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分析哲学の見地から、「誠実・不実」、「親切・冷酷」、「善悪」といった問題に取り組む一冊です。ある程度、序盤で説明がなされているという意味では、まさに副題の「倫理学への招待」に適う内容になっているものと思われ、これらに興味のある方にはオススメといえるかもしれません。
ただし、そもそも「分析哲学に対する立場」や、「これほどのテーマを分析哲学の見地から論じるにあたり、新書の分量で足りるのか」といった点が問題になるでしょう。特に後者は、仕方のないことでしょうが、かなり不満の残るものとなってしまっています。また、「希薄な評価語と濃密な評価語」、「生きられている道徳」といった耳慣れない言葉が用いられているため、少々戸惑いました。これらの点をおくにしても、専門外の者からして疑問の残る記述があります。たとえば、従来、対をなすものと考えられていた「善悪」について、「悪の増大の防止に寄与するのが、善」(170頁)としたことで、「悪」を基礎付ける観点が完全に抜け落ちてしまっている点が挙げられます。さらにこの点をおくにしても、「善」の定義は、その後「いわれなき苦悩が、これ以上増えないようにすること」(190頁)、「いわれなき苦悩が、減るようにするもの」(192頁)と変遷していきます。とりわけ「増えないようにすること」と「減るようにすること」とは、まったく異なるものである以上、専門家の記述としては到底看過しえません。同様の指摘がなしうる個所がみられる点や、明らかに結論を先取りしている個所がみられる点、
(著者の自覚のもとで)説明の不十分な点もあり、残念な読後感が残ってしまいました。
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入門書として大変良くできている。しかし、初学者にとってはそうスイスイ読み流せるものではない。ゆっくりと丹念に思考しながら読み進ませるがゆえに入門書に適している。
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難しいかったので途中で切り上げた。
「いい」とは何か?「悪い」とは何か?「いい」「悪い」を「快い」と「快くない」で分ける。「快い」とは何か?そもそも、人が感じる感情は何をもってして判断すればよいのか?こういった感じで、ものごとではなく意識層を深く掘り下げて読み進めていく著書。‘倫理学への招待’という副題はわかりやすいく簡潔であると感じる。
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善と悪まったく反対語であります。中国語での善という意味は非常にいい意味で、私の名前にも善という文字が入ります。両親は私が大人になってもやさしい人になってほしかったでしょう。
しかし、世の中は悪があるこそ善の優しさや大事さを感じられるし、善があるこそ悪というものもあるわけです。その二つの概念はいつも同時に存在しているわけです。
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読了に一月を要した。倫理学という学問になじみがなかったことと、くせのある語り口に慣れるのに手間取ったため。
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前半は結構面白く読めたが、
後半はまあまあだった。
この本のテーマを一言で言うと、
「道徳の規範性はどこからくるのか」である。
道徳判断は相対的であり、反応依存的であると同時に、
対象の側から何かしらの制約も受けている。
この相反する2つの要素を備えた道徳の特性を、
投影主義や科学との類比、パターン認知などを通して、
著者は紐解いていく。
そもそも投影主義とは、
「当人の主観的な心理状態が、
あたかも対象の特性を認知したかのように、
対象に投影される」(p.107)という立場を取る。
だが、
どのような心理状態が投影されたのか、
という点を説明するには、
投影の結果とされる特性の概念を引き合いに出す必要が生じ、
循環が起きてしまう。
そこで、この循環を解決するために出てきたのが、
「パターン認知」と呼ばれるものである。
私が物足りないと感じたのは、
規範の問題をパターンの実在性によって
ごまかしている点である。
つまりパターンを、
投影主義のような「個人の心的過程」ではなく、
「共同主観的な過程」に位置づけることで、
規範性もしくは道徳の客観性を確保しようとしているのだ。
ここの議論は、
前半部分での議論の流れを考えると、
あまり納得いかなかった。
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倫理学演習で使った本。
人は「善い」「悪い」をどうやって決めるのか?
「よく生きる」にはどうすればいいのか?
入門書だし、読みやすい。
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[ 内容 ]
道徳的にみて「善い」「悪い」という判断には、客観的な根拠はあるのか。
「赤い」「青い」などの知覚的判断や、「酸性」「アルカリ性」などの科学的判断とはどう違うのか。
その基準となる「道徳原理」は、どのようにありうるか。
ソクラテス以来の大問題を、最新の分析哲学の手法を用いて根底から論じ、倫理学の基本を解き明かす。
[ 目次 ]
第1章 道徳判断とは
第2章 「善し悪しは、その人しだい」とは?
