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そして皇帝は、三人が見たこともないラクダの特徴を、なぜあれほどまで正確にいいあらわすことができたのかたずねた。
皇帝を満足させようと、まずいちばん上の王子が口をひらいた。
「陛下、ラクダは片目が見えなかったはずです。なぜならば、われわれが歩いてきた道ぞいでは、よく生えた側の草はまったく食べられておらず、もういっぽうのよく生えていない側の草が食べられていたからです。もし片目が欠けていなかったら、草がよく生えているほうをえらんで、あまり生えていないほうをえらぶことはなかったと思います。」
彼の話に、二番目の王子が口をはさんだ。
「ラクダの歯が一本欠けていることがわかりました。なぜならば、道ぞいの草がほとんど一足ごとに、ラクダの歯ほぼ一本分の大きさだけ食べのこされていたからです。」
「わたくしは」と、末の王子がいった。「そのラクダの足のうちの一本が不自由であると考えました。なぜかといいますと、地面にのこされた足あとをよく見ると、一本の足をひきずっていたことが見てとれたからです。」
(本文p.23-24)
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「セレンディピティ」の語源にあたる物語。積読していたが、偶然再会し読了。物語は前半と後半に別れており、前半の「セレンディピティ」の元になったと思われる三王子の変遷の下りや冒険はとても興味深い。面白いのはセレンデッィップの三王子が、旅先で出会う人々にまず与えることから、関係を築いていくところ。レヴィストロースが指摘したとおり、与えられることで人は欲しい物を手に入れる、という構造なのである。後半の三王子のその後にあたるところは、普通のお話しで面白くない。全体としては☆3といったところ。後書きでこの物語とセレンディピティについての関連を解説しているところは興味深い。それによると物語のキーマンであるべーラム皇帝はササン朝ペルシアのバラフーム5世がモデル。ちょうどローマ帝国が瓦解し始めた同じ時期オリエントで、セレンディピティが起源していた…とは歴史は不思議。
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セレンディピティの元になったセレンディップの王子の三人の物語。優れた洞察力とひらめきで物事をずばりと言い当て、自らの道を切り開く彼らにはほほぅと思うところがあった。
空に右手が浮かんで人を捕らえる、という悩みを抱える国という突拍子もない話のほうが印象的。
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セレンディピティのもとになったストーリーとのことで興味をもって読んでみた。なるほどーとまではいかないものの、童話・物語としては、地域性というのか色のようなものが出ていておもしろかった。
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セレンディピティの語源となった童話。
三人の王子が、セレンディピティ(「偶然」と「才気」によって、探していないもの、予期しないものを発見する)を実現していくストーリー。
読みやすいが、あまり物語の内容は単調で面白くはない。巻末の解説部分がなければ、何を読んだのか分からないまま終わってしまうかも。
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「セレンディピティ」という言葉をたまに耳にするが、本書はその「セレンディピティ」という言葉の元となったペルシャの民話の翻訳。
父王に命じられて旅に出たセレンディップ(今のスリランカとのこと)の3人の王子が、途中で遭遇するトラブルを持ち前の才気で見事に解決していく、という話がメイン。
そのあとになぜか王子たちとは直接かかわりのない話が延々と続き、そしてまた、王子たちがそれぞれ物語のハッピーエンドを迎えて本書は終了となっている。
本書解説によれば「セレンディピティ」は、18世紀のイギリス人文筆家ホリス・ウォルポール伯爵が、幼年時代に読んだ本書の表題にちなんで作った言葉とのこと。
彼によると、「偶然と才気によって、探してもいなかったものを発見する」ことを意味するという。
ただ、解説によれば、この言葉は昨今では「しあわせな偶然」の意味でつかわれることが多いが、それはセレンディピティではなく、あくまでセレンディピティには「偶然」と「才気」の両方が必要であるとして、レントゲン教授のX線の発見をその典型例として挙げている。
その他にも典型例として、ノリ養殖の際のカビの繁殖を抑えるのにはクエン酸が効くことを発見したことや、ペニシリンの発見を挙げている。個人的には、糊付き付箋の「ポスト・イット」の発明のエピソードもまさに「セレンディピティ」にあてはまると思った。
