紙の本
ノスタルジック、サスペンス、システム
2007/08/14 12:28
7人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:わたなべ - この投稿者のレビュー一覧を見る
1970年代初頭、いわゆる「政治の季節」が終りを告げ、団地に象徴される「私生活主義」が台頭したと言われる時代を、保革伯仲と激化する労働争議を背景に、政治闘争が別の次元に移行した時代と位置づけ、その例証として著者自身の体験したある小学校とその小学校にほとんどの児童を通わせていた団地住民(専業主婦たち)によって作られた「コミューン」の記憶を綴った本。ほとんどノンフィクションのノリで、ノスタルジックにかつ多様な資料を使って当時を再現していく手法は一面的であるだけに臨場感たっぷりでなかなか面白かった。まあ同時代、あるいは近い過去については、まずこうやってその時代を生きた人々の主観に基づいた証言がたくさん書かれるべきで、その意味ではこれはかなりインパクトのある内容なだけに他の証言を引き出す呼び水になるんじゃないかと期待させられる。もっとも「コミューン」が形成されていく中で強烈な疎外感に襲われ塾と鉄道にだけ救いを見出していく幼い著者の姿は、意外に70年代初頭という時代を超えたある程度の普遍性を有しているんじゃないかとも思った。多かれ少なかれ、あるいは遅かれ早かれ、強烈な孤独と自我意識に落とし込まれざるを得ないような仕組みが学校という組織あるいは制度にはあるんじゃなかろうか。
紙の本
1970年代論の試み。残念ながら踏み込み不足。
2007/09/06 19:58
7人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:GG - この投稿者のレビュー一覧を見る
80年代に比べて70年代はその時代を論じた評論の数が圧倒的に少ない。ニューアカ、オタク、バブルなどのキーワードで語られる1980年代を論じた書物は、たとえば、ずばり一九八〇年代論という副題を持つ大塚英志『「おたく」の精神史』(講談社現代新書)や、堀井憲一郎『若者殺しの時代』(講談社現代新書)、あるいは吉崎達彦『1985年』(新潮新書)など、新書の棚だけでもこれらの書目をすぐに拾うことができる。
また、60年代だったら1968年というメルクマールがある。世界システム論のイマニュエル・ウォーラーステインというビッグネームがこの断層に注目しているほどなのだから、1960年代論(厳密には60年代末論)が多いのも無理はないか、と思わされる。
その点、間に挟まれた70年代はなかなか正面から論じられることがない。それは60年代末の若者叛乱が敗北した後の「鉛の時代」だったゆえ、とされることが多い。この「新左翼史観」に異を唱え、1974年という年を、当時の小学生の目線から辿りなおしたのが本作である。
舞台となっているのは、東京都北多摩郡久留米町の第七小学校。ここで1969年4月の入学から1975年3月の卒業までの6年間を過ごした著者が、当時の出来事の一つひとつを当事者へのインタビューを行なって辿りなおし、さらには学者らしい手堅さで外枠のデータを埋めた上で、滝山コミューンの消息を描いている。滝山コミューンとは、1974年の第七小学校に成立したという「国家権力から自立し、児童を主権者とする民主的な学園の確立を目指した地域共同体」のことを、著者が思い入れを込めて命名したものである。
私のようなほぼ同年代の読者にとっては、既視感のあるような記述が続く。一体どんな生徒会執行部が成立するのかとハラハラするような場面もある。子どもたちのドラマが深まっていきそうな雰囲気が感じられ、小学校を舞台にしたリアルな少年小説の趣きがあるのだが、期待されるほどのクライマックスの感じられる展開とは言えない。残念である。
では、評論としてどうか。学者独得の慎重さゆえか、それぞれの事象についての強い断言を著者は避けているので、評論的な部分でも食いたらない感触をもってしまう。たとえば、まとめの部分で、中学以降を過ごした東急沿線のとの対比を、もっと突っ込んで行なうこともできたはずである。
意欲作だが、物足らない。これが私の正直な観想である。しかし、著者がどうしてもこの作品を書きたかったのだという気持ちは、ほぼ同じ年代を過ごした者として(僭越ながら)わかるような気がする。オススメの読み方は、坪内祐三『一九七二』(文春文庫)や四方田犬彦『先生とわたし』(新潮社)と並べて、当時の自分も参加させながら読むことである。そのためのデータを挙げておく。原武史1962年生まれ、坪内祐三1958年生まれ、四方田犬彦1953年生まれ、である。蛇足ながら、評者の私は1963年生まれである。
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「いまでこそ学校が本質的に権力性を持つと言うのは教育学で自明の前提となっているが、当時はそうではなかった。」
このような自覚を持たない教師の(あくまで)善意の押しつけが如何に恐ろしいものか。
そして、地方の公立小学校とは考えてみれば恐ろしい環境だ。
(可能性だけなら)将来の無職から総理大臣までいることになる。
それだけに教師も大変。覚悟と自覚・自己認識が求められる。
実際この教師は30年後にある意味で反撃を受けたわけだ。
元気で明るい「わんぱくマーチ」の歌詞にも
こういう背景がある。とも読み取れるのか・・・。
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ノンポリだと思っていたけれど、自分の中でたまに見受けられるリベラル好きな部分(「おおきなかぶ」が意外と好き・マスゲームに涙腺が緩む・みんなで苦難を乗り越える映画「ブラス!」「ウォーターボーイズ」等で大泣き)に「おや?」と思っていた。実は小学生時代に起因していたのか…と愕然。この本の学校ほどではないけれど、「新しい教育実践」が実にど真ん中の世代。あの頃真面目に学校の先生のハナシを聞いていた子は、みんな知らないうちにリベラルの思想が埋め込まれていたわけか。「鬼のパンツ」、やりましたよ…。
2007.09.08-09
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個人主義、自由主義意識を危惧して子どもたちを集団主義化する。滝山団地というきわめて特殊な場で純粋な集団主義教育のモデルが作られた。自伝的、ルポルタージュ的な本
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烏兎の庭 第三部 書評 9.22.07
