紙の本
三上文法にふかく共感した日本語教師による、ゆきとどいた評伝。
2010/04/27 17:26
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投稿者:風紋 - この投稿者のレビュー一覧を見る
17世紀のフランスには文学上の一ジャンルに「ポルトレ」があった。文字をもってする肖像の意で、風貌、気質、行為まで描きだそうとするが、本格的な伝記でも人間研究でもない。そう桑原武夫は紹介し、「ポルトレ」を訳せば「人間素描」となる、という。
桑原武夫『人間素描』(筑摩書房、1976)は、30有余人の「人間素描」をおさめる。素描された一人に、『象は鼻が長い』の三上章がいる。
三上章に係るポルトレは、いまはなき雑誌「展望」1971年1月号に掲載された。追悼文である。「やがて現れるににちがいない彼の伝記作者のために」、「この独創的な学者の風貌を書きとめ」ている。
ここで紹介される逸話はいずれも瞠目するべきものだが、一例は後ほど記す。
ところで、桑原は三上章を土着主義の先駆者の一人と位置づけている。土着の進化論者、今西錦司は、「三上から深い影響を受けたと書いている」。三高で、今西と三上は同級、桑原は1級下であった。
このポルトレ、ついに現れた伝記作者により、本書で再三引用されている。
本書を通読すると、さほど多くの接触があったわけではない桑原が、じつによく三上の人となりを見ぬいてることに驚かされる。
たとえば、反骨精神。三高時代、ズボンの前のボタンをかけるのを忘れて教師に注意されると、翌日ズボンのボタンを全部ちぎって登校した。西洋人の多くはマワシあるいはパンツをはいていないからボタンをかけねば陽物がみえるおそれがあるが、日本人はきっちり下帯をしているからそんな紳士づらをする必要はない、という理屈であった。三上はそれで押しとおしたらしい、と桑原は伝える。
本書も、類似の逸話を掘り起こしている。中学校の数学の考査で、問題が容易すぎて解答する気がしない、と用紙に○を書いて早々と提出し、図書館で読書にふけった。無礼といえば無礼なふるまいだが、教師は三上少年を可愛がり、後々まで世話をやいたらしい。
人は文化をうけ継ぎ、成長していく。反骨も独創も、型破りは、「型」を前提とする。「型」が身についていなければ、単なる放埒にすぎない。
三上は広汎に読書し、先人の知識と知恵をうけ継いだ。本書によれば、進化論を今西錦司に伝えたのは三上である。
三上の基本的な「型」は、数学にあったらしい。
数学にすぐれていた、と桑原ポルトレは以下のような逸話を伝える。数学の試験を解く際、教師が教室で教えたのとはちがう解き口を見いだそうと努力して、おおむねそれに成功したらしい。また、既知数をabc、未知数をxyzとするのは日本人としておかしいのではないか、と疑問をていし、イセの3乗+ロスの自乗-ハン=0のごとき数式を組み立てて教師を怒らせた。
本書でも、80人が受けた試験において、ある難問を正解したのは三上ひとりだった、と伝える。
三上は、ポール・ヴァレリーを愛したが、ヴァレリーも数学に凝った人だった。
三上は、文学評論家として立つ野心があったらしい。これを断念し、文法ひとすじに方向転換した契機はふたつある、と本書はいう。
ひとつは、吉田健一が主宰する『批評』誌から連載を依頼されながら、一度掲載されたのみで、不明の理由により一方的に連載中止を宣告されたこと。もうひとつは、佐久間鼎『日本語の特質』との出会いである。いずれも1941年のことで、奇しくも日本が運命が大きく変転した年でもあった。太平洋戦争の勃発である。
この1941年、三上は母フサと妹茂子を布施(現・東大阪市)の借家に呼び寄せ、同居をはじめた。以後、茂子は、家事の能力がまったくない三上を生涯ささえつづける。三上は、ついに妻を娶らず、研究に没頭した。
三上文法の是非には立ち入らない。評者には、その素養がない。ただ、海外で日本語を教育するにあたって三上文法が有効である理由が本書第一章に整理されている、とだけ記しておく。オーストラリアほか、海外で三上文法の評価が高いことは、桑原ポルトレにも付記されている。
ちなみに、この伝記作者は、本書刊行当時モントリオール大学東アジア研究所日本語科長で、三上章の学問的業績について別に論文、著作をあらわしている(『日本語に主語はいらない』、講談社選書メチエ、2002、ほか)。
