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一人の死が周りに与える印象,という側面で非常に興味深く読んだ。死後に残されたイメージの重要性を喚起する作品である。
しかし,ラストで宗教的に勢い良く昇華されてゆく部分は正直よくわからず置いて行かれた。
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ストーリーはシンプルで、あってないようなもの。「イワン・イリイチの死」はイワン・イリイチが死ぬだけ。しかし、死に至るまでの心の葛藤がなんともリアルですさまじい。死に直面したときの葛藤や絶望を描くだけでここまで読ませる小説が書けるのか。スゴイ。
自己を欺瞞して生きてきた人間と欺瞞にあふれた世間で生きてきた人間の末路がテーマであるということができると思う。多くの文学作品でも描かれているように、本書でも欺瞞は絶望を呼ぶ。普遍的なテーマを描いた作品のなかでも、ストレートなぶん強烈な読後感が残る一冊。
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幸福の虚妄と言う点で文学の優れた業をみせている。裕福に暮らすロシアの中流階級層の人間が、世俗の欲望を追うこと意外に生きる意味を見出せない時、愛欲、嫉妬、憎悪といった利己心の中で、人間の「幸福」の条件を焼き滅ぼしてしまう、という内容。
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2012.12.10.とりあえず『クロイツェルソナタ』のみ読了。
p204「たとえどんな風に飾り立てられていても、性欲は悪です。恐るべき悪です。それは戦うべき相手であって、われわれの社会人の奨励すべきものではありません。」
元々はノンセクの掲示板で紹介されていたのを見て興味を持ちました。やっと読めた。
『重力ピエロ』で引用されていたのは後で知りました。
性欲について語られた苦悩の行末。
p198-199「ではどうして(中略)どんな風に人類は存続していけばいいんですか?」
「ではいったいなぜ人類が存続しなければならないのですか?」
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訳者よりねだり、奪い去るように手に入れました。
先生、ごめんなさい(汗
岩波の米川訳と比べると、丁寧に読みやすく…と腐心された訳者の姿勢が見えて、大変嬉しく読み進められました。
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「イワン・イリイチの死」では、
重篤な病に倒れたイワン・イリイチが
自らの「死」を確信してから鬼籍に入るまでの様々な葛藤が描かれる。
病に冒されるまで、
イワン・イリイチの人生は法に則り、
そつなく順調に歩まれてきたものだった。
しかし、「死」は自身も周囲も呑みこみ、
あらゆる状況を一変させる。
恐怖、孤独、嘘、軋み、無力、神の不在、生への渇望――。
本作は、自身の死を前にしたトルストイが、
その恐怖を描き出したものだという。
確かな生を送る者には、
死の定めを背負った人間の苦悩を窺い知ることはできない。
死にゆく者と同期することの不可能性。
それを強く認識しながら遡行的に彼らと接すること。
そこにこそ、「虚偽性」からの逸脱が生じうるのかもしれない。
トルストイからの教訓に学び、
多くの死に対して誠実な目を向けたい。
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原書名: Смерть Ивана ильича,Крейцерова соната
著者:レフ・トルストイ(Tolstoi, Lev Nikolaevich, 1828-1910、ロシア)
訳:望月哲男(1951-)
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本当にこの人の本は本を読んだという
思いを私たちにさせてくれます。
ロシア文学は難しいなんて
言われますが、そうではないと思います。
どちらも「死」がテーマとなる作品です。
特に後者は妻殺しをした男の
告白となります。
だけれども、そこまで至る経緯は
ここまで極端ではないものの
誰しもが抱いたことのある
感情ばかり。
結婚前に読むか読まないかでも
だいぶ違いそうな本です。
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なんとなく食わず嫌いだったトルストイ。
「あんまり好きじゃなさそうだな~」と思ってたからなんだけれど、やっぱりというかなんというか、直感もバカにはならない。
まず「イワン・イリイチの死」についてはイワン氏の内心の描写というかもはや説明なんだけれど、ともかく作者は人の心を覗けるというのが前提の文章となっている。
…だけどぼくは何かもうこういうのは受け付けなくなってしまった。「人の心が覗ける」のならそもそも小説なんか読む必要はないと思ってしまう。
「クロイツェル・ソナタ」にしてもポズヌィシェフ氏のひとり語りなので、ほとんど上記の批判がそのまま当てはまる。
小説としての面白みがない。独白やらひとり語りやらで、結局のところ話がストンと垂下的に落ちていく。
というわけで「イワン・イリイチの死」は賭け値なしにつまらん。
「クロイツェル・ソナタ」は冒頭の結婚観、男女観が読ませる。しかしあくまでパンフレット的な意味であって、というかもはやパンフレットでいいじゃないかって思う。
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和訳ですらこれだけの迫力.面白い.
