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紙の本
21世紀に入り、刺激的な吉本隆明批判書が続いている。
2009/03/30 15:07
8人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:本を読むひと - この投稿者のレビュー一覧を見る
21世紀に入り、刺激的な吉本隆明批判書が続いている。『〈民主〉と〈愛国〉』『吉本隆明1945-2007』『吉本隆明の時代』、それに『革命的な、あまりに革命的な』『1968年』を加えてもいい。
小熊英二は『〈民主〉と〈愛国〉』(02)の最後のほうで《戦後知識人のなかで、そうした〔同胞愛的ナショナリズムに肯定的な〕流れの例外だったのは、あらゆる「公」を批判した吉本隆明である》と、リベラリズムを核として肯定的な志向をもつ思想の動き全体に水を差す敵役として吉本を描く(そこでは保守の江藤淳さえ「公」的ではあった)。
また、スガ(糸偏に圭、以下略)秀実『吉本隆明の時代』(08)では、当然のごとくに新左翼にウェイトを置いた視座から、吉本を影響力が大きく行使された存在としてタイトルロールにしつつ、「革命」をめざす種々の思考や運動をつぶした存在と位置づける。
ところで小熊による吉本隆明論の眼目は「戦争に行かなかった罪障感」であったが、これはリアルタイムで吉本を読んできたものには違和感のあるモチーフだった。というのは死んだ仲間に対する死に遅れの感覚は、吉本隆明にあって上の世代がもつ疚しさを撃つバネになっていたと思うからである。
小熊は吉本隆明の文章のなかの「ああ、吉本か。お前は自分の好きな道をゆくんだな」を繰り返し引用するが、私にはその言葉が戦中の風景内にある死の微差としか読めない。決して生と死の峻別とまでは感じないのである。結局、小熊と私の世代の差、ある意味で戦争との近さ(私が生まれたのが戦後であっても)がなせるわざか。
スガは小熊と通底する部分を見せているように思うが(たとえば《あまり暗い終わり方にしたくなかった》ためベ平連を最後に置いた『〈民主〉と〈愛国〉』と《エイ、ヤー》〔『重力02』でのスガ発言〕の68年革命論のジャーナリスティックな近さ)、高澤秀次『吉本隆明1945-2007』(07)は、小熊には言及せず、《吉本の一連の「転向論」を彩る思想的告発のポーズは、およそ疚しさとは無縁な身振りとして際立っていた》と言い切っている。
この本は、著者の今までの吉本隆明論とくらべて変な悪意がないし、スガの吉本批判のような余分なものがない。80年代、90年代の吉本隆明の思想をこれだけ抉った後半の分析は他にないし、最初のほうでは、吉本の太宰治偏愛という、いわば対象の最も重要な部分に分け入る見事な攻め方をしている。
だが吉本隆明批判として単純に説得力をもつのは、吉本・埴谷論争の発火点となった、大岡昇平・埴谷雄高対談で大岡が口をすべらせ、そのため配達証明付きの抗議文を吉本に送らせた「スパイ」の一言が、吉本自身の文章を出所としていることをつきとめた部分であろう。
高澤秀次は吉本隆明『詩的乾坤』所収の「「SECT6」について」から《ことに花田清輝は、某商業新聞紙上で、わたしの名前を挙げずに、わたしをスパイと呼んだ。わたしが、この男を絶対に許さないと心に定めたのは、このときからである》を引用し、《私の知る限りでは、吉本が噛みついた大岡昇平の不確かな記憶の出所は、『詩的乾坤』所収のこの文章以外にない》と記す。
吉本は自分が書いたことを忘れたが、そこで書かれたことと似た「思い」は頭にあり、大岡の対談の言葉に敏感に反応したのだと思う。ともあれ大岡の失言は、たとえば《埴谷・大岡昇平の卑劣な吉本隆明中傷》(松岡祥男「情況の基底へ」/『埴谷雄高・吉本隆明の世界』所収)などからは遠い。
もしも大岡が吉本文を踏まえながら意図的に言っていたとしたら(それなら実に巧妙な「卑劣な吉本隆明中傷」だと認める)、吉本の抗議に対して、前記部分を引用し反駁しえたろう。だがそんな言葉のもてあそびを大岡がするはずがないし、していない。
こんな下らないことで裁判などありえなかったろうが(おどしだろうが吉本は裁判に言及)、もしなされていたらそこでは、記憶と勘違いと思い込みなどの複合した世にも奇妙なやりとりがなされたはずだ。
結局、大岡昇平が1988年、埴谷雄高が1997年に死に、それぞれの死後全集のなかで、二人の対談から「スパイ」の一語は消えているが、そんなことより後世の人は、その背景にあった事実(抗議の内実)を冷厳に見つめる権利をもつ。
さて吉本はその後、2008年に出した『「情況への発言」全集成3』の3月に書いたあとがきで大岡批判を繰り返しているが、明らかにこの時点で高澤の著書を読んでいない。しかしその後の対談「肯定と疎外」(『貧困と思想』所収)のなかで《恥ずかしくて人にも言えない、唯一のこと》として、彼は安保のときに地理を知らなかったために塀を越えて警察のなかに入り逮捕されたことにふれる。外野からみたらユーモラスな武勇伝とも思える出来事にこだわった理由は、この間に抗議の失策に気づいたためではないか。常にものごとを遡行的・起源的に考える癖が、吉本をして、この地理の不案内とそれによる逮捕に自己処罰を加えさせたと私は推測する。
高澤秀次はスガ秀実のような派手なパフォーマンス、海外の思想概念・言葉の大量の安易な利用などがない分、苛立たしさを感じないで読むことができる著者である。
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