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四大悲劇の一つ。純真な心を持つが故に悪辣な競争者に敗れる者、打算に生きるが故に人を裏切り続けなければならなくなった者、どちらも非業の死を迎える。
エンターテイメントとしての勧善懲悪物語ではなく、世の不条理、理不尽、無慈悲さを説く。
正直ストーリー自体は特に変わったものでもない。やはり「舞台劇の脚本」である以上、舞台を観ないと真価はわからないような気がする。
巻末のシェイクスピア解説は興味深かった。
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人に人の心が読めるなんて、そんなお話。
娘の愛情をテストしたリア王。ことばに騙され読み間違える。忠臣を追いやり、荒野をさまよう。家臣は野心に満ちた子の計略に嵌り、二心のない上の子を遠ざける。愛を手段に、この世の富と肩書を求める姉妹。結局、心優しいコーデリアも、自分の間違いに気付いた老王も、死ぬ。悲劇。
ハッピーエンドに直した版があるという。それはそれでいい気持ちになれるかもしれないが、悲劇を観る意味がある。悲しい、悔しい、ひどい、そんな激情に身を委ね、心を揺さぶらせる。その中から見えてくるものがあるはずだ。お涙ちょうだいの安易なものにとどまらず、観客を突き放して、呆然とさせて、ひっかかったまま、いつまでもどこかに残り続ける、そんな悲劇。それは、フィクションの力。
人の心を読もうとしても読めない。疑い始めたら戻れない。かといって、道化を演じても自分は欺けない。『リア王』が語る人間は、決して過去のものではなく、現代だけのものでもない。きっとこの作品は未来にも生き続ける。
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福田さんも安西さんも実際に演劇にするために訳されているので、なんかいい。劇にすることを前提にしていない脚本はなんだかリズムがつかめない。
シェイクスピアさんの全集を買おうかと思ったけど、買うならちょっと古いかもしれないけど福田恆存さんのになるかなぁ〜?
でも、まずはハムレット、オセロー、マクベス、リア王を福田さんの訳で読もうかな。あと、あらし。その他はぼちぼち読んでいこうかな。
安西さんの訳は読みやすい。実際の台詞にもとづいているからのようだ。そうそう、シェイクスピアさんの年譜や作品史を読んで、バカダミアンさんの重松さんを思い出した。まさに、博多のシェイクスピア!
Mahalo
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そもそもシェイクスピアはよく知らない。
でもなんかきっとすごいんだろうと思って読んでみたのだけれど。。。。
これ面白いんですか?
それともこれだけがつまらなくて、他のはもっと面白いのかな?
それともこれも面白いと感じるべきなんだろうか?
面白いと思えない僕がダメなのかな?
ひたすらに陰鬱で大仰な台詞回しが続く物語は、どう考えても老害ジジイの自業自得としか思えなかったし、コーディリアの優しさがちっとも物語に生かされてないじゃん!
うーん。
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シェイクスピアといえば、泣く子も黙る世界最高峰の文学者の一人だが、「リア王」はその中でも四大悲劇の一つとして名高い。残りの三つはいうまでもなく、「ハムレット」「オセロウ」「マクベス」だ。
「リア王」は4大悲劇の最後を飾る作品で、黒澤明監督の「乱」では、日本の戦国時代を舞台に映画化された。
ストーリーは単純といえば単純だけれども、実際読んでみるとかなり複雑。シェイクスピアの作品はいずれも有名だからあらすじはなんとなく知っているような気がするけれども、いざ読んでみるとかなり込み入っていて波瀾万丈で、それがまたおもしろい。