クロイツェル・ソナタでの独白もなぜか妙に説得力を感じる.音楽の力をネガティブに書きつつ高く評価しているようなところには,なるほどと思った.
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ゼミ課題で『イワン・イリイチの死』を読むことになり、苦手なロシア文学と向き合ってる最中です。
イワン・イリイチという男が主人公なのですが、彼が死んだ、という報せが来るところから始まり、視点が入れ替わり時間もすり代わり、一息で読んでもなかなか話が入りにくいなあという印象。
ただ、迫り来る死の当事者と、そうでない人々の温度差が見ていて面白いと思いました。
これからもっともっと詳しく読んでいくところです。
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性と死。トルストイってこんな文章も書けるのか……。
イワン・イリイチの死に様に戦慄、ポズヌィシェフの恋愛・結婚観に共感。世間一般から見ると相当僻んでる部類に入るらしいが。
普段あまり考えたくないことについてはっとした時に、ぜひ。
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終わらない上り坂はない。
山登りやヒルクライムでしんどいときにいいきかせる言葉だ。
もしこの坂が永遠につづくとおもうと、のぼりの苦しさの途中で心折れて足をついてしまうだろう。
一方で来年50をむかえる身としては、上り坂のあとに下り坂がある、ということが現実的になってきた。
下り坂のゴールは「死」であろう。
トルストイによる死についての本である。
イワンクロイツはごく平凡な地方官吏。ふとしたことから死にいたる病になり、病床でそのときを迎える。
その死ぬプロセスの間で、自分はほんとに人生をいきてきたのか?人の期待や世間の相場ばかりにあわせてないか?を自問自答し煩悶する。
自分は何もえてない、なんにもやりたいことをやれててない、と薄れいく意識のなかで煩悶する。
しかし最後の最後で、これ以上、家族を、愛息を苦しませないためにも自分は死を、と、考え方を自分の後悔から他人に何かをあたえるというふうにかえたあとで心に平穏がおとずれ幸せのなかで死んでいく。
与えれば与えるほど得るものはおおきくなる、というネイティブインディアンの言葉があるがそれを重い読後感であった。
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●「イワン・イリイチの死」
トルストイが死んだのは1910年。20世紀に入ってからである。
シェイクスピアが活躍したのが1600年代で、日本でいえば江戸時代にあたる。にもかかわらず登場人物の言葉や行動が今のわれわれに強く訴えかけてくるのは驚くべきことで、ハムレットなどは、主人公が現代人であってもちっともおかしくない。それがシェイクスピアのすごさであり、普遍性なのだろう。
ただシェイクスピアの戯曲の登場人物は、王様や王子や女王であることが多くて、これらの人々はわれわれの親類縁者にはあまりいない類の人々であるから普段どんな生活を送っていたかとなると、ほとんど知るところがない。別種の階級、別種の社会層に属する人間たちである。
これがトルストイになると、登場人物はもうわれわれと同じ種類の人間である。本書に収められた2作品のうち、イワン・イリイチは官吏であり、クロイツェル・ソナタの主人公は貴族であるが、その生活感覚はわれわれと変わるところがない。シェイクスピアの作品そのものは現代的ではあるけれども、主人公たちはわれわれの毎日の生活から遠いところにいる神話の英雄やなにかのシンボルに思えるのに対し、トルストイの人物は、この社会で暮らしている一般の社会人となんら変わりがない。血肉を備えた生身の人間として、昇進の噂や世間づきあいに気を病み夫婦げんかに疲れた人間としてそこに描かれている。毎日われわれの隣で働いている人々とちっともかわらない人間として描かれている。
「イワン・イリイチの死」は、ある高級官僚(裁判所の判事)の一生を描いた作品である。