第3章 道徳判断の客観性
第4章 行為・人柄の評価と実践
第5章 美徳と悪徳―呻きの沈殿と、共感
第6章 諸々の徳性と善悪
第7章 道徳原理
終わりに いい人生と、よく生きること
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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何が「善」で何が「悪」かという人間の永遠のテーマを扱った本。
時代や地域によって「善悪」、「正邪」の線引きが異なることは言うまでもないが、その線がどのような判断に基づいて引かれたかということに考えが及ぶ人はあまりいない。胎児の中絶を、善とは言えないまでもやむを得ないと判断する人もいれば、中絶=人殺し=悪と捉える人もいる。
そもそも、「善悪」、「正邪」は「丁寧」、「無礼」といった濃厚な評価語と異なり、稀薄な評価語(時代や地域によって線引きがまちまち)である。それでも通底する部分を探せば、「悪」とは、「人を痛めつける言動」、「価値ある者の剥奪」、「欲求の充足の妨害」、「基本的権利(人権)の蹂躙」という点に落ち着きます。そして、「善」はそういった「悪を認識・自覚すること」。その判断基準がまちまちだからこそ厄介なのではあるが。
著者は第7章で善悪の輪郭を、
1.「善・悪」をめぐる私たちの道徳判断の岩盤は、「誠実・不実」「親切・冷酷」といった特性の認知にある、
2.そうした徳性は、”間柄によって支えられもすれば痛めつけられもする人間のありようへの気づかい”によって見分けられるコンテキストで、浮かび上がってくる行為パターンである、
3.したがって、そうした徳性は、物性には還元できないが、私たちが正しくあるいは誤って認知する実存的な性質である、
4.「善・悪」は「誠実・不実」「親切・冷酷」といった諸徳性とならぶ、もう一つの徳性ではなく、むしろ諸徳性をも総括する、したがってより抽象的なパターン概念である、
5.したがって、善悪の見極めには、普遍化可能性・不偏性をみたす道徳原理が必要となる、
としている。善悪の判断には特定の思想や文化、イデオロギーに依拠せず、どこでも、だれもが納得できるような基準が必要ということになる。何だか平凡な感じるが。
「普遍化可能性・不偏性をみたす道徳原理」をどのように作り出すか、というところに言及してほしかったと考える私には少々物足りない。
絶対的な善悪の基準はないが、我々がどこに善悪の判断基準を置いているのか省察することを怠るのは賢明ではない。それを探るためにはある程度有益な本だった。
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さすがに難しい。M・サンデル「これからの正義の話をしよう」を読んだことがあるので、その論点を別角度から考えてみるにはよい機会となった。といっても半分も内容を理解してはいないのだろうなぁと思う。たまにはこういうものを読んでみるのも悪くない。
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本のタイトルが悪い。「善/悪とは何か?」を純粋に求めたい人にとっては期待外れになる。道徳の根拠の正当性を探るのが倫理学だとすれば、その倫理学の根幹の問いを分析哲学の手法でゴリゴリと探究していくので、規範倫理学や義務論、カント倫理学などを学びたい人にとっては若干方向が違うように思えてしまうだろう。むしろ「分析哲学入門」の入門としてタイトルを変えて出した方が読者が求めていた疑問に応えれたのではないだろうかと今更ながら思う。
しかしながら、道徳的行為の判断基準が個々人によって違うとする相対主義の問題や、道徳の根拠の客観性はいかにして担保されるのかなどの問いには、分析哲学の手法にせよ、人間が他者との関係性の中で自己や世界を再帰的に形づくり、その関係性にこそ倫理が求められる場面が現れてくる、という視点は重要である。
ただし、この本は分析哲学の本であるが。
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倫理学の授業を取ったが無知すぎるため読んだ一冊。善と悪と言う題名ではあるが、倫理学の基礎的概念、もしくは一般的な概念について述べている。善悪の判断は徳性の認知がベースではあるが、その認知には普遍化特性と不偏性を包括した原理を必要としており、それを基準としているとしている。そして、人との関わりの中でのものであるため、「生きられている道徳」の中に善悪判断を投じている、としている。倫理学というか哲学は難しい・・・。
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道徳言語が「実践に参与」しており、実践に「内在的な視野」を離れると意味を持ち得なくなる。
普遍的な評価語(善悪、正邪など): thin
記述的な評価語(誠実、温厚、冷酷など): thick
濃密な評価語の方が世界を描写する言語(科学的言語も含む)より普遍的。誠実な人はどの文化圏でも高い評価が与えられるが、世界を描写する仕方は様々。
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ちょっと必要に迫られて読みました。
いみじくも著者は、「あとがき」で本書についてこう書いています。
「一般読者には箇所によっては不必要に重く、倫理学の専門家にとっては軽すぎ、情況的には迂遠すぎる…」云々。
倫理学の素養のない一般読者たる自分には、不必要に重すぎました。
だって、「反省的均衡の追求」とか「希薄な評価語と濃密な評価語」とか「共同主観的な沈殿」とか、聞き慣れない言葉が次から次に出て来るのですよ。
手軽さが売りの新書ですが、思いのほか手こずりながら何とか読了しました。