「街の語学者」(第四章のタイトル)を支持する者はいたし、国語学者の金田一春彦は「保守的閉鎖的な国語学界でまったく例外的」に三上に早くから注目し、熱心に応援した。
しかし、国内の学者の大多数は、三上とまともに議論を交わさなかった。
伝記作者は、学者たちから「シカト」された、という。「さすがの強靱な精神も孤立感、無力感を強めていったのである」。そして、三上60歳の年の暮、異常なふるまいにより警察に保護され、入院した。躁鬱病と診断された。
晩年の三上は傷ましい。
若年時の三上は、快活、洒脱なユーモアにあふれた談話の名手だったらしい。自宅に客がひきもきらず、談笑の声が別室の妹の耳にもとどいた、と妹は証言する。
しかし、晩年の三上は、大学へ教授として招聘するという吉報の使者を、「相手の心を見透かすような眼鏡越しの冷静な視線」で迎えた。
1965年、新設の大谷女子大学の国語科教授に推されて就任したが、三上の心身はすでに病んでいた。肺をガンがおかしつつあった。精神は硬直し、ユーモアを忘れていた。たとえば、始業時刻ちょうどになるまで廊下に立って待ちうけ、終業のチャイムが鳴るなり、発言の途中でも打ち切って、さっさと教室をあとにした。学生たちは、鐘が鳴るとすぐでていく「消防自動車」とあだ名したという。
ハーバード大学から招かれたが、なにも教えず、3週間で帰国した。桑原ポルトレは「大学側の用意した部屋があまり大きく立派すぎて落着かぬからというのがその理由と聞いた」と逸話ふうに記すが、本書によれば、そんな容易なものではなかった。不眠がつづき、生活面での不如意があり(妹は同行しなかった)、「精神が立った」状態になって入院。日本へ送り返された。
帰国した三上には、1年間余の命しか残されていなかった。
三上の生涯をたどってみると、たしかに才能のある人だったらしい。才人らしく、型にはまった行動をとらず、ある意味で自由気ままに生きた。金融恐慌の就職困難な時期にようやく得た台湾総督府の技官の「顕職」を、退屈を理由に2年で辞したのはその一例である。
しかし、型破りは型にはまった世間から復讐される。「主語を抹殺した男」は、国語学者という世間から抹殺・・・・されかけた。
三上文法が斯界の主流を占めなかった、というだけのことであれば、一掬の涙をながすことはあっても、それ以上の思いをいだく必要はない。学問上の正否は、学問の世界で決着をつけるしかない。
しかし、まともな議論がおこなわれず、三上が「シカト」されたことには滂沱たる涙をながしてよい。特定の個人に対する組織的排除は、小学校のイジメに端的にみられるように、日本社会の陰湿な側面である。三上は、その犠牲者だった。
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日本が生んだすぐれた文法学者三上章の評伝である。金谷氏はカナダの日本語のクラスにおいてぶつかった問題が三上文法によって氷解したことに感激し、三上を顕彰するために三冊の本を書き、そしてここに評伝を書きあげた。ここには三上に心酔し、三上の不遇に同情する気持ちが十分に表れてはいる。しかし、わたしには金谷氏の三上に対する思い入れがあまりに強すぎて、それが淡々とした記述を時にはばんでいるような気がする。かといって、ほかの誰かがこれだけの評伝が書けるかわからないが。たしかに三上は生前不遇であった。就職してうまくいっていた職場であったのを、義理で他に移ったばかりにうまくいかなくなったというケースは何度もある。最後に久野に呼ばれて赴いたハーバード大でも、必携の睡眠薬を忘れたり、また生活能力のないことを自覚していながら妹をつれていかなかったりと、ちぐはぐな人生がここでも露呈してしまっている。
三上は確かに主語を否定しようとしたが、それは「が」が他の格と変わりがないと言いたかっただけで、晩年は主格の優位性も主張したのではなかったのか。そんなことはここでは触れられていない。
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朝日新聞07年1月21日書評欄
「発表された当時は〜学界からほとんど無視され」
「反骨精神の固まりであった三上は、虚栄を嫌い、学際的教養にあふれた一種の奇人」
「でも晩年は、自説が孤立する無力感も手伝って〜〜」
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日本語には主語が必要なのか?
