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全体的に古典を引用しているけれども、なんかうさんくさい使い方な印象を受けた。客観的根拠としての引用ではなく、恣意的な引用。だからか全体的にうさんくささを感じた。信長がなぜ戦の前に舞を舞ったかという箇所は特にそうで、それはそうとも言えるけど、安田氏の想像にすぎないのでは、と突っ込みたくなる。つまりそう言いうる根拠が薄っぺらいのだ。ということであまり益にはならない本だった。
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呼吸法に興味が出てきましたので。
日本人なのに、日本の事って知らないなぁ、と思います。
知らない間に、大切なものを失わないようにしないといけないですね。
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能の深い呼吸・・・反復律動性の呼吸がからだに与える影響についてなど、とっても興味深くておもしろかった!
禅宗の白隠禅師著書の古典「夜船閑話(やせんかんな)」に健康法として現代行われている呼吸法が記されているそうです。読んでみたい。
古くは『永遠』のことを『チ』と言ったそうです。
だから『命』は『イ(息)のチ(永遠)』で
息の(が)永遠 との意味があるとの一説が印象的でした。
表層の「こころ」の奥に芯であり変わらない「思ひ」がある
など、ヨガと通じる部分もたくさん有りました。
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ストレスや不安と戦う日常に、意識的な呼吸を取り入れたら人生好転すると思った。ただのハウツー本に留まらず、神秘的な古人の文化も照らしていて、面白かった。節々に由来の紹介があることもまめ知識でうれしい。
趣味を能にしたい。
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帯表
織田信長は、なぜ戦いの直前に『敦盛』を舞ったのか?
深い呼吸と発声が、心と体の隠れた力を引き出す!
帯裏
なぜ、信長は強かったのか?
古来、勇将・猛将と呼ばれた人には、
人一倍恐怖心が強いという人が多くいました。
織田信長も、とりわけ恐怖心が強かった一人ではないでしょうか。
しかし、それでも彼はタフだった。
そのタフさを作っていったひとつの技が「舞」でした。
舞と謡によって信長は、死の恐怖を克服し、
それを行動のエネルギーに変えていったのです。
見返し
能に隠された「反復律動性の呼吸」の効用とは?
謡や舞は、「ゆっくりと繰り返される、リズミカルな深い呼吸」、すなわち「反復律動性の呼吸」によってなされます。
「反復律動性の呼吸」にはストレスをそのままに保ちながら、それを適切なリズムに整えることによって、行動エネルギーに変換させる効果があります。
不安や恐怖、ストレスにさらされている人にこそ最適な呼吸法といえるでしょう。
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反復律動性の呼吸は、活気を保ちながらも、緊張・抑圧・混乱などを抑える効果を持っている
現行のストレスマネジメントの技法の多くは、ストレスをあまり感じなくさせたり、あるいはリラクゼーションなどを志向していて、一時的なレスキューにはいいが、しかし戦場ともとれす企業現場にはなじまない
今川勢との戦いは、絶対に負けるだろうと周囲からは言われていました。負ければ死、そんな戦いの直前に優雅に舞を舞う。
信長は舞によって恐怖を克服し、それを戦闘エネルギーに変換したのです。そして、そのベースには呼吸がある
★これらは日本人の精神の過敏さによるものです。過敏だから本場には弱い、それは当たり前です。しかし撃発の瞬間にオドオドしたからと言って、それは決して精神の弱さによるものではなく、過敏だから緊張しやすいだけだということを理解することが、まずは大切です。
そして、それをコントロールする方法さえ身に付ければ、その過敏さは大きな力となることを個人の知恵から学ぶことができます。その知恵が本書のテーマである「呼吸」なのです
抑え付けられた過敏さは大河の流れのように、それが強ければ強いほど、必ず反乱を起こす危険をはらんでいます。暴れ狂う大河の流れを治めるには、小手先の堤防を築くことではなく、暴河の流れをそのままに、いくつかの支流を作ることによて、そのエネルギーをコントロールすることが肝要
★私たち日本人は、過剰に敏感です。敏感な過剰エネルギーはそれがコントロールされないときには「弱さ」となって表れますが、、、(略)。★いまの日本人が精神的に弱いといわれる原因は、出口を見つけずに、ただ抑圧したり、激励したりするところからくる歪みの表れだ
