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第四部 人間の隷属あるいは感情の力について
定理
三、人間の存在に固執する力は制限せられており、外部の原因の力に因りて無限に凌駕される。
五、各各の受動の力及び発展、並びに其れの存在への固執は、我我が存在に固執せむと努むる能力に因りては規定され得ず、我我の能力と比較せられる外部の原因の力に因りて規定される。
六、或受動乃至感情の力は人間の其の他の働き乃至能力を凌駕する事能ふ。斯くて其の様な感情は執拗に人間に追従す。
七、感情は其れの反対の且其れよりも強力な感情に因るならでは抑制される事も除去される事も能はず。
八、善及び悪の認識は、我我に意識される限りに於ける喜びあるいは悲しみの感情に他ならず。
十四、善及び悪の真の認識は、其れが真であると云ふ丈では、如何なる感情も抑制し得ず。唯其れが感情として見られる限りに於いてのみ感情を抑制し得る。
二十、各人は自己の利益を追求する事に、言ひかへれば自己の有を維持する事に、より多く努め且より多く其れを成し得るに従ひて其れ丈有徳なり。亦反対に、各人は自己の利益を、言ひかへれば自己の有を維持する事を放棄する限りに於いて無力なり。
二十二、如何なる徳も自己保存の努力より先に考ふ事能はず。
二十五、何人も他の物の為に自己の有を維持せむと努めはせず。
二十六、我我が理性に基づきて為す全ての努力は認識する事にのみ向けらる。然して精神は、理性を用ふる限り、認識に役立つ物しか自己に有益なると判断せず。
二十八、精神の最高の善は神の認識なり。亦精神の最高の徳は神を認識する事なり。
三十一、物は我我の本性と一致する限り必然的に善なり。
三十四、人間は受動と云ふ感情に纏はる限り相互に対立的で有り得る。
三十五、人間は、理性の導きに従ひて生活する限り、唯其の限りに於いて、本性上常に必然的に一致する。
三十六、徳に従ふ人人の最高の善は全ての人に共通であり、全ての人が等しく此れを楽しむ事能ふる。
四十ニ、快活は過度に成り得ず、常に善なり。反対に憂鬱は常に悪なり。
四十四、愛及び欲望は過度に成り得る。
四十六、理性の導きに従ひて生活する人は、能ふ丈、自分に対する他人の憎しみ、怒り、軽蔑などを逆に愛あるいは寛仁で報ゆる様に努むる。
五十、憐憫は理性の導きに従ひて生活する人間に於いては其れ自体では悪なり且無用なり。
五十ニ、自己満足は理性から生する事能ふ。然して理性から生する此の満足のみが、存在し得る最高の満足なり。
六十二、精神は、理性の指図に従ひて物を考ふる限り、観念が未来あるいは過去の物に関せむとも現在の物に関せむとも同様の刺激を受くる。
六十四、悪の認識は非妥当な認識なり。
六十七、自由の人は何についてよりも死について思惟する事が最も少ななり。然して彼の知恵は死についての省察にあらず、生についての省察なり。
七十、無知の人人の間に生活する自由の人は能ふ丈彼らの親切を避けむずると努むる。
七十一、自由の人人のみが相互に最も多く感謝し合ふ。
七十三、理性に導かれる人間は、自己自身にのみ服従する孤独に���いてよりも、共同の決定に従ひて生活する国家に於いて愈愈自由なり。
第五部 知性の能力あるいは人間の自由に就て
定理
一、思想及び物の観念が精神の中で秩序付くるる・連結せらるるのに全く相応して、身体の変状あるいは物の表象像は身体の中で秩序付けられ・連結される。
三、受動と云ふ感情は、我我が其れについて明瞭判然たる観念を形成するより、受動なる事を止める。
四、我我が何らかの明瞭判然たる観念を形成し得ぬやうな如何なる身体的変状も存せず。
五、我我が単純に表象するのみで必然的とも可能的とも偶然的とも表象せぬ物に対する感情は、其の他の事情が等しければ、全ての感情の内で最大の物なり。
六、精神は全ての物を必然的として認識する限り、感情に対してより大なる能力を有し、あるいは感情から働きを受くる事がより少なり。
十、我我は、我我の本性と相反する感情に捉へられぬ間は、知性と一致せし秩序に従ひて身体の変状〔刺激状態〕を秩序付け・連結する力を有す。
十一、表象像はより多くの物に関係するに従ひて其れ丈頻繁なり。言ひかへれば其れ丈繁く現はる。然して其れ丈多く精神を占有す。
十五、自己並びに自己の感情を明瞭判然と認識する者は神を愛す。然して彼は自己並びに自己の感情を認識する事がより多きに従ひて其れ丈多く神を愛す。
十六、神に対する此の愛は精神を最も多く占有すべし。
十七、神は如何なる受動にも与らず、亦如何なる喜びあるいは悲しみの感情にも動かせられず。
十ハ、何びとも神を憎むべからざる。
十九、神を愛する者は、神が自分を愛し返すやうに努むる事能はず。
二十一、精神は身体の持続する間だけしか物を表象など・過去の事柄の想起などをする事能はず。
二十二、然れど神の中には此の亦は彼の人間身体の本質を永遠の相の基に表現する観念が必然的に存す。
二十三、人間精神は身体とともに完全には破壊され得ずに、其の中の永遠なるある物が残存す。
二十五、精神の最高の努力及び最高の徳は、物を第三種の認識に於いて認識する事なり。
二十九、精神は永遠の相の基に認識する全ての物を、身体の現在の現実的存在を考ふる事に因りて認識するならざるに、身体の本質を永遠の相の基に考ふる事に因りて認識す。
三十、我我の精神は其れ自ら及び身体を永遠の相の基に認識する限り、必然的に神の認識を有せし、亦自らが神の中に在り神に因りて考へらるる事を知る。
三十一、第三種の認識は、永遠なる限りに於いての精神を其の形相的原因とす。
三十二、我我は第三種の認識に於いて認識する全ての事を楽しみ、而も此の楽しみは其の原因としての神の観念を伴へり。
三十三、第三種の認識から生する神に対する知的愛は永遠なり。
三十四、精神は身体が持続する間丈しか受動に属する感情に従属せず。
三十五、神は無限の知的愛をもて自己自身を愛す。
三十六、神に対する精神の知的愛は、神が無限なる限りに於いてならず、神が永遠の相の基に見ゆる人間精神の本質に因りて説明され得る限りに於いて、神が自己自身を愛する神の愛其の物なり。言ひかへれば、神に対する精神の知的愛は、神が自己自身を愛する無限の愛の一部分なり��
三十七、自然の中には此の知的愛に対立的でありあるいは此れを消滅させし得るやうな如何なる物も存せず。
四十、各各の物はより多くの完全性を有するに従ひて働きを為す事が其れ丈多く、働きを受くる事が其れ丈少なし。反対に各各の物は働きを為す事がより多くに従ひて其れ丈完全なり。
四十一、仮令我我が我我の精神の永遠なる事を知らずとも、我我は矢張り道義心及び宗教心を、一般的に云へば我我が第四部に於いて勇気及び寛仁に属する物として示しける全ての事柄を、何より重要なものと見做すべし。
四十ニ、至福は徳の報酬ならずに徳其れ自身なり。然して我我は快楽を抑制するが故に至福を享受するにあらず、反対に、至福を享受するが故に快楽を抑制し得るなり。