トルストイがこの作品を書いたのは58歳の時。すでに「戦争と平和」「アンナ・カレーニナ」を完成させ、文豪としての名声を確立した後、次第に宗教的傾向を深めつつあった時期の作品である。
この作品は、そうした大作家が、悠々と自分の書きたいことを書きたいように書いたらこういうものができましたといった風の、自然でのびのびとした感じがする作品で、そこにはトルストイの作家としての自信や余裕がうかがえて、読んでいるこちらとしても大家の練達の話術に安心して身を任せておけば、知らず知らずにその先その先へとページをめくらざるをえなくなる、そういった興味深くて面白くてためになる物語である。あちこちにちょっとしたジョークがちりばめられていて、翻訳を通してなのでけらけら笑うというところまではいかないけれども、たぶんあちらの人が読んだらくすぐられる箇所が多いのではないかと思う。すくなくとも中盤までは。
じつは内容は深刻なのである。
官僚としてまっとうな一生を送ったはずの主人公が、死を前にして、自分の人生はなんであったのかという疑問にとらわれ、煩悶に煩悶を重ねたあげく、最後の瞬間にようやく救いを得、そして死ぬ、というのが粗筋である。
彼の一生は、この社会に生きるわれわれとって、至極あたりまえの一生のように思える。あたりまえというよりむしろ模範的といえるかもしれない。彼にはなんのやましいところもないように思える。唯一欠点があるとすれば夫婦仲の悪いところであろうが、それでも彼はこういう心がけで臨んでいるわけであり、これはこれで立派な態度だと思う。
結婚後わずか一年ばかりで、イワン・イリイチは次のことを理解した。つまり結婚生活は人生におけるある種の利便を提供してくれはするが、本質的には極めて複雑で困難な事業であって、そこで自らの義務を果たし、世に認められるような立派な生活を営むためには、ちょうど勤めに一定の姿勢が必要なのと同じように、結婚に対しても一定の姿勢を築きあげる必要があるのだ。(p42)
問題は、彼が採った一定の姿勢というのが、ひたすら「自分一個の陣地である勤務の世界に逃げ込み、そこに快適さを見いだす」(p42)ことであったという点である。だが、これもそんなに責めるわけにはいかないだろう。そうでないような男性がこの世の中にそうたくさんいるとは思えないからだ。普通一般のサラリーマンが「仕事だから」といって家庭の義務から逃れようとするとき、そこで生起している心理現象の多くはトルストイのこの言葉によって説明できるのではないかと思うが、ただし私はそんなことを思ったためしがないので、正直いうとその点はよくわからない。あくまで推測で言っているだけである。
それはともかく、病を得る前のイワン・イリイチに限らず、その妻、その娘たちの生活や感情を、トルストイは身も蓋もなく書いていて、作品の中で読むと、彼らがなんだか悪者のように思えるけれども、その行動は普段のわれわれがやっていることと変わりはない。
たとえば寝たきりになったイワン・イリイチの部屋を、舞台を見に行くために着飾った妻と娘とその婚約者が訪れ、憤怒に駆られた主人公との間に気まずい沈黙がながれ、彼らが立ち去ったあと「嘘は連中とともに去った」(p117)と描かれているが、だからといって妻や娘やその婚約者が悪いわけではあるまい。寝たきりの病人と健康な人間とでは活動に違いがあるのは当然だし、態度が嘘くさいので嫌だと言われたって、では当人の目の前でその人間の死について率直に語り合えるかといったらそんなことできるわけはない。それが偽善に映るなんていうのは単なる病人のわがままである。
あるいは冒頭に出てくるイワン・イリイチの葬式の場面。同僚のピョートル・イワーノビッチは、葬儀に参列しながら、その後のトランプ・ゲームのことを考えているわけだが、こういう態度は不謹慎だという人がひょっとしたらいるかもしれないけれども、会社の関係で葬式に出たことのある人ならだれでも経験しているとおり、なにも葬式だからといって厳粛な気持ちになるなんてことはなくて、考えている内容といったら、次の会議に間に合うかどうかだったり、仕事の締め切りだったり久々に顔を合わせた昔の同僚と葬儀が終わった後でどこかで一杯やろうかということだったりするので、われわれと彼とは五十歩百歩である。登場人物たちの言動が不遠慮で不作法でありえないことだと思えるとしたら、それはたぶん社会的経験が少ない少年少女の読者たちだろうが、世の中というのはそういうものなんです。いい年をした大人でそれはおかしいなんて言う人がいたら、単にカマトトぶっているか、世間知らずの馬鹿である。