日本の文法はS+V+O と言った具合になっているのか?
私たちは「国語」の文法を、
英語の文法を習い始めた後に、英語の文法のように、習ってきた。
そんな気がする。恐らく、そうなのだ。
「主語を抹殺した男――評伝 三上章」(金谷武洋著、講談社)は
そんな「国語」の文法を、日本語の文法として考えなおそう、と
「土着主義」の「街の語学者」が闘い、倒れていった姿を追った評伝だ。
< 筆者の金谷は、’51年に北海道に生まれ、函館ラサールから
東大に進み、国際ロータリークラブ奨学生としてカナダに留学、
そこでカナダで「日本語を教える」ことになる。
そこで疑問にぶつかる。
「ジュ・テーム」を日本語でいえば「私はあなたを愛しています」。
だけど、本当に日本語で、そんなことを言うだろうか?
「愛しています」ということはあっても、だ。
文法的には合っていそうなのに、実生活では言わないに違いない。
主語は省略されているのか?
疑問の前に立ち止まっていた筆者に解決の糸口を与えたのが
三上章の文法。「象は鼻が長い」という妙なタイトルの本と
『現代語法序説』という文法の入門の本だった、という。
日本語は、英語やフランス語の語法とは構造が異なる――という主張だ。
英語やフランス語の動詞は、主語が決まらないと、決まらない。
三人称・単数・現在形といった動詞の活用には、仮に省略されたり、
隠されたとしても、主語の存在が不可欠だ。
これに対して、日本語に、その必要があるのだろうか。
「は」「が」という助詞が、「主語」につかなければならにのか?
三上の文法を研究して、金谷は「日本語に主語はいらない」
さらに「日本語文法の謎を解く」「英語にも主語はなかった」との
成果を生み出していく。英語やフランス語にしても、
現在は、必ず主語が必要だが、西欧古典語には主語がなかった、との
知見に到達する。
そこで、金谷は、三上の評伝を書くに至る。
’03年(明治33年)、広島県の甲立という田舎に生まれ、土地の素封家にして
「天才」としての育ち方をしていく。大叔父の和算の研究家として知られ
「文化史上より見たる日本の数学」で世界に和算を知らしめた
三上義夫を持ち、自身も理数系へ進んでいく。
山口高等学校に主席で入学するものの、数ヶ月で自主退学、京都の三高に進む。
ここで後の京大山脈と称される、今西錦司、桑原武夫らと切磋琢磨の時代を送る。
今西理論の源流にある「土着主義」は三上に啓発されるところが大きかった、という。
大学は東京へ出て、工学部の建築学科を卒業、台湾総督府に就職する。
が、これも辞して朝鮮、日本の旧制中学の数学教師を歴任する。
この台湾時代に、三上は早川鮎之助の名前で処女論文「批評は何処へ行く?」を
書き、これが雑誌「思想」に投稿し、入選した。
この時期、三上にもう一つの出来事があった。
ゴーゴリの『狂人日記』の英訳を読んでいて「私がその王様なのだ」と直訳できる
ロシア語の文章が「I am that King!」と英訳されているの読んだときに
心中にこう叫んだという。「この”私が”は主語ではない。補語だ!」と。
三上の文法との出会いが、ここに始まったのだという。
評伝は、三上の歩みに寄り添いながら、時に強引な我田引水を含みながらも
その思い入れがよく伝わってくる。
三上の新しい文法の提言は、歯牙にもかけられない。
「学校文法」は、東大の橋本文法の流れが揺らがず、なお三上への反論すらない
いわば黙殺だった。これが三上への、さらなる苦痛となっていく。
一度目のスランプを救ったのは、金田一晴彦だったが、二度目には
芥川龍之介と同じ睡眠薬で辛うじて不眠を乗り越えていた中で、狂気に近くなる。
支え続けた妹の茂子さんが不在であったボストンで限界を超えてしまった。
文法の細かなことは分からないが、
素朴に思っていた、英文法から国語の文法を借りてくるような違和感への
答えであるようには思う。
筆者の一生懸命さに、最後まで
読み通した。
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残念ながら挫折。前半は、日本語の話と著者の思いで話が半々です。かなり大胆に断言するところがそこここにあります。
読みやすくはあります。
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例として、オレの日記から一文だします。
>今日は快晴、自転車日和。会社について、やれやれと顔の汗をぬぐった。台ふきだった……orz
さて、この中で「主語」はどれだ? 最初の「今日は快晴」の「今日」は主語でいい? でもこの「は」は、「が」で代行できないぞ。次の文は?