そんなわけですから、分かった風な顔をしてレビューを書くわけにはいきません(いつもそうですが)。
こういう時は、理解できたところ(あるいは感動したところ)だけに特化してレビューを書くがよろしい。
というわけで、まず、最も印象に残ったのは、道徳原理の候補たりうる
「最大多数の最小苦悩」
という命題です。
次のケースがとても分かりやすかったです。
それは、「出生前の診断によって、先天的障害のあることが判明した場合、それを理由とする人工中絶は、悪い事なのか?」というものです。
たしかに、「最大多数の最小苦悩」を前提にすると、一見、人工中絶は悪くない、むしろ善い、という結論になるように見えます。
著者はそのように述べて、以下、2つの理由を挙げます。
①人工中絶をした場合、自分に原因がないという意味で中絶した女性の「いわれなき苦悩」が生じるが、その胎児が生まれるに任せた時は、その後、生まれた子どもの苦悩、生んだ親の苦悩などなど、避け得たのに避けなかったがゆえの「いわれなき(?)苦悩」が増大する。両者を比べれば、「最大多数の最小苦悩」の命題で正当化されるのは前者。
②妊婦が望むなら中絶するという選択肢は、〝生む・生まないは女の自由〟と主張されてきた、女性の自由権ないし自己決定権を尊重することであり、そのことは、女性の自由権が否認されていたがゆえの、幾多のいわれなき苦悩を減少させる。
しかし、と著者は言います。
この2つの推論だけだと、「いくつかの論点が手つかずのままになっている」。
最大多数の最小苦悩とは、正確に言うと、「全体として、最も多くの人の・より深刻ないわれなき苦悩が減るようにするものは、善い」という命題です。
つまり、人々の苦悩の「深刻さ」の度合い、さらには、社会全体にとっての影響も考慮に入れなければならないというのです。
たとえば、胎児の先天性障害が診断された後でも生むことを選ぶカップルの存在です。
もし、「出生前診断の結果を理由とする人工中絶は善いことだ」という判断が正当化されると、生まれてきた障害児は「生まれない方が善かった」子という烙印を押されてしまいます。
そうなった場合、親もまた、生きていく辛さに加え、子どもが「生きているべきでない」とされる辛さを背負い込まされることになります。
それは「いわれなき苦悩」の深刻さにおいて、ほとんど「絶望的」というのが著者の見方です。
私も全く同意します。
では、どのように考えるべきなのでしょう��
著者は「今の私は確たることは言えない」と前置きしたうえで、次のように述べます。
「どの自由権も無制限ではないように、〝生む・生まないは女の自由〟と言われる自由権もまた、無制限ではない。〝本来なら生きているべきではない〟と烙印を押される人が生じる可能性がある場合には、少なくとも〝障害のある胎児を人工中絶するほうが善い〟という結論を正当化するような仕方で自由権を主張することに対しては、なんらかの留保が付されることもありえよう」
実に納得のいく話です。
これだけでも、本書を読む価値はありました。
それにしても、大学時代に倫理学をちゃんと勉強しておくべきでしたね。
チャンスはあったのに。
反省。
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アマゾンあたりでは酷評のようだが、それほど悪い本でもないように思う。
まとめを引用しておくと
・「善悪」をめぐる道徳判断の基盤は徳の認知にある。
・徳は「閒柄によって支えられもすれば痛めつけられもする」人間のありようへの「気づかい」(共感)で浮かび上がる行為のパターンである。
.・このパターンは物性に還元できないが、行為自体からの制約もうけており、科学が措定する素粒子のような実在的な性質である。
・善悪は徳より抽象的な「行為のパターン」のパターンである。したがって、徳そのものが「善いか悪いか」を論ずることもできる。
・善悪の見きわめには普遍化可能性と不偏性の両方をみたす道徳原理が必要である。この点で「最大多数の最小不幸」は道徳原理の候補になりうる。
なんでも「システム化」(たとえば、心の問題はカウンセリングにまかせればよいというような姿勢)すれば問題が解決するというのは思考放棄だし、「システム」の部分最適だけを追求して、個人の間のモラルなどナイーブなものとして軽視することはやはりできないだろう。
前半は善と悪は気持ちの問題なのかという点が問題になるのだが、けっきょく「なんでもいい」というわけではなく、行為の性質にも根ざしているから、科学のいう素粒子のようなもんで感覚ではとらえられないが、善悪は実在するということになる。善と悪よりも実際的な「徳」(勇敢・誠実)などについては、ときに食いちがうが、食いちがうからといって、文化によってちがうとか、そういうことにはならない。判断が食いちがう場合は、行為のどの部分を切りとるかというちがいであることが多いのである。こういう柔軟な思考はおもしろい点である。
徳は行為のパターンであるが、善悪は徳より抽象的な「行為パターンのパターン」で、徳じたいが善か悪かを問いうる。
で、善悪は道徳原理から出てくるのであるが、これは全称命題(すべての〜は……せねばならない)の形で示されねばならず、登場人物をかえること(普遍化可能性)と偏りのないこと(不偏性)の双方が必要で、「大多数の最小不幸」が一つの候補であるといっている。
パターンというのは、『易』にみえる中国思想の大事な要素であり、善と悪をパターン認識で把握しようとしているのは『春秋』などにもみられる。また、「関係によって支えられもすれば傷つけられもする人間への気づかい」なども五常ともつながるだろう。「共感」については、フランス・ドゥ・ヴァール『道徳性の起原』に動物との連続が説かれている。
中国思想の倫理学も進化倫理学とか、現代倫理学と接点があるんだなと思った。