古来、勇将・猛将と呼ばれた人には、人一倍恐怖心が強いという人が多くいました。勇猛であればあるほど、強い恐怖心を持っていました。その恐怖心に裏付けられた計画性や恐怖心があったからこその
「ハード」な筋肉とは、鍛えに鍛えて鎧のようにガチガチになった筋肉をいいます。筋肉がこういう状態になると、その筋肉を助ける働きをする筋肉や、あるいはその筋肉と逆の働きをする筋肉が使えなくなる
★これに対して「ストロング」な筋肉とは、必要のないときには弱く柔らかく、そしてパワーを発揮すべきときには強くなれる筋肉をいいます。弱くも強くもなれる、その幅を持って筋肉が「ストロング」な筋肉です。強さとは、「振幅」の大きさだと言っていいでしょう。
「俺はストレスなんか感じたことがない」と豪語する人ほど、じつはもろく、一度折れると立ち直るのが大変です。近ごろ「メンタル・タフネス」という言葉をよく耳にするようになりましたが、そこでいわれる「タフネス」もハードであることが多い。もろん調子がいいときはいい。やけにポジティブだし、テンションも高く、とても明るい、でも、いったん落ち込むとなかなか抜け出せない泥沼に入り込んでします。それがハードなタフネスの危険性です。
★それに対して「ストロング」な精神とは、落ち込むときにとことん落ち込み、楽しむときにはとことん���しめる、そんな振幅を持った心を言います。ですから彼は恐怖を感じるし、不安も感じる。いや、感じるどころか、人一倍怖がりかもしれません。しかし、その怖さや不安を持ちながらも、それを乗り越えていく力を持っている、それがストロングな精神です。
床一面にうじゃうじゃ蛇がのたっくている部屋があり、ここを通って次の部屋に行かなければならない。そのときに「蛇なんか恐くない」というのは勇気ではない。「怖いけれど行く」と一歩を踏み出す、それが本当の勇気だと言えます。
★「メンタル・タフネス」とは、ストレスをなくすことではありません。ましてストレスを感じなくなることでも、ストレスに対する感性を弱めることでもないのです。自分のことを考えると、ストレスがあるからこそ、舞台に出られるのでないかと思います。
これは舞台という場が、いい意味でのストレスの場だからでしょう。ストレスのおかげで、出ないはずの声が出たり、あるいは普段では考えられないくらいの声が出たり、また稽古では無理だと思っていた動きができたりします
★だから舞台馴れしてしまって、舞台に出ることへのストレスがなくなってしまったら、もう舞台には出られません。舞台においてはストレスをなくすのではなく、ストレスそのものをよりよいパフォーマンスのためのリソースにする、それが大切なのです。
言い換えれば、ストレスを行動エネルギーに変換する力を持つ、それこそが本当の「メンタル・タフネス」です。そして、その変換をするためのツールが信長にとって「舞歌」だったのです
メソッド演劇では、その人の人生経験以上の演技はできません。ですから、自分の演技を膨らませるためにさまざまな人生経験をすることが求められます。
能はこれとはまったく違うアプローチをします。悲しいとか、楽しいとかそんな解釈は一切せずに、ただ「型」の稽古をします。この「型」は、舞の型だけでなく、謡の型も含まれます。本当は謡の型という言い方はしないのですが、しかし謡の稽古はやはり「型」を稽古しているようなものです。
★そこでは手の位置が高いとか、もっと低い声を出せとか、そういうことだけをただひたすら稽古されます。本番でも、ただ稽古したとおりに「型」をなぞります。そこにはこんな感情を表現しようなどという気持ちはまったくありません。が、観客は感動します。しかも、その感動は悲しいとか、楽しいとか、そういうことを超越したもっと深い部分での感動です。(略)かつて古人が封じ込めた、私たちの祖先の深層力が「型」をすること、すなわち舞うことによって解凍され、それが舞台からあふれ出て観客を感動させるのです。このとき、観客の身体も変化してゐて、普段はまったく忘れている、身体の深層に眠っている非常に深い部分が刺激されています。ですから、そこで立ち現れてくる感動は、かつて体験したことのない感動です。
表層の「こころ」があります。これは「こころ変わり」という語が示すようにころころと変化します。その奥にこの変化する「こころ」を生み出す「思ひ」があります。
映画などを観たときに感じる感動の多くは「こころ」の感動ですが、能を観たときに感じる��動はこの「思ひ」の感動です。
外からやってくるストレッサーに対し、自分の中の認知の歪み=受け取り方を矯正すれば、ストレス反応も変えることができると描投げる認知療法
ストレスも、揺れるこころもなくならない
