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非常に批判的な立場からの「言説分析」考。あまりにも批判的すぎて、果たして論者たちは社会学における言説分析に可能性を見出しているのかどうか、不安になる。しかしながら、厳密な意味での「言説分析」は社会学の一方法として不可能だとしても、その手法の魅力は十分に認めていて、そこに可能性を見出そうとしているように見受けられた。
構築主義における厳格派とコンテクスト派の議論に似たものを感じたのは、見当違いなことだろうか……。
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中河さんとこしか読んでない。
最初らへんの読んでたら、そんなんじゃ言説なんて用語うかつに使えないし、研究もできんじゃん、て思った(中河さんじゃないとこね)。
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「ただ興味深いのは、社会の安易な実体視をあれほど強く批判する構築主義だが、やっていることは要するに、「社会は客観的に取り出すことはできない、だが社会に対する言説は客観的に取り出すことができる」という、「客観性」の1段ずらしであるということだ。(略)だが、もし本当に「社会をめぐる言説が客観的に存在する」とすれば、それは「社会が客観的に存在する」という事態と実質的にはほとんど差がなくなる 」
いわゆる社会構築(構成)主義というのは、宗教にしろ政治にしろ法律にしろ価値観にしろ、それはある社会によって作り出されたものであって、そのことは別に「真理」とやらを担保しないよという思想だ。社会構築主義者の前でうかつに「真理」とか言ってしまうと袋叩きに遭うことは、大学の社会科学系のゼミに所属しディスカッションをした経験のある人であれば、かなりの確率で通る道であるように思う。
本書のタイトルになっている「言説分析」というのは、一般的な理解でいえば、「この世にあるものは社会に構成されているものにしかすぎないから、それを実態として捉えてもうまくいかないけど、それを語る人のことであれば研究対象になり得るよね」という認識論の上に立っている。僕も割とそういうふうに考えているわけなのだが、本書はその安易な認識論に対して、警鐘を鳴らす。
特に冒頭に引用した文章に明らかなのだが、確かに社会構築主義的な立場を取って守りを固めることは(実体論者よりは)簡単なので、ついつい深く考えることなく「私は社会構築主義的な立場にいるんで」とか言ってしまいやすい。ただ、そのような「強いものに巻かれる」的な思考は、なかば必然的に自らの認識について聖域化させてしまう役割をもつ。社会構築主義のほうが「科学的」で「一般的」と考えられている今だからこそ、この立場に立って議論をすることの意味だとか、実態論の価値について、もう一度深く考える必要があるのだろう。