つまりここで出てくる人々の姿は、まさにわれわれ自身の姿なのである。
世の中とはそんなものである。そうしてそれが悪いとも思えない。
しかしトルストイは違う。
トルストイが主人公に語らせているのは、そういう生活は、人生は、無意味であり、偽善であり、嘘っぱちだということである。
死を目前にしたイワン・イリイチは、煩悶する。
煩悶して、次第に真相に近づいていく。
結婚……そして思いがけない幻滅、妻の口臭、肉欲、偽善! それからあの死んだような勤め、それからあの金の苦労――こうして一年がたち、二年がたち、十年がたち、二十年がたった。そしていつも同じことの繰り返しだった。時がたてばたつほど、ますます生気が失われていった。(p121-122)
「ひょっとしたら、私は生き方を誤ったのだろうか?」不意にそんな考えが浮かんだ。
「しかし何でもそつなくこなしてきたのに、いったいどうして誤ったのだろう?」(p122)
「だがいまさらそんなことを認めるわけにはいかない」自分の人生が法にかなった、正しい、立派な人生であったことを思い起こしながら、彼はそうつぶやいた。「そんなことは決して認めるわけにはいかないぞ」彼は唇を笑いにゆがめた。(p127)
ふと彼の頭に、もしも本当に自分の全生涯が、物心ついてからの生涯が「過ち」だったとしたら、という考えが浮かんだ。(p130)
彼の仕事も、生活設計も、家族も、社会の利益や職務上の利益も――すべて偽物かもしれない。彼はそう思う自分に対して、それらすべてのことを弁護しようとしてみた。すると不意に、自分の弁護がいかにも根拠薄弱だと感じられてきた。そもそも弁護すべきものが何もないのだった。
「もしもその通りだとしたら」彼は自問した。「私は自分に与えられたものをすべて台無しにしてしまって、もはや取り返しがつかない、ということを自覚しながらこの世を去ることになる。その時はいったいどうなるのだろうか?」彼は仰向けに寝たまま、まったく新しい目で自分の全人生を振り返りはじめた。(p130-131)
そして、ついに、
翌朝、彼は従僕と顔を合わせ、それから妻と、娘と、医者と顔を合わせたが、彼らの一つ一つの動作、一つ一つの言葉が、夜のうちに見出された恐るべき真実を彼に実証してくれるものだった。彼らのうちに彼は自分を見出し、自分が生きがいとしてきたものをすべて見出した。そしてそうしたものがことごとくまやかしであり、生と死を覆い隠す恐るべき巨大な欺瞞であることを、はっきりと見て取ったのだった。(p131)
死ぬ前にこんな心理状態になったらたまったものではない。
イワン・イリイチはこの発見によってさらに苦しむ。
この意識は彼の身体の苦痛を何倍にも強めることになった。彼は呻き、のたうち、自分の着衣をむしりとろうとした。着衣に胸を締め付けられ、押しつぶされるような気がしたのである。そしてそのせいで、彼はさらに周囲の者たちを憎んだ。(p131)
その後の悽愴な描写は、破滅を自覚した精神の叫びである。
では、どうなるのか。
主人公は破滅したまま死んでしまうのか。
絶望のままで終わるのか。
ここで不思議���ことが起こる
解決はむこうからやってきた。
彼は暴れていた。そして一瞬ごとに、いかに全力で抗おうとも、自分がどんどん恐怖の源へと近づいていくのを感じていた。
彼は感じていた――自分が苦しむ理由は、この真っ暗な穴に吸い込まれようとしているからだが、しかしもっと大きな理由は、自分がその穴にもぐり込みきれないからだと。穴にもぐりこむのを邪魔しているのは、自分の人生が善きものだったという自覚であった。まさにその自分の人生の正当化の意識がつっかえ棒となって彼の前進を阻み、なによりも彼を苦しめているのだった。(p135)
そして、
