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原始仏教と大乗仏教の根本的な違いは、自己完結か他者との関係を見るかの違いにあるという主張。
同時に経典の成り立ちの大まかな流れもわかる。
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とてもとっつきやすい本なんだけど、僕にとっては知るべきことが満載。本当に幅が広く奥が深いです、大乗。人と人との関わりにフォーカスしてるところも感じるところがあります。
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「慈悲」や「利他」が分からないわけではないのだけど、ブッダの教えのどこからそれが出てくるのか分からなかった。
もし大乗仏教が仏教とは別の、阿弥陀如来一神教であったとするのならば、なぜ慈悲や利他が大切かは、「阿弥陀様がそう望まれているからです」で良かったと思う。でも、仏教ってそういう宗教には思えない。
答え。空に由来している。
虚無を想像させる空というよりも、今どきの人間には生態系で説明する方がわかりやすいだろう。本質的に他と分別された自己というものは存在せず、自分自身と自分自身がみなしているものは、生態系のネットワークの中の、ひとつのノードである。これを認識するのならば、自己と他者を分けて考えるのは、道理に合っていない。
たしかにこれは、縁起というブッダの教えそのものを発展させた考え方である。縁起はひねりも韜晦もない直感的で誰でも観察しうる理性であり、その意味で極めて科学的である(科学的というのは物質的ということではなくて、他者による検証が可能であるということだと私は認識している。)
縁起>空>慈悲・利他。この流れは、たしかに分かる。
しかし、やはり納得できないところは残る。
理論がそうであったとしたところで、利己と利他は「よく考えればみんなおなじでした」みたいにハッピーエンドで終わるわけじゃない。
それらの現実社会の葛藤を、きちんと受け止め、解きほぐし、方向を示すところまでやるべきじゃないかと思う。
西方浄土の麗々しい記述(2000年前はぐっとくる文学的記述だったかもしれないが、今となっては誇張が過ぎる)や、43億2000万年の間修行しているとか、生きとし生けるもの全てが救済されるのを目指すとか、意気込みは分かるのだけど、すべっている。
1970年代の新左翼のアジビラなみに、悲愴がってすべっている。
政治の例で言うのならば、これはマニフェストどまりであって政策論になっていない。
ものすごくきつい言い方をすれば、現実の問題に立ち向かうかわりに、でかいことをいって逃げていないか? と思う。
あえて断っておくけれども、言語やロジックで表現できることには限度があり、こうしてここで書いていること(言語と論理)において正邪をいうのは間違いであるということは、あるていどは理解しているつもりだ。
その上で、大乗仏教に対して、「はっきりと言うが、手抜きの胡散臭さを感じるぞ」と思っている。
これから、この私の疑惑に対する反論を読んでいこうと思う。
仏教に対して確信を持っていることがあるとすれば、私の考えたようなことについては、はるか昔にすでに考え尽くされている、ということだ。
傲慢な私とて、今ここで呈した疑問が、この2000年来ではじめて提出されたものだなどと思っているわけではない。
そこまで含めて弥陀の慈悲と言えばその通りだけど。
般若経
維摩経
法華経
浄土三部経(大無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経)
華厳経
涅槃経
どれからいくか。ディベートっぽい維摩経からにしようか。