http://www5e.biglobe.ne.jp/~utouto/uto03/bunsho/takiyama.html
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「全生研でも、「文化的活動」としての合唱を重視していた。ただし、「音痴コーラス的なものではそれをとおして集団のちからのすばらしさを子どもたちに認識させ、自覚させることはできない」(前掲「学級集団づくり入門」第二版)として、「文化的活動」における「質の高さ」の重要性をこう強調する。あくまでも合唱としてすばらしいものをやってこそ、子どもたちはそれをとおして学級集団のちからに確信をもつことができるようになるのであり、またそれをとおして学級集団のちからをデモンストレートして、他の学級をふるいたたせることができるのである。このように、文化的活動は質の高さによって集団のちからのすばらしさを実感させ、じぶんたちの集団のちからにたいする確信を育てると同時に、他の集団に強く訴えかけ、かれらを感動的に説得して、かれらをふるいたたせるのである。(同)」の部分に、この時代に小学生でなくて良かったとつくづく思った。それでなくても合わない集団というものの上に「音痴」という不具を抱えている自分がそこにいたらと考えると・・・・。主義・主張とは別に「君が代」を歌わない(というか口パクしてる)人間もいるのですよ、関係ないけど。
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とても面白かった。自分自身、著者より15年ほど遅れるものの過渡期の公団に育ち、公立の小学校に通ったけれども、本書に描かれている状況に非常に似ている状況の中で育ったんだろうな、ということを感じた。それにしても、公教育とは何なのだろうか? そもそも人が社会の中で生きるということはどういうことなのか、その中で個性はどう活かされるのか、どこまで社会に譲歩しなければならないのか、人々の共生とか共同、連帯とは何なのか? 現代の社会とか教育の問題なんかを見ていると、どんどん分からなくなる。
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学校・保護者がタッグを組んで学校改革に乗り出すという革新的な団地を紹介。
自分の小学校(すっごく田舎)と比べると考えられないほど子供が子供っぽくなくてなんかイヤだね〜。筆者とは特に友達になりたくない感じ。
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ボク自身は1980年代中旬に小学生高学年を迎えているのと、団地ではなく地方の割合昔からある住宅街の小学校だったために本書で描かれたようなことは無かったと記憶しているが、それでも班活動や休日の課外活動はあった。でももう少し時代が経ているせいかイジメを作り出す元となりうる「ボロ班」という概念はなかったし、
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あの先生の著書。
あのひねくれた根性はここで作られたのかとも錯覚するような内容だった。
同世代の人が共通でもっている、「学校生活」の思い出って意図されていると、大人になった今なら納得できるが、現役のときには知りたくないな。
天神2008/07-
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「民主的」とは…http://ameblo.jp/urizunokinawa/day-20071027.html
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西武池袋線沿線西多摩地区のマンモス団地「滝山団地」を舞台に、そこの住民の子息が通う公立小学校で行われた日教組全生連のソビエト式集団教育を、当時の先端的な気性に富む団地住民の意識が自然と支持していくことで熱気を帯びていく、当時小学生だった筆者が抱いた「あの時のいや〜な感じ」をルポ。局地的でかつ、ある一時期だけ出現した狂騒は、筆者にとって間違いなくひとつの記憶でありひとつの史実であって、歴史の全体像の中に埋もれさせたくない、という主張に共感する。
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まず、装丁がすばらしい。カウンターが示す1974。その数字のズレは固まった過去ではなく、つながりと変化の印。デザインもいい。むちゃくちゃにセンスがよかったから、アヴァンギャルドな内容を若い人が書いているのかと思ってたんだけど、読んでみると大学教授が自叙伝的に記す戦後民主主義の話。政治の季節は終わっていなかった。読んでいる途中思わず背中がゾクッとした。装丁も内容もいいなんてなんてすばらしい本なんだ。
民主主義の裏にある集団思想の影。
ニュータウンにある学校でのとっても局所的な、ある意味奇跡に近いような「優性な世界」。筆者は感情的な拒否しているけど、考えとしては否定も肯定もしていないように思う。僕も同じように思う。肌には絶対合わないけれど、集団を扱う上では成果を出せる主義思想なんだと思う。
民主主義とか大きな話はわからないけど、弱さについてどう向き合うべきなんだろうか。
とにかくいい買い物をした
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2010.4.13 読了。
団地、社会主義、教育、郊外などに興味ある人はぜひ読んでみるといいとおもう。
牧歌的であり、不気味なノンフィクション。平成20年度講談社ノンフィクション賞受賞。
1974年、東京都東久留米市のマンモス団地のことを回想。滝山団地・東久留米市立第七小学校で形成された不気味な児童たちの民主主義の成立とその欺瞞。「滝山コミューン」の成立と崩壊。
全共闘という政治の季節がおわり、70年代は落ち着いた時代という認識が一般的だが本書はそれを相対化する位置を描いている。70年代の社会党・共産党の議席数の躍進。国鉄、私鉄、日教組などのストの様子。
「全生研」という日教組から派生した生活・学級指導研究会の若い新卒教師による熱心な学級づくりの実践、革新的な算数の指導法「水道方式」を背景に一つのまとまりをつくる「滝山コミューン」
ソ連時代の教育学者マカレンコの理論を背景として生み出された、民主主義的浸透の実践。
民主主義=みんなもの、「みんな」から零れ落ちたら。
「みんな」とは一体何なんだ。公共性を問い直す視点も考え直させられる。