不意になにかの力が胸を突き、わき腹を突いて、さらに息苦しさがつのった。と、彼は穴の中を落下していった。そして前方の穴の果てに、なにかが光り出したのだ。汽車に乗っていると、前に向かって走っているつもりでいたところが実は後に向かっていて、突然本当の方向を自覚することがあるが、ちょうどそのようなことが彼の身に起こっていた。
「そう、なにもかも間違っていた」彼は自分に語りかけた。「だがそれだってかまいはしない。」(p135)
これはまさにイワン・イリイチが落下しながら光を見いだし、自分の人生は間違っていたが、まだ取り返しはつくという認識を得た瞬間のことであった。(p136)
いったいなにが起こったのだろうか。
死の代わりにひとつの光があった。
「つまりこれだったのだ!」突然彼は声に出して言った。「なん歓ばしいことか!」
彼にとってこのすべては一瞬の出来事だったが、この一瞬の意味はもはや変わることはなかった。(p138)
そしてイワン・イリイチの死。
やつれ果てた体はときどきびくっと錬磨していた。それからぜいぜいいう音もヒューヒューいう音も、徐々に間遠になっていった。
「終わった!」誰かが彼の頭上で言った。
彼はその言葉を聞き取り、胸の中で繰り返した。
「死は終わった」彼は自分に言った。「もはや死はない」
彼はひとつ息を吸い込み、吐く途中で止まったかと思うと、グッと身を伸ばしてそのまま死んだ。
(p138)
いったいここで作者は何を語っているのだろうか。
われわれに何を呼びかけているのだろうか。
答えは明らかだ。
イワン・イリイチは最後に光を見出し、救いを得た。
ここでそういう言葉は使われていないが、彼は「神」を見出した。そして自己の生があるがままで肯定されていることを、すなわちすでに救われていることを知った。それは自己の思い煩いによってそうであるのではなく、彼の思いに先立ってすでにそうだったのであり、すでにそこにあったのである。彼が自分で自分の人生を正当化している限り、前の方を向いていると思って実は反対方向を向いている限り得ることのできないものであった。彼が自分を完全に捨て去って(則天去私!)初めて発見できるなにかであった。そしてそこには死はなく、永遠の生があった。
とまあ、なんだか分かったふうなことを言っているけれども、それについて私がなにか知っているというわけではない。これまでどっかで読んだ本の受け売りである。「そしてそこには死はなく、永遠の生があった」なんて書いたけれども、具体的な意味が分かって書いているわけではありません。
けれども、この物語の後半部分、煩悶を経て主人公が光りを見出すに至った経緯は、トルストイの実体験に基づくものだろう。そうして、彼がここで描いている人々の暮らしは、何度も繰り返すようだけれども、われわれの暮らしそのものであって、そういったものが虚偽であるという指摘は説得性を持っている。というか、おそらくそれは正しいのだろう。
では、そのことがわれわれにどういう意味をもつのか。
トルストイはわれわれに何を呼びかけているのだろうか。
イワン・イリイチの煩悶と苦悶を、われわれは皆、死ぬ寸前に抱えるだろうということだろうか。われわれも彼と同じように、自己の人生の意義に根本的な疑念を抱き、のたうち回るだろうということだろうか。死の寸前の断末魔の苦しみというのは、人々がこういうことを自覚して苦悶している姿なのだろうか。
そうしてわれわれもまた、死の間際に光を見出すだろうということだろうか。
そんなはずはない。
まず、多くの人々にとって、トルストイの問いは問いにならない。呼びかけにもならない。イワン・イリイチの妻にも、娘にも、息子にとっても、その問いとは関係なく人生は過ぎていくだろう。われわれの多くにとってもそれは同じだろう。
人によってはたしかに、同じような疑念が、死に至る寸前かも知れないし、トルストイ自身のように名声を極めた後かも知れないし、夏目漱石のようにロンドン留学中かも知れないけれども、そのような疑念が襲ってきて徹底的に苦しめられる、そういうことはあるだろう。多くの若い人々のように青年期にそのような疑問に囚われ、それが後々ふとした瞬間に頭をもたげてくるということはあるだろう。
結局その問いは「おまえは何のために生きているのか」ということに尽きる。
それは自分一個にかけられた問いであり、それにどう答えるかはそれぞれの問題である。