「が」も「は」もナイ……「私は」が省略されてるってことか。「台ふきだった」にいたっては、はたして「文」といっていいもんだろうか。
よいのである。そもそも日本語において「主語」というものはないんである。ということを主張したのが、三上章。在野の研究家として画期的な仕事をしながら、学説としては無視に近い扱いを受け、死後に再評価されているというこの日本語文法研究家の伝記が、本書なのだ。
興味深く読んだが……いちばんおもしろかったのは、「評伝」の部分ではなく、著者が体験を交えて三上文法を紹介する第1章。外国人に日本語を教える際、どうしても日本語の文法をうまく説明できなかった……そこで三上文法に出会い、疑問が雲散霧消したという。上の例で言えば、「今日」は主語ではなく、"主題"であって、「いいですか、これについて話しますよ」程度のものである。そして、「は」でしめされた主題は、文を越えていくのだと。
つづく、外国人に「三上文法で日本語を教える」という一節は、日本人でありながら目から鱗がぼろぼろと落ちる。「日本語には動詞の活用(人称変化)がありません」「日本語には、名詞文(赤ちゃんだ)・動詞文(泣いている)・形容詞文(可愛い!)の3つしか構文がありません」「『は』は主題を示します、『が』は『に・で・と・を』とかといっしょです」「英仏語は『する言語』ですが、日本語は『ある言語』です」……いやまぁ、これだけ書いてもわかんない? でも、おもしろいんだよ。なるほどーって思うんだよ。
日本語にはそもそも「主語」はなかった……ということは『近代日本語の思想―翻訳文体成立事情』(柳父章)を読んだときに知ったことではあった(「は」を「主語」として「。」で終わるというのは、翻訳日本語の影響なんである)。がしかし、この本を読むと、なかったはずの主語を「作り出した」というのは錯覚で、日本人はあいかわらず「主語なんてない世界」に住んでいるのだということになる。うはー。なんだか、自分の言葉遣いがいっぺんに「これでいーのか?」と怪しくなるような、不思議な感覚だよう。
……と、ここまで書いてきたけれど、『評伝』の部分にはぜーんぜん触れてないので、本のレビューとしては失格だなぁ。もちろん評伝部分もたぶんイケてるんだとおもうけど……あまりそこは自信なし。やはり「三上章」本人に興味がある人でないと、楽しめないだろうなーと。私にとっては、最初の60ページだけでも、たいそうおもしろかったです。
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三上を世に広めた金谷氏の業績は大きい。三上は最後に正気を半ば失って病に倒れたとのこと、天才の宿痾なのか。惜しい。
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「象は鼻が長い」の三上章氏に私淑してやまない著者が、その「日本語に主語は要らない」論を唱えた天才的かつ孤高の国語学者の生涯にスポットを当てた評伝です。
業績以外の生涯をなぞることに若干の違和感は覚えつつ、昭和初年から約70年を生き、当時の「権威」に立ち向かった反骨の人の物語、大変面白く読みました。
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著者はカナダで日本語を教えている。三上文法で説明するとわかる。(著者)日本語に主語はいらない けしだ、日本語文法の謎を解く こ、英語にも主語はなかった けあし (三上)象は鼻が長い あだ、×現代語法序説、山田文法、文化史上より見たる日本の数学。「は」は主語ではなく、トピック提示というのは首肯できる。「については」の略と言える。