そして、解説では一般の人であってもセレンディピティを体験することはできるが、そのためには「なにごとかに集中する意識があって、周囲の出来事を注意深く観察し、それに瞬間的に無心に反応する心が常に備わっていることが必要」で、かつ「気づいた偶然を解析する能力と根性」が必要としている。
ということで、単なる幸せな偶然は厳密な意味でのセレンディピティではなく、本来の意味でのセレンディピティを経験するためにはある程度の能力が必要とされることが本書を読んで理解できた。
ちなみに、セレンディピティのように日本の童話や民話から作られた言葉ってあるのかな、と考えてみたが寡聞にして思いつかなかった。ご存じの方がいらっしゃればご教示頂けると幸いです。
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童心に帰るデー。(勝手に命名。何の前触れもなしに訪れる)
いつもみたいに細かいことにはツッコまず、ひたすら物語に没入する。そのためには聞いたことのないお話が一番。
エキゾチックなおとぎ話なのかと思っていたら、蓋を開けてみれば王子たちの英雄譚だった。(ちなみに「セレンディップ」とは今のスリランカ) ざっくり言えば彼らの知性で旅先で出会う人々や王国の運命を切り開くというストーリーで、全体的に美談で彩られている。その為か人々の心理描写が乏しく、特徴的な人物が登場しても一度退場したらそれっきり。美談だけではお腹は膨れず、ちと物足りなかった… 言った傍から童心吹き飛んでツッコミ入れてる汗
でも没入はできた。
その手助けとなった一つが増田幹生さんのイラスト。
原色が好きで、目にも鮮やかな表紙絵に見惚れた。児童書のため挿絵も多く見られるが、良い意味で漫画っぽさを感じさせない。人物の動作や衣装の描写も鉛筆スケッチ風でありながら細やかで、ファンタジー映画に出てきそうと眺め入っていた。
増田幹生さんをググってみると、カードゲームのイラストも手掛けられているとの事で妙に納得…笑
あと"Serendipity"の源流を自分の目でも確かめたかった。
翻訳者の竹内氏曰く、"Serendipity"とは「偶然と才気によって、さがしてもいなかったものを発見する」ことを意味する。(色々解釈はあるやろけど、ここでは「才気=偶然を生かす力」な気がする)
18世紀の英作家ウォルポールが『セレンディップの…』を読み、そこから生み出したのが"Serendipity"というワードらしい。何を見て感じてそう言わしめたのか、気になってしょうがなかった。
結果的に知性豊かな王子たちがあちこちで"Serendipity"を導き出していたのだが、竹内氏は「我々も心構えしだいで見つけられる」と述べている。偶然はあっても自分なんかの「才気」とやらで、探してもいなかったもの(/未知のもの)をこの先見つけ出せるのか。王子たちはその場でアイデアを弾き出していたけど、次にどのステップを踏むのかをちまちま考えるのが精一杯かも。
童心に帰るどころか、グンと離れてしまった。
今は童心が帰ってこない。
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セレンディピティという言葉の元になった話というので読んでみたが、成る程。素晴らしい偶然とは、それに気づく才知が伴っているかどうかに掛かっている、そんな物語と読んだ。王子たちに出会った(相応な人物と見抜いた)者もまた、その発見に巡り合う。知的である事を軽視する今の日本にこそ、必要な物語かもしれない。ただ、伝承の宿命ではあるが、何文化だか最早わからない異国情緒を放つ物語に仕上がっており、本質的な面白さは前半に終わっているのはやむを得ないというか、伝承の楽しみ方という他にないだろう。
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セレンディピティという言葉の生まれる元となった物語ということを知って、読んだ。
「偶然と才気によって、さがしてもいなかったものを発見する」ことであり、単なる「しあわせな偶然」を表す言葉でもなければ「なにか見うしなった特定のものをさがしまわり見つけること」でもないことがあとがきに書かれている。科学技術の発見にはこのような場合が非常に多い。
偶然を生かし、発見する幸運をつかむのは、注意深く観察し意識するという私たちの心構え次第。先入観は禁物。
物語自体は、おとぎ話であり、主人公の王子達や国におこることはできすぎていて、いくらセレンディピティといっても都合が良すぎる感がある。今の時代の感覚で読むと、王子の発言や行動はそれほど才覚のある発言にも思えなかったり、できすぎて笑えるほど。
ただ、病んだ皇帝のために語り手が一夜ずつ違う物語を語り、それがすばらしい物語であることに褒美を授け体調も日に日によくなるという7日間の章は、独特の異世界観があり、”千一夜物語”もこのようなものかと興味深かった。