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あまり難しい本は読まないのですがたまに、しれっとしたタイトルに惹かれることってありませんか?
あるいはなんとなく、格上の気分に浸りたいときなど。
用事があってたまに図書館に入ることがあり、あれ、もしかして読めるかも?と手に取ったのが、限界小説研究会の「探偵小説のクリティカル・ターン」。だって「探偵小説」という響きといい、「限界小説」といい、もうわくわくしまくりだもの。
しかし・・多分アレね、学術書というのはアレですね、読むのに資格がいるのですね。多分、ルールを知らないと絶対に楽しめない囲碁将棋の世界に似ている。すなわちここでは、世界観ないしはテクニカルタームの基礎知識。いやはやなんとも、しっとかないと読み進めないテクニカルターム多し。
ちょいっと拾ってみますとですね、下線部分がわたしの知らない「ルール」部分。
【96ページ】
東浩紀の『動物的ポスト・モダン』においてグランドデザインが提示された。
【101ページ】
いわゆる「被害者(死体)=犯人」という後期クイーン的問題の一種として理解するということ
また、単語としてはわかるのに、組み合わさると意味がわからなくなるという、国会答弁的な「ルール」ないしは、その定義が自分のキャパ超えを起こす「ルール」の応酬。例えばこれなんかそうかな~
100ページ
ゲシュタルトとは、細部が全体に合致することなく、そのフレームの内部で多様に置換や圧縮、脱中心化などの作用を繰り広げる、ある統一的な「場」=構造を意味している。
一般人として「ゲシュタルト崩壊」という文脈でしか理解していなかった「ゲシュタルト」に、崩壊前の姿を見るの巻・・うーん。
とかいろんな障害物にぶちあたりつつも、でも、好きな作家の道尾秀介さんと、大好きではないのですがなぜか読んでしまう(じゃ、好きなんじゃん)辻村深月さんの洞察だけは知りたい。なんとしても知りたい。読んで「ほー」と、満足感だけのあたしだけど、見る人が見るとどうなるのさ?んんん?なんて思う。右脳だけで生きてはいけるが、ロジカルな分析で、パズルの向こうを見たいのですよ。謎解きの面白みって、そこでしょう?しかも読み解きはひとつじゃないし、(作者に意図を聞くのは愚の骨頂!読み解き作者に迫るのが、パズルの面白さってもんよ!的なことを昔誰かも言っていました!)手品の種明かし以上に興奮しそう。わーい。
で、まずは『プロット・スタイル 道尾秀介論 蔓葉信博』
実ははなからつまずきかける・・
【121ページ】
極端な例をのぞけば、推理小説を初めて読む読者はジャンルで共有化された規則を了解していることはない。最初の出会いでは共有化された規則についての理解がないまま、推理小説的趣向に遭遇することになる。それが「二銭銅貨」であれ『十角館の殺人』であれ、『イニシエーション・ラブ』であれ変わりない。そして、読了後に勘のいい読者ならばその形式が抽象化の可能な規則であることに気づくだろう。そのとき、はじめて推理小説的趣向の構造を知ることになる。いいかえれば「謎」と「論理的解明��という二大要素によって面白さが保証された小説だということを知るのだ。
ひ~~~!!!
「推理小説を初めて読む読者」には「了解しない」「共有化された規則」があり、「読了後に」それが「形式が抽象化の可能な規則であることに気づく」ってまさか・・
初めて推理小説を読む人は、知識のないままに読んで、事件が起こって(探偵によって)解決される、このシナリオがいわゆる「推理小説」と知る、といいたいのかな???(違うのかしらどきどき)
・・・どうしてここまで難しく書けるのか・・むむぅ。
でも、以下のあたりは本当に、読んでよかったと思わせられた。
【122-123ページ】
ミチオの視点による事件の描写には虚偽を判断せざるをえない描写が頻出する‥我々が住む現実世界では起こりえない現実の描写を一人称の誤認という記述のゆらぎに含めてよいか‥
第6回本格ミステリ大将の選評で辻村深月が指摘しているが、主題が必要となる理由は「『ためにする』叙述トリック」でしかないというあけすけもない事実が暴露されてしまうからだ。
この衝撃的な主題を支えているのがプロットの構築性である‥叙述トリックを読者を驚かせるための仕組みとしてではなく、何かしらの主題を訴えかけるための仕組みに用いた。いってみればフーダニットの極北として成立した叙述トリックが、最終的にワイダニットの極北へと変容したわけで‥危機意識に十全に答えうるものとして考えられるべきだ。
この下線はあたしがつけたのだけれど、これはまさに膝打ち!個人的にあたしは、最後にがつんとくる落差を感じる小説を「G小説」と呼んでいるんだけど(gravityのGで)、その落差がこの、「犯人探し」の常套手段として利用されるべき叙述トリックが最終的にはあざやかに、「なぜ事件は起こったのか」に変わった、その段差にあったとは!!
そうだったのか~知らない方ですが蔓葉さん、読み解きありがとうございました!
