現実とかけ離れた虚構であるはずの小説が如何に現実に肉薄し現実世界の本質を考えさせるものであるか、を示してくれる優れた作品・稀有な才能の作家、であることが覗える。
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この人は、人を驚かせない小説を書くことはないのだろうか。そんな感じの筒井康隆三冊目。作品まるごとが、「小説」のパスティーシュ。自らを小説内人物であると自覚した主人公が既定の役割に沿うべく進めていく小説的筋書き。何もかもが普通じゃない。
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こんなラストでいいのか……? 好きな人は好きなんでしょうが。次々と事件が起こっていくって着想はすごいいいと思うんですが。でも描写はやっぱり、描写の対象に愛情があったほうがいいと思う。
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色々な縛りを課して小説を書く、筒井康隆氏が得意とする、チャレンジングな小説。その中で氏は現代文学の有り方について様々な疑問を投げかける。ただ、話自体が今一面白くないのが残念なところである。
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1P=1分、つまり1分で起こった事を1Pに収めている。だから主人公が眠っているシーンでは空白のページが数頁続くわけ。何でこんなこと考え付くんだろうね。すごいね。
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何じゃこの妙な疾走感は!
喉のあたりが「く~っ」てなる。
変な決まりごとを作ることで、既存の小説の枷を外した超傑作。
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新しい小説の開拓、筒井康隆らしさがあふれ出る興味をそそられる小説だけれど、図書館にも書店にも置いていない。今度通販で頼もうかと
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連載一回目を本屋で読んだとき、世界がくだけました。いや、僕の腰がくだけたのかな。
こんな小説をずっと待っていたのです
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読みづらい・・・。
私にとって小説は不向き・不慣れだからなのか、この本が実験的だからなのかわからないけど、途中で断念。
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小説が小説たらしめるものは何だ。
文字の自由度はいくつであろうか。
伝統ある形式と実験形式の質とは。
登場人物の自らが虚人である自覚、
そしてそれの責任ある行動とは。
固有名詞の無意味さと区別化。
現実の読者とそのウロボロス的作者。
活字欠落とそのレゾンデートル存在。
虚構との接続に際する無限性の閉塞。
テレビ内人物の消失と我々の関係性。
歪曲されし小説時間と空間の定理性。
圧縮された文字の羅列と行間の流暢さ。
アンチ小説とメタ小説のジンテーゼ。
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今まで読んだことないような小説。そしてこれからもこんな小説に出会うことはないだろうなと思う。部長のセリフはひどかった笑
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筒井康隆の「愛のひだりがわ」の文庫版解説で「海」の元編集者だった作家の村松友視が「虚人たち」を「愛のひだりがわ」の対比として紹介していたので前々から読もうと思って積読していたこともあり読み始めた次第だ。
あらすじにもあるようにこの作品がメタ小説であり主人公が小説のキャラクターを意識して思考行動しているのだろうがこの手の作品として東野圭吾の「名探偵の掟」が最近ではドラマ化もしていて著名だろう。そうは言っても「虚人たち」は1981年に出版されているからもう34年も前というのは驚きだ。
書き手は主人公の「彼」の心象(というよりも思考そのもの)だけを綴っておりあたかも「彼」の一人称のような趣である。さらにはページ進行も「彼」の主体(もしくは思考そのもの)と同化しておりそこに仕掛けを設けているようだ。
さらには「彼」以外の登場人物は「彼」の物語とは別の存在ながらお互いに交錯し新たな物語を組み上げようとしているのかしていないのかそもそもそのようなことを考えることこそ痴がましいがごとくに淡々と「彼」の心象(もしくは思考そのもの)だけが語られていく。
そしてここまで読み流してお気づきかも知れないが「虚人たち」には意図的に読点が排除されている。そういうぼくも模倣して読点を排除してみたがやはり読みにくい。同様に「虚人たち」はただただ垂れ流されるのをただただ傍観するしかない脅迫観念に苛まれながら読みづつけなければならないのだ。
物語は「彼」のことを語る語り手によって進んでいくが結局は下世話なサスペンスかおざなりのミステリーという形で終焉してしまう。それもまた「彼」の特異性なのだろうとは思うのだが結果として「彼」という主体を表現する語り手のその上位に筒井康隆という存在があることは忘れてはいけない。
つまるところ我々はまたしても筒井康隆御大のもと(下)に「彼」というキャラクターのもと(元)で弄ばれたに過ぎないのである。この作品「虚人たち」はその程度にはぼくを翻弄させたと言っていいと思うのだ。
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あらすじには「小説の登場人物であるということを自覚して」って書いてたけどどちらかと言えばテレビドラマだよな。場面転換の唐突さとかアテレコとかその他もろもろ。
最初から最後までダレない、矛盾しない、密度の高い物語。
ほんのちょっとの批評眼があればものすごくおもしろく読めると思います。
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難しすぎて疲れる・・・。
読者や著者が持っている小説に対する”大前提・お決まり”を意図的に指摘し皮肉のように突き崩してるところがこの本の魅力の1つなのかもしれない。
、、、そのため読むためには多大な読書力が必要になる。
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筒井康隆の実験的な小説。
通常、作中の主人公が一人称で語られる場合、主人公である彼は全てのことを知っているということはありえず、これは全知全能の語り手としての三人称小説と対照的である。しかし、この作品では、主人公が一人称の語り手をもって語られるのに関わらず、主人公は全知全能の視点を有する。
また、物語では行為者の逐一の行為、心情は全て例外なく書かれるということはありえないのだが、著者は作中でこのことを実践する。
実験的には面白い作品であると思うが、何よりもまずその実験のために読みづらさが凄い。読み終えるまでにかなりの労力が必要。