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フェミニズムやジェンダー論と呼ばれる議論の多くは、系譜学的な権力分析をおこない、社会のなかの女性を抑圧する仕組みを批判します。こうした議論に対して著者は、現象学ないし実存論的な立場から、フェミニズムの外在的な批判が有効性をもちえないという主張を展開しています。
フェミニストは、精神分析や文化人類学の知見を動員して、この社会における男の「本質」や女の「本質」とされているものは、社会的に構成されたものにすぎないと主張します。しかし、それらの知見を援用しつつ論者たちが展望する新たな社会のあり方が説得力をもつのは、われわれの実存的な了解をくぐり抜けることによってのみだと著者はいいます。男女の間で何らかの不均衡が存在し、そのために女性が不幸な状態に置かれているとき、それを解決するための思想的努力は、男と女の関係の「本質」を深く了解することから出発しなければならないというのが著者の基本的立場です。
著者の議論もそれなりにわからないではないのですが、二点ほど疑問を感じました。まず、著者は精神分析や文化人類学の知見を動員した原因究明的な「物語」が、実存的な了解をくぐり抜けていないことを批判しているのですが、著者による男と女の関係についての議論も、五十歩百歩ではないかということです。たとえば著者は、性器的な特質から男の性のあり方を分析しています。しかし、個人的にはこうした議論は「よくできた物語」でしかないようにも思えます。要するに著者の分析も、実存的と呼ぶには射程が長すぎるのではないかということになります。
もう一つは、「本質」を明らかにするという著者の営みが、まさにみずからの実存的状況からの「へだたり」を生むということに無反省だということです。著者が男と女の関係の「本質」を取り出すというとき、われわれが他者とのかかわりのなかでどのような意味やエロスを受けとっているのかをよく見つめてことばにもたらすことが意味されているように思います。しかし、どうしてこのようなことが可能なのかと問うならば、われわれがみずからの実存的状況に埋没して盲目的に生きているのではなく、そうした状況からみずからを引き離して対象化することができるからだという答えが返ってくるはずです。そうだとすれば、系譜学的な考察を通じてわれわれの社会を相対化する視点を獲得することだって可能だといえるのではないでしょうか。そうした分析が実存的な了解をくぐり抜けていないという著者の批判は成り立たないのではないかという気がします。