はたしてトルストイはそれにうまく答えられたのだろうか。いやそれは僭越な問いだ。問題は一人一人にかけられている。トルストイの問題はトルストイ自身が解決しなければならず、われわれの問題はわれわれが解決しなければならない。そしてトルストイはその問題の彼なりの仕方での解決を、われわれの先達として、ここでわれわれに提示してくれているのだ。それをどうするかはわれわれ自身の問題だ。
とはいえ、かりに人生が虚偽に満ちているとしても、その意義を問うことにどれだけの意味があるのだろうか。もしほんとうに人生が誤っているものだとしても、それをどうしようがあるのだろうか。
この作品では、イワン・イリイチが最後の瞬間に光を見出し、ハッピーエンドの結末が訪れたことになっているが、はたしてほんとうにそうなのか。あそこでは光があった。あのようにトルストイは光を見出したのだろう。しかし答えを求めて得られない場合もあるのではないか。ひょっとしたらそういうことの方が多いのではないか。この問いを問うために出発しながら途中で遭難し、煩悶しながら倒れた人間の方が圧倒的に多いのではないか。だからそういう���とはやらないほうがいいのではないか。
いや、このような功利的な設問の仕方自体に実は問題があるのかもしれない。
いや、しかしどうなのか。
最初にこの作品は自然にできあがったふうにみえるといったが、実は巧みに構築されていて、われわれの行動や思考パターンも、すでに作者が予見しているようである。
冒頭に置かれたイワン・イリイチの葬儀、同僚のピョートル・イワーノヴィチが死者の顔を眺める場面で、
その顔は生前よりも美しく、そして肝心なことに、より威厳があった。そこには、なすべきことはなしてきた、しかも過たずなし遂げた、といった表情が浮かんでいた。
おまけにその表情はさらに、生きている者に対する叱責ないし警告も含まれていた。その警告は、ピョートル・イワーノヴィチには場違いなもの、もしくは少なくとも自分には無関係なものと感じられた。
なぜだか不快感を覚えた、ピョートル・イワーノヴィチは、もう一度そそくさと十字を切ると、われながら礼を失していると思われるほどの勢いでくるりと後ろを向き、そのままドアへと向かったのだった。(p17)
われわれもドアから出て行くべきなのかもしれない。
そして歳を取るということは、こうした問いや警告に対して、老獪になれるということでもあるのだが……
●「クロイツェル・ソナタ」
クロイツェル・ソナタといえばべートーヴェンの有名な曲だけれども、どんな曲なのかは知らない。聴いたことがあるかもしれないけれどメロディは浮かんでこない。しかしこういうタイトルだから、きっとロマンチックなストーリーなんだろうなと思って読んでみたら性欲の話なのでびっくりした。こんなに有名で偉大で、しかも道徳的倫理的傾向が強いと思っていた作家の作品が、男女の肉体関係のことばかりだなんてスゴイ。
だからといってセクシーな場面があるわけではないので念のため。トルストイはやっぱり真面目すぎるほど真面目だから、ここでのテーマは、男女の肉体関係および人としての正しい生き方とはどういうものか、ということのようである。
この作品の中で、トルストイは女性が男性の性欲の対象としてしか扱われていないことを強調し、女性がそういうかたちでして生きていけない境遇を憐れむ一方で、そのために生じる女性の振舞いを浅ましいとして徹底的に非難する。
「男が高尚な感情のことを持ち出すのは嘘をついているに過ぎず、男に必要なのはただ肉体だけである。したがって男はあらゆる醜行は許しても、無様であか抜けない悪趣味な服装は、許しはしない……商売女がこのことを意識的に知っているのに対して、穢れなき処女はみな、これを無意識に、つまり動物のような仕方で知っているのです。
ここからメリヤスのセーターでボディ・ラインを露わにしたり、腰当てをつけてヒップをふくらましたり、肩や腰、はては胸までをむき出しにしたりといったファッションが生まれてくるのです。女性は、とりわけ男性経験から学んだ女性は、たいへんよくわきまえています――高尚な話題を巡る会話なぞはしょせんただのおしゃべりに過ぎず、男が必要としているのは肉体、および肉体をもっとも魅力的��光で浮き立たせてくれるものすべてであると。」(p180)
