紙の本
見ごたえある日本文化レッスン。
2006/06/07 21:03
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投稿者:和田浦海岸 - この投稿者のレビュー一覧を見る
書評集なのですが、
目のつまった本の書評を思い浮べると読み間違えることになります。
日本絵画に余白が、大切な役目を果たすように、この本は随筆風の「間」をいかしながら、ゆったりと大きな世界を掬い取ってみせます。まるでとうとうと流れる河に小舟を浮かべ投網を投げている姿を思い浮かべます。
小舟を漕いでゆき、ここぞと思う場所にくると網を投げる。また漕ぎ出してゆく。その河には「文化」が流れており、私たちにはちっとも見えないのですが、著者の投網を引き揚げると、思いもしなかった魚が掛かってくるのです。
読後思い至るのは、どうやら、自国の文化の磁場と、外国の磁場との境目の流れがぶつかる箇所が投網のポイントのようです。
具体的に引用しましょう。
「英語のcultureのもともとの語源は、ラテン語の動詞colo(耕す、住む)である。・・この動詞はもうひとつ別の、重要な言葉を近代ヨーロッパ語に残した。『耕す』あるいは『住む』ことによって獲得した土地coloniaに由来する『コロニー』、すなわち『植民地』がそれである。・・『文化』と『植民地』はもと同根の兄弟である。文化の移植とは、一面では植民地化にほかならない。・・西欧文明を受け入れながら植民地化を逃れた日本の場合を、もう一度この視点から見直してみると意味があるであろう。・・」(p117)
たとえば、
それが将棋や伊勢神宮の話になると俄然おもしろくなってゆきます。
「日本将棋の最も大きな特異性は、多くの研究者が指摘する通り、駒の再使用という点にあると言える。このルールは、他のどの国にも見られないものだからである。よそにはないという以上、どこから伝来したかという問題は成り立たない。問題はそのようなやり方がなぜ日本においてのみ生まれたのか」(p96)
これが
「将棋の思考、チェスの思考」「将棋に見る『役割意識』」の文で展開されております。
それに「反復による持続ーー日本的方法」では
苔寺として知られる西芳寺の庭園の石を語るのでした。
「庭園の注連(しめ)縄をはった影向(ようごう)石が置かれている・・影向とは、石や木に聖なるものが現われるというきわめて日本的な神の出現の仕方である。事実この石には松尾明神が影向するという。西芳寺の庭は無窓国師の構想によるものだが、その禅寺のなかに日本の神の座があって平気である。・・このことは、例えば西欧世界において、キリスト教が登場して来た時、古代ゲルマンの『異教の神』が徹底的に排除され、消滅させられたことを思い出してみれば、やはり特異なことと言ってよいであろう。外来文化を受け入れる時に、完全に相手に同化するのではなく、どこかに不協和音を混ぜたような微妙な変容、ないしはずれを見せるこのようなやり方は、実は日本の文化の本質とかかわっているかもしれない。」(p188)
こういう
「文化の本質にかかわるかもしれない」事例が、書評というか随筆の投網にひっかかってくるのです。
この投網に大きすぎてかからなかったのが、伊勢神宮でして、
その取り逃がした片鱗を、この本のここかしこで読者は味わうことができるのでした。それは、読んでのお楽しみということで。
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2007年06月24日
次は何を読もうかなぁ、と恒例の図書館内の無目的散策をしていた時に見つけた本です。この本がいかに私にとってタイムリーであったかは言うまでもありません。様々な分野に属するであろう本の数々が次々と、筆者の高階秀爾先生の見解を交えつつ紹介されていきます。
当書の魅力は、紹介された本を読みたくなるばかりでなく、知的欲求そのものが恐ろしいほどの激しをもって掻き立てられる点でしょう。
これからも読む本が、読む内容がたくさんあることはこの上ない幸せです。
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丸谷才一によれば、よい書評にはいくつかの条件がある。まず、簡潔明瞭に内容を紹介しなければならない。次に、数多ある他の本の中からそれを選んだ理由を明らかにしつつ、でき得れば読者に新しい知見を持たせる。しかも、読者を愉しませる藝がなければならない。これだけの条件をクリアするのはさすがに難しい。だから、巷には書評は数あれど、はたと膝を打つものは少ない。しかし、ここにその条件を楽々とクリアした本がある。