この光文社古典新訳文庫の目的は、古典を現代の言葉で翻訳し直そうというものだから、「リア王」の翻訳も、もちろん読みやすい。読みやすすぎて、せっかくの「リア王」なんだからもうすこし格調高く、凝った文章でもいいんじゃないだろうかと言いたくなるぐらい読みやすい。原作のシェイスピアがもともと面白いんだから、そんなに読みやすかったら読み始めた途端、途中で止まらなくなるのはいうまでもない。
だが正直なところ、個人的な趣味でいえば、この安西訳よりも、最初に読んだ福田恒存訳の方が好みだ。当時はまだ、文章が難しすぎて内容をよく理解できていなかったかもしれないが。
両者の訳がどれだけ違うかというと、
(安西訳)
必要? 必要だと? ええい、必要など持ち出すな! どんなに卑しい乞食であろうと、いかに下らぬ者であっても、必要以上の物は必ず身につけておる。人間から必要以外の物をことごとく奪ってみろ、人間の命は獣同然。
(二幕四場)
(福田訳)
おお、必要を言うな! 如何に賤しい乞食でも、その取るに足らぬ持物の中に、何か余計な物を持っている。
自然が必要とする以外の物を禁じてみるがよい、人間の暮しは畜生同然のみじめなものとなろう。
うむ。あまり違わないような、違っているような。
ついでに、岩波文庫に収められている斎籐勇訳。
(斎籐勇訳)
おい、要不要の議論はいらん。極度に窮している乞食ですら、
極端につまらない物ながら何か余計な物を有っている。
人間が本来必要とする以上は授けられないとすれば、
人の一生がつまらないことは鳥獣と同然だ。
三つを較べてみると、個人的な印象としては、スピード感があるけれどもやや平易に流れすぎる安西訳、格調があってスピード感もある福田訳(でも漢字が多すぎ)、真面目に訳している風だけどおもしろみのない斎籐訳、というところかな。これだけで判断するのは大胆すぎるが。
こう見てくると、シェイクピアの原文はどうなっているか知りたくなる。
原文は、
O, reason not the need! Our basest beggars
Are in the poorest thing superfluous.
Allow not nature more than nature needs -
Man's life is cheap as beast's.
うむ。これは歯が立たない。上の飜訳あるから、かろうじて意味がとれるけれども。
ただ、斎籐訳は、原作の行にあわせて訳そうとしたものであることがわかる。そういうことをしてはたして意味があるかどうかはわからないけれども。(原書を勉強する学生には便利かも)
なかなかおもしろいので、もう少し比較を続ける。
上はリア王のセリフだったが、次はケントの言葉。
(安西訳)
悲惨のうちにあらざれば、奇蹟にあうこともあらずという。
(二幕二場)
(福田訳)
奇蹟に出遭うは窮しし者のみ。
(斎籐訳)
禍いを蒙らずには
奇蹟を見ることがまあない。
(Shakespeare)
Nothing almost sees miracles
But misery.
(先生! シェイクス君の英語は意味分かんないんですけど! 校長先生はシェイクス君はスゴイっていってますけど、ホントですかあ)
最後はエドガーのセリフ。
(安西訳)
忍耐を忘れたのかい? この世に来るのも引っ込むのも、人間の勝手にゃならぬ。時の熟すのを待つしかないんだ。
(五幕二場)
(福田訳)
人間、忍耐が肝腎、己れの都合でこの世を去る訳には行かない、こいつは出て来た時と同じ理窟さ、万事、木の実の熟して落ちるが如し。
(斎籐訳)
人間はこの世に出て来るのと同様、
世を去る時を辛抱して待っていなければなりません。
機の熟することが何よりもです。
(Shakespeare)
Men must endure
Their going hence even as their coming hither;
Ripeness is all.