「まったくこれはもう、遊歩道にも路地にもいたるところに罠が仕掛けられているようなものです。いやそれよりひどいくらいですよ! そもそも賭け事が禁止されている一方で、女性がまるで娼婦のような、性欲を刺激する衣装を着るのはどうして野放しにされているのでしょう! 女性のほうが千倍も危険でしょうに!」(p191-192)
では作者にとって、理想的な男女の肉体関係のあり方というのはどういうものであるのか。それはただ、動物がそうであるように、子孫をもうけるためだけにおこなわれるガチンコ試合だけが、それにふさわしいものであるらしい。ところでトルストイが子供を13人ももうけたのは、そういうガチンコ試合がよっぽど好きだったせいではないか、おまけに私生児までもうけているのはいったいどういうことなんだ。トルストイの私生活を知った読者が必ず言ってみたくなりそうなことを私もここで言っておこう。
トルストイはこの時61歳。単に若い者同士がいちゃつくのを許しておけない気難しいジジイと変わらない気もするが、そういう年寄りに限って、むかしは道楽をやり尽くしていたりする。それはともかくトルストイによれば、女性のそういう煽情的な態度や行動は、あくまで男性側に原因があるとする。女性を快楽の道具としか取り扱わないからだ。
だがまあ、そういう考え方も含めて、ここで語られているのはすべて男性側からの理窟だな。トルストイはへりくだって語っているけれども、その謙遜は傲慢さの裏返しでしかない。
しかし、これはこれで面白い理窟だ。
この作品も、読んでいて飽きさせない。
後半は、主人公とその美しい妻とのあいだに起こった事件が物語られる。それも一気呵成に読める。
二つの作品とも、大人向けの作品だと思う。
これをもし20代で読んでいて、そのあと読まないでいるとしたら実にもったいない。30代、40代、あるいはもっと年を経てから読むと、とても面白いと思う。身につまされるところが多い。
トルストイはかなり面白い。そういうことを再認識できた一冊だった。
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イワン・イリイチの死について
判事のイワン・イリイチは、職務として自分に関係する人物には丁寧で慇懃に接する一方、職務上の関係がなくなると同時に、他のあらゆる関係を絶っていた。すなわち、職務上のことをきっぱりと切り離して自分の実人生と混同しない性格であった。その性格ゆえ、家族との関係に優先して、社交的であることを大切にし、体裁を保つことを考えていた。
ある時、わき腹が苦しく、正体不明の病気になった彼は、その性格から同僚には強がり、家族からは相手にされず、孤独感と死との恐怖に怯える日々を過ごしていた。酷く衰弱していた彼の慰めとなったのは、嘘を決してつかない性格で、イワンが虚栄心を張らずに心を許せる台所番のゲラーシムだけとなった。
痛みに苦しむイワンは、死の直前、ひとつの光(自分にとっては、死の恐怖が消えたこと、家族にとっては、自分が死ぬことでつらい目から解放されること?)を見ながら息をひきとるのであった。
人間にとって普遍的な死について、実在の裁判官の死をきっかけに構想した、後期トルストイの代表的な中編小説である。
裁判という形式を重んじる舞台で強者としての権力を行使していた彼が、弱者になった途端、医者(強者)のいつも変わらない形式ばった自己満足のような診断に憤りを感じるという皮肉が描かれている。また、共同体に属する社会的個人として、将来を約束された有望なイワンが、孤独でもう戻ることのできない死という絶望に苦しむという対比が見事に描かれており、そういう点で、主人公はこのような性格・境遇でなければならなかったといえよう。
また、うわべの嘘が憎いこと(116頁)、死ぬ理由を知りたいと願うこと(127頁)は、社会的弱者となったイワンが判事という論理的思考が要求される職務に矜持を持って取り組んで来た彼の性格ゆえに思った本心なのであろう。
全体を通じて、①「人間の死」について、②「社会的強者と弱者の関係」について見事に描いている作品であると考えられる。