物事がくっきり見えてくることを喩えて「目から鱗が落ちる」というが、『本の遠近法』こそ、まさにその言葉通りの印象を読む者に与えてくれる。書評といえば、書評なのだが、本そのものを紹介するというより、書かれていることから著者がインスパイアされた新しい着想について述べたものといった方がより正確かもしれない。一つ一つの章は独立しているのに、微妙に絡み合いながら進行する。喩えていえば、世界を渉猟して吟味された食材を、腕のいい料理人がフルコースに仕立ててみせたようなものである。
世の中には常識的に信じて疑わないものがある。しかし、普通の人には見ていても見えないものが、見る眼を持つ人には見えるものらしい。たとえば「伊勢神宮は本物か」などという問いかけをされれば、大方の人は何を今さらばかなことをと、問いそのものを一蹴するだろう。しかし、建築当時の部材が何パーセント以上残っているかによって、正当性が保証される世界遺産の選定基準によって眺めてみれば、遷宮行事により、二十年に一回建て替えられる伊勢神宮の場合、現在建っている神宮は本物のコピーということになる。
ふだん何の不思議も感じていないことが、新たな光を当てられることによって眼前に浮かび上がってくる。高階がここでやろうとしているのは、ロシア・フォルマリズムでいう「異化作用」なのだ。そして、そこで異化されているのは、日本文化というものである。日本人である限り、至極当然のこととして理解している日本文化を、該博な知識と精密な批評眼で選んだ書物によって照らしだし、その西欧世界にはない特質を明らかにしてみせる。
一例をあげよう。「てりむくり」という形がある。てりは「反り」ともいう。むくりはその反対。つまり、霊柩車や銭湯の屋根でよく見かける、あの形である。「唐破風」などと呼ばれもするのでてっきり中国伝来の形かと思っていたら、中国にも韓国、東南アジアにもない、日本のオリジナルなんだそうな。日本列島を太平洋岸を上にして置き直すと、てりむくりの形になる。網野善彦にも同じ向きにした地図の使用があったことから、網野史観に飛ぶ連想の鮮やかさ。
国号のなかった縄文時代には日本はなかったという網野史観に「ゲーテはドイツ人ではないのか」と啖呵を切り、丸谷の『日本文学史早わかり』を引きながら、東西二つの異なる文化を持つ王権が勢力を争った時代にあっても、「歌の道というただ一点において人々は共通の価値観で結ばれていた」と、日本という国の存続を、文化の力に置こうとする。
第一章で、木田元の「ハイデガー」本を紹介しつつ、人間は他の生物とちがい将来を先駆し、既往を反復する唯一の生物であるとし、その「世界内存在」の意味を、「人間は、時間の中に生きることによって、直接の『環境』を超えたより高次の『構造』のなかに存在することになる。それが『世界』というものである」と要約している。
高階は、木田がハイデガー解釈を通して西洋哲学史の相対化を試みているというが、そういう高階自身が、この本の中で、直線的な時間軸を生きる西欧的な世界観に対し、時間と空間に区別を立てず、型や儀式の持つ「反復」性を採用することで、西洋とは異なった独特の文化を持つに至った日本という国をあらためて想起させることで西洋的価値観の相対化を図ったように、評者には思われたのであった。
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高階秀爾 「 本の遠近法 」
文化論や芸術分野の本を紹介した本。一冊の本は 別の本を読むことで 奥深さを知ることができる というアプローチ
文化と文明の違いに納得
*文化=地域固有の習俗や価値観等
*文明=都市で誕生し地域を越えて拡がるもの
読みたい本が増えた
*網野善彦「日本とは何か」
*丸谷才一「日本文学史早わかり」詞華集を目安にした時代区分
*古橋信孝「平安京の都市生活と郊外」
*立岩次郎「てりむくり」日本建築の曲線
*小西甚一「俳句の世界」
*諏訪春雄「北斎の謎を解く」北斎の道教信仰、仙人願望
*榊原悟「江戸の絵を愉しむ」視覚トリック
*山本健吉「いのちとかたち」
古橋信孝「平安京の都市生活と郊外」
*平安京は外廓城壁を持たない
*日本では城壁の代わりに郊外という緩衝地帯を設けた
立岩次郎「てりむくり」
*てり と むくり が繋がった形状=凸と凹のなめらかな反転曲面=神社仏閣の軒先の唐破風
*軒の反りは 本来直線であるものに反りの曲線を与えたもの→しなやかな形に惹かれた日本人の感性
網野善彦「日本とは何か」=日本の多様性の論証
*命題は 日本民族の均質単一性の否定、農業中心説の否定
*縄文人と日本人の連続性を支えるのは 文化
丸谷才一「日本文学史早わかり」
*詞華集を目安にした時代区分
*選集の内容と背景、批評態度の変遷〜文学と社会の媒介としての詞華集を通して〜伝統の継承と変容
*日本人の美意識や価値観の特質