シェイクスピアの原作は、散文ではなくて、韻文だった。通常の文章とは違うので、われわれには分かりにくい。
ただ、普通の英米人にとっても、わかりにくいのは同じではないかと思うのだが、どうだろうか。
学校でわれわれは古文とか漢文とか習うけれども、彼らの場合も、そういう勉強を通じて、古典作品が読めるようになっているのではないだろうか。
ということは、ひょっとしたら、われわれが学校でいくら習っても枕草子や源氏物語を個人的に読もうという気になれないのと同じで、一部の愛好者を除いては、シェイクスピアを実際読んでいる人は少ないのかもしれない。いくら日本の代表的文化だといっても、歌舞伎を実際見た日本人が少ないのと同様、シェイクスピアの劇も、むこうの人にはあまりなじみのないものかもしれない。
ただし英語の場合は、日本語に較べると、年数の経過による単語の綴りや意味の変化が少ないようなので、日本人が自国の古典に接するときよりも、まだ近づきやすいのかもしれないが。
シェイクスピアの作品は、残酷なときは非常に残酷で、五六年前にアンソニー・ホプキンス主演で公開された「タイタス」は、現代のホラー映画も仰天というぐらい恐怖と暴力に満ちた作品だった。
そんな彼の悲劇だから、人が死ぬこと死ぬこと。
こんな人間まで死んでしまうのかというぐらい登場人物が死んでしまう。タランティーノ監督も真っ青だ。これほど人を殺してしまうんだから、作品が悲劇と呼ばれてしまうのも当然だろう。死に方の安易なところは、ほとんど喜劇としか思えないところもあるが。だから、昔の映画やドラマなんかでもよく、登場人物が最後にばたばた死んでしまって、そんな御都合主義はないだろうと思うことがあるが、あれは作り手の想像力の欠如とか、番組を時間内で終わらせるた���の手抜きとかではなく、シェイクスピア以来の伝統ある作劇方法らしいのだ。
ただ違うところは、シェイクスピアの場合は、そこに至るまでの内容が非常に濃すぎて、それぞれの登場人物が担っている重荷の重さで、最後には物語世界そのものが吹き飛んでしまう、それが登場人物達の死となって結末するというところで、それでこそようやく観客は、この濃密な世界から解放されて、劇場の席を立って家路につける。そうでもしない限りかれの作品世界は観客の精神を縛って閉じこめたままにしてしまう、それほど強力で魅力的な世界なのだということだろう。
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冒頭から忠臣の命をもかけた直言に心揺さぶられる。
シェイクスピア四大悲劇の「リア王」
深い悲しみが全編を通して時折胸を突く。
その度に読書が止まる。
時代を経て生き残ったまさに素晴らしい作品。
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シェイクスピア初めて読んでみたけど、やはり面白い。他の作品も読んでみたいが、原典でも読んでみたいと思った。 心の描写や言葉選びのセンスといった文学の真髄となる要素が際立っていると感じた
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◎感想
「リア王」、シェイクスピアの4大悲劇の一つとして有名なこの話を一度読んでみたいと思っていた。一つにはシェイクスピアの作品、古典として有名だからという理由もあるが、もう一つには、この光文社新訳古典文庫というシリーズを創刊した編集者の本 を読んだからという理由もある。今ではこの光文社新訳古典文庫は200冊以上のシリーズとなっており、「リア王」はその創刊時の8冊のうちの一つだ。その本を読んだ時に、編集者の思い入れの強いものという印象があり、いつか読んでみたいなと思っていた。
自分は古典を読むうえで一つ意識していることがあり、それはなぜ現代においてもそれを読むのか?という事だ。今に通じる何かがあればいいなと思いながら読んでいて思ったのは、相続と介護、特に年老いた親を誰が面倒みるのかという介護の問題から話が動いていくという事だ。
・相続と介護
長女も次女も相続の際には、言葉を尽くし、父への愛を語るが、実際には厄介者としてその費用の負担を抑えるように謀る。コーディリアは言葉ではなく、その行動で示すものだと考えているがそれは伝わらない。リアは分かりやすく愛を示してくれるものを期待していたのか、癇癪をおこす。相続を原動力にするのは臣下グロスターの私生児エドマンドも同じだ。彼は自分が己の力のみで今の自分を形成しているという感覚がとても強い。生まれが賤しいとされるものでも自身の力で、計略によって成り上がろうとする。
・欲望と正義
長女、次女、エドマンドは己の欲望の為に何らかの謀をたくらむ一方で、ケント、エドガーは忠義の為に、コーディリアは父への愛の為にという形で自分の欲望ではない理由で動いていく。前者は欲望の為に後者は正義の為にともいえるのかもしれないが、もし一国民として見たとしたら、後者のほうが国のトップにいてほしいと思うが、ドラマとして見る分には前者に魅力を感じたりもする。
・劇としての機能
