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discours、もっともらしい「真理」を作り上げ、それを基にした「規則」をもって「支配」を及ぼす。実定的機能
。フーコーは、国家から教育制度や家族制度など我々がそこに身を置いてる制度をそのような視点から暴きたてる。近現代においては、生の権力が我々を支配している。「生きさせるか死の中へ廃棄するか」と囁きながら、我々を調整・管理する。「良き生」を送るためには、そうした規則に従うことが最優先される。その不自由さは「監獄」に喩えられる。フーコーは、こうした権力にどういう態度で挑んだのか。こうした支配的な権力からの自由とは、一体どういう形で可能なのか。
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敗者、弱者が自分たちを痛めつけた強者を”悪”と規定する。
それに反するものとして自分たちを”善”と位置づける。権力、力で勝てない相手にせめて道徳心だけでも。
面白いポイントは、まず“悪”を規定する。そしてそれに入っていないものを自動的に”善”とする。
悪を意識して初めて善がわかる。
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『言葉と物』『監獄の誕生』『性の歴史Ⅰ』を中心にして、フーコーが述べた内容をその当時の状況を踏まえながら解説してくれる。読みやすい。
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主体という夢、という副題が重い。フーコーはその著作を通して、主体=私の仮構性を暴くとともに、そこには権力が執拗に絡んでいること、主体は権力そのものであることを突きつけた。本書では希望をほのかに示しているが、ほぼ絶望的に思える。本文の筆致はこれ以上ないほど噛み砕かれ、読みやすい。
・P36:非理性や狂気などは非社会的なるものであるがゆえに隔離されるのではなく、「隔離が非社会的なものを生む」。
・P115:「性」は凸レンズや凹面鏡の「虚焦点」に似ている。・・・『言葉と物』における〈生命〉〈人間〉などと同じ。
・P123:かりに、こうした生の権力や生政治に「抵抗」を試みたとしても、性解放運動家に見られるように、あるいは一般に、「抵抗」は権力関係の一項としてはじめから組み込まれており、「抵抗」すること自体が権力関係を逆に強化し、確認することにしか終わらない。権力に「抵抗」しようとしても、そのように試みている主体そのものが権力の中で作られたものであり、権力に貫かれているからだ。
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フーコーとその生きた時代をざっと知るのに適した入門書という趣きだけど、ニーチェの言うルサンチマンについて他の誰が書いた物よりも簡潔に明確に書かれていたテキストを思いがけず見つけたので以下に書いておきたいと思いました。
社会的な弱者などは、勝者や強者に対して、武力や財力、政治力などによって勝つことはできない。そのとき敗者や弱者はどう思うか。自分達は何をしても彼らには勝てない。だが勝者や強者は彼らに何も危害を加えていない自分達敗者や弱者をひどい目に遭わせている。だから彼らは悪者である。つまりそれに対して自分達弱者や敗者は善だ、と考えるだろう。こうしてニーチェによれば、善悪とは弱者や敗者が、強者や勝者に対して悪というレッテルを貼り、その反対に位置するものとして自分達を善と位置付けることによって生まれるものであることになる。その根底には、弱者や敗者が強者や勝者に対して、武力や財力などのほかのどの手段を使っても勝てないけれども、せめて道徳や倫理という観点からすれば優位に立てるし、それによって溜飲を下げることができるという、妬み嫉み恨みの感情があり、それをニーチェはルサンティマンと呼んだのであった。
ちなみにサブタイトルに主体の夢とありますが、主体についての言及や解説は少ないです。