*ちなみにおまけで付け加えると、下記が辻村さんのコメント。
辻村深月
●推薦作 『向日葵の咲かない夏』
私は、作中人物に対して仕掛けられたトリックよりも作品に対峙する読者の側の世界観がひっくり返されるトリックを好む傾向が強いのだが、『向日葵』の仕掛けには息を呑んだ。トリックを使うことと、物語を紡ぐことの二つが深く強く結びついている。
あの種のトリックを扱う作品は、それによって「テーマ性」を背負う、という宿命を持つのだと思っている。それが明らかになることによって、ただ「驚く」、「騙されたことを知る」のではなく、読者の側にもメッセージが彷彿と立ち表れるような。
その意味において、『向日葵の咲かない夏』は正にパーフェクトだった。
また、他の候補作の中では、本格ミステリとしての純度が極めて高い『摩天楼の怪人』の世界観に惹き込まれたが、クライマックスのカタルシス、一つの物語としての完成度の高さから、『向日葵の咲かない夏』に今回は一票を投じたい。
気をよくして次に、残しておいた辻村さんの論考。
『ファンタジー・プラグマティズム・見立て 辻村深月論 渡邉大輔』
渡邉さんの辻村評はこう。
【43ページ】
ミステリとファンタジーのジャンル的融合を、現在最も洗練した形で試み続けている作家であるといったところだろう。
ふむふむ。確かに。「凍りのくじら」のドラえもんとか、「僕のメジャースプーン」の能力設定とか、まさに!気があいますね!なんて勝手に親近感を持ちながら先に進む。
いや・・とにかくこのひとは論考が丁寧だ。例えばこのへん。素人にルールを説明しようと試みているのでは?とさえ思うような、丁寧ですこし卑近な説明が挟まれる。
【46ページ】
単なる記号に対して強烈に感情移入する「萌え」や、非日常的設定に日常世界のリアリティを受け取る「感情のメタ物語的な詐術」(『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』)といった言葉や現象が大きな注目を集めたのはよく知られるところだが‥単に非日常世界=虚構の構築能力が低下したというより、むしろ直接的表現としての現実/ファンタジー描写の峻別が事実上無意味化してしまったからだと考えるべきである。
【47ページ】
綾辻行人のデビュー作『十角館の殺人』(1987年)は、周知のように往年の本格ミステリとして読まれると同時に、台頭しつつあったパソコン通信や伝言ダイヤルといった情報メディアが生成する新しいコミュニケーション空間の隠喩としても、また‥初期のオタク的感性が生み出された1980年代の消費社会下の若者文化の自己像としても消費された。
ちなみにこの言葉の丁寧な定義そのものが私には、あ~この人もしかしたら、ゲーム世代?なんて思ってしまったりもして。だって単に論じるのではなく、かなり丁寧に、用語や条件を提示して読み手をフェアに扱おうとしているもの。なんだかロールプレイングゲームで、説明キャラにたまにあたってほっとする感覚にも似て。
なんて余計なことを考えていて論考そのものに触れそびれそうですが、これはこれで非常によく書かれていて面白かった(あれ?上から目線?すみません)
論旨の流れはタイトルに全部示されている。(あーこのへんもゲーム世代!)
端的にいえばファンタジーの一義性が拡散し、無数のそれが生み出される契機をプラグマティックな企図に求め、現代のファンタジーの構造的変容を「ファンタジーのプラグマティズム化」であるとまとめる。
・・いったいいつ、辻村論が・・と短気なあたしは思ってしまうがこの部分が実は、次の理解に大事だからちょっとこらえて!(読了後のあたし、読了前のあたしに語る)
つまり。従来の本格ミステリで必須であった推理の論理性が成り立たなくても、それを凌駕するファンタジー(変容した今の)によって読者をカタルシスに導ければ(ファンタジーの理解が共通基盤として存在する文化的な背景から)それでよし!どどーん!
あたりの流れが非常に説得力を持って、後半一気に面白かった。
そうは書いてないけど前半の後半、一気に加速して勢いのままに「意味がわからないなら京極堂を読め!」という風にまとめてもいいくらい、ひとつの流れが出来上がっていました。
いまや、「誰が犯人なのか(フーダニット)」という論理の帰結としての結果を待つ以上に、「どう���てなぜ(ワイダニット)」という、過程を楽しむ「読み」の流れが起こっていて、その結果、ファンタジーとミステリの幸せな蜜月期間が成立し、その要素をもっとも効率よく処理しているのが辻村作品であると。
ここまで丁寧に丁寧に、じっくりとマッサージをするように論理を揉み解されちゃ、あたしでも納得ってもんです。
おかげで後半のうまみのある辻村論が、じわーんと溶けるみたいに、しみてきましたよ。
そういいながらその内容までをしっかりとはここには書きません!だって、この前半分を読まないと、意味半減だと思うもん。
ということで、延ばしたわりに中途半端に感想文終わり~~
え~~なんだよ寸止め?
いやいやこれも、あたしなりの一種のプロセスの楽しみ方・・・一種のファンタジーの実践ってことで。笑
今日の学びは、たまには難しいかも、ってとっつき悪いと思っていた本も、読んでみるとわりと嬉しい達成感、ありよ!ってことですかね。
渡邉さんのこの論考、プリントアウトしたので(あ、著作権違反・・??いや、個人の趣味でしか使いません!)もう一度、58ページあたりからじっくりと、論考と辻村作品を並べ読みしてみようと思う。まるで本当に、解説本を読みながらゲームをやる、あの感覚で。
読み終わって不思議なカタルシスを残す、小説をあたしは大好きだけれど、こうしてもう一度誰かに、俯瞰した視点から巨大なフレームを見せられ、そののちにミクロ視点で手取り足取り腰取り読み解かれるのも、とてもとても楽しく嬉しいもんだと知る。辻村さんありがとう、渡邉さんもありがとう!という感じ。(勝手に)
最後にあたしのお気に入りの表現をこちらに引用しておしまいとします。
『辻村深月のかけがえのない「残酷さ」は、考えうる最も理想的な形で現代的な意味でのファンタジーのポジティビティとネガティビティ双方を示したことにある。』
このひと、文章が端的で、シャープ。なかなかいいなぁ。
うん、今日もかなりの、御褒美読書。