この欲望と正義のコントラストの激しさが、セリフにも登場人物たちの急激な変化にも現れていると思う。一方で、登場人物とそのセリフがほとんどのため、読んでいる途中でどういう場面か、その人物たちの関係性が分からなくなることもあった。それは舞台であれば、服装や小道具、舞台上の演出で補われるものが無いからというのもあったと思う。
逆にそうした視覚的な情報を補う「地の文」に支えられて、普段の小説を読むときには、その世界に没頭できるという効果もあるのだなと改めて思った。だからこそ一番の魅力はセリフに尽きると思う。特に訳者の安西徹雄は自身で劇団を主宰し、何度も舞台上で発声してきたものだからだ。
読んだ感想をまとめてみて思ったのは、全体としてこの物語が悲劇であるということにあまり自分自身としてはピンと来ない感じになったところだ。結果的に、この王国としては良かったのではないだろうかというところで、唯一コーディリアは何の悪意もなかったのに殺されてしまったという理不尽さは悲劇かもしれないが、ろくでもない奴は皆死ぬという形になっていて、良かったのではないかなと思う。
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登場人物全員が不幸。死んでいった者達はそれぞれの思いや欲望を叶えられずに命を落とした。生き残った者達は大事な人たちの死を目の当たりにすることで不幸を背負い込むことになった。
道化は唯一の例外と取れる。しかし、彼は彼以外の登場人物とは異なる世界に生きている。道化にとっては彼らの野心や欲望などにちっとも興味はないのだろう。
登場するほぼ全員に襲いかかる悲劇。しかし、この人間社会を俯瞰して捉えれば、なんてくだらないことのために命を犠牲にしているのだろうという滑稽さに包まれている気がしてしまう。
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勧善懲悪のハッピーエンドだった原案を、シェイクスピアはこの滑稽なほどの悲劇に改変した。
本当の悲劇に「悪役」はいない。「悪役」はフィクションの中に閉じ込められた存在だが、劇中で猛威を振るう「この世の不条理」は、現実世界との向き合い方に暗い覚悟を迫ってくる。
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やはり劇として、それもできるなら原語で、観たいなと思わせられた。文章でも十分に面白かったけれど、ここに音としての韻が加わればさらに上の次元に昇華するような。
原典を読みたいがために語学の道に進む、その気持ちが一瞬でも理解できたように感じた。
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原文のシェイクスピア独特のリズム感が伝わってくる。
NTL(映画)の予習のために読んだけど、これが英語で俳優がセリフを喋ったらどんな感じになるんだろうと想像しながら読んで楽しかった。
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いつも思うのだが、昔の人は言葉だけで人を信じすぎている。と思えば忠臣の忠告は聞く耳持たずなのは、どういうことなのか。道化がとても良い味出している。
リア王症候群という言葉があるらしく、昔の上司を思い出した。文明は確実に進歩したけれど、人間の本質は大昔から何も変わっていないんだな。
4大悲劇のうち3つまで読了。『シェイクスピア物語』で有名な話の粗筋も掴めたので、勢いに乗ってシェイクスピア読破していこう。
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子ども向けに書かれたのを読んだきりだったが、こんなに壮絶な内容だったとは音読するのは憚られるセリフの数々…よくまぁ、これほど悪口雑言、罵詈讒謗の限りを尽くせたもんだ
おおもとの物語はハッピーエンドらしい…なんで変えたんだろう
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シェイクスピアの言わずとも知れた悲劇の名作。良いテンポとユーモアのある表現が心地良い。
コアメッセージとしては「権力は持ち続けろ」「だれかに依存する状況は絶対に避けろ」というところか。
リア王は物分かりの良い風を装って、気前よく娘たちに自らの権力を分け与えた。自分と自分の兵隊を養う財産も放棄して、娘に交代で面倒を見てもらう悠々自適な老後を夢見たのだ。しかし娘たちは養い続けなければならない父親に嫌気が差して、彼を追い出してしまう。リア王は裏切られたショックに発狂し、廃人となってしまう。
あらすじとして悲劇だが、トリガーは王の愚かさにある。例え自分が王であり、頼るのが例え実の娘でも、ずっと依存し続けることはできないのだ。マキャベリは恐れによって人を統治しろと言った。「恩」などまたたくまに風化するものだと。その通りだと思う。権力は手放したら返ってくることはないのだ。
これが400年前に書かれたものだというのがまた面白い。人間の愚かさとは普遍的で不変的なものなのだ。