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美しい所作とは、単にルールどおりの身のこなし方を指すものではありません。こまやかな心づかいや思いやりなど、人とコミュニケーションを取りながら、いかに美しい所作で心配りができるかが問題なのだと思います。したがって、所作だけを美しくするのは不可能です。
「直心是道場(じきしんこれどうじょう)――何かを習得したいと思う素直な心があれば、どんなところでも自分を磨く道場となる――」
恥ずかしいと感じる心、身につけたいと願う志こそが、何よりの向上心ではないでしょうか。
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「モッタイナイ」を流行らせた女性がいらっしゃいましたよね。
美しい所作は流行らせるようなものではないけれど、美しい所作をしたいと思う心に行きつくのは、「ミットモナイ」だと私は思います。
「恥ずかしいでしょ!みっともないでしょ!」と幼いころに注意されたこと、誰しもあるのではないでしょうか。この場合の主語って、誰でしょう?
子供時代は、親でしょう。「親の顔がみてみたい」ということばの通り、子供の行いは親の躾の結果。親の程度を表しています。
でも、こどもはいつか大人になるもの。大人になったら、主語は「自分自身」です。良識のある親は、いずれそうなることを知っているので、厳しく育てます。良識のない親に育てられると、子供も「それのどこが悪いの、誰にもメーワクかけてないじゃん」と開き直ってしまう、自分の親のような大人になってしまうものです。
それが「育ち」の差です。
でも、私は個人的に大人になるって、親を超えることだと思います。
親のように良識ある大人になりたい。
親を超えて、もっと品のある大人になりたい。
そして、自分の子には、自分以上に上品なひとになってほしい。
「そんなの知らんかった。誰も教えてくれんかったもん」
これほど哀しい言葉はない。
何事も「教えていただく」ことができるのは子供だけ。
大人になったら「自ら学び取っていく」ものです。
え?それも誰も教えてくれなかったって?
その頭は飾りか!(笑)