どんなに状況を変えても、自分自身の性格を直しても、揺れるこころはなくならない。それが人間の性質です。いや、それどころか、こころを揺らすために、すなわちストレス反応を引き出すために「思ひ」はわざとさまざまなストレッサーを自ら引き寄せているんじゃないか、そう感じてしまいます。
★外からやってくるストレッサーに対して認知を書き換えれば何とかなると考える認知療法に対して、我が祖先は、ストレッサーはむしろ自分で招き寄せているのではないか、そう考えたようです。
となると、状況や認知がどんなに変化しても、こころは揺れたがるものでしょう。どんなことがあってもストレスはなくなりません
★★ストレスはなくならない。こころを波立つ。だからこそ、波打つこころはそのままに、またそれを波立たせる「思ひ」もそのままに、その底の人間の精神の最奥に存在する霊妙な精神作用である「心」に、どっしりと重い錨を下ろしておく必要があるのです。
★精神の深層にある「心」、世阿弥はさら正確を期して「正位心」という語も使います。自分のずっと奥のほうにある不動の精神、それが「心」です。「心」とは「芯」でもあり、そして「神」でもあります。諒闇で言語を拒絶する時空を世阿弥は「妙」すなわち「心」であるとし、「言語を絶して心行所滅」と言います。
暗闇が裂けて光が戻ったその瞬間を世阿弥は「花」と言います。世阿弥が最も大切にする美しさ、「花」です。この花はむろん植物の花に限りません、。
変化(花)は存在ではないので、絶対の闇と同じく、時間も空間も所有しません。しかし、花は絶対の闇である「妙=心」とは違い、時間と空間を生み出します。変化そのものがそこに立ち現れた瞬間に、時間と空間がうまれるのです。
★★闇が裂けた瞬間に、そこに生じた光が神たちの顔を照らし、人はそれにある形を認識し、時空間が生まれます。この瞬間を世阿弥は「一点付くる」と表現します。まさに瞬間、一点です。ここで世阿弥は神々の「顔」を「面」、光によって「照らされた」状態を「白」といって、「面白き」という言葉の由来とします。時空間が生まれ、はじめて「認識」が可能になります。
→「手紙」を書くというのも、こういうことなんだろうな本来。
★この「こころ」をちょっと突き詰めると、それが生じた瞬間、すなわち「花(変化)」の瞬間をとらえることができます。これが「思ひ」、すなわち「こころ」を生じさせる変化そのものです。ちなみに瞬間といっても、それは時間が存在する「いま」から見た瞬間で、本来は時間も空間もない、時空の裂け目のような「状態」ですから、この瞬間は一瞬でもあり、もっと長い時間かもしれません
★世阿弥は「万能を一心につなぐこと」と言います。全てのことを最奥の精神である「一心」、すなわち錨につなぐことを求めます。そして、そんな不可能そうなことを行うのが舞歌の力なのです
私たちは呼吸と声とによって「心」に到達しようとしています。
★彼女が語りをし、その最後でシテの正体が顕れた、まさにそのときワキの「人の時」はぐいっと過去に引き戻され、「いま」は「昔」になってしまうのです。遡行する「死者の時」と順行する「人の時」とが出会ったそのとき、そこに「死者の時」でも「人の時」でもない、新たな「時」が誕生します。現在と未来が出会った瞬間に、「何か」が生まれ落ちるのです。
旅人は放浪の人です。ここがどこであろうと、いまがいつであろうと知ったことではありません。が、ふたつの時が出会ったそのとき、場所も時も意味を持ち始めます。シテにとってはこの場所でなければならなかったこと、そしてこのときでなければならなかったことが明かされ、放浪者にとっての「いつか、どこか」はまさに、「いま、このとき」の特別なときになるのです
★順行する人の時の流れと、遡行する死者の時の流れの渦巻くのがこの世です。それは「こころ」と「思ひ」のように位相を異にしますので。通常まじわることがありません。しかしそれが「事件」として交わった瞬間に私たちは忽然と絶対理解不可能である「永遠」を実感します。(略)そして、じつはこの「永遠」こそが「心」なのです。世阿弥の言う「言語を絶して心行所滅」の「妙」です。こころの最奥に存在する霊妙な精神作用です。
★この永遠性を古人は「チ」と呼んでいました。漢字を当てはめれば「血」にもなりますし、「乳」にもなります。しかし「チ」とは、そういった具体物ではなく、生命活動そのものを指す言葉です。ですから「霊」や「魂」という漢字をこれに当てることもあります。
→書の古典というのはこの「チ」が書かれたものなのだろう
「こころ」すなわち認識可能なものを「モノ」としましょう。むろん物体もモノですが、人間もモノです。夢で言えば試験の夢や舞台の夢も認識ができますから、やはりモノです。これに対して認識ができないもの、これを「コト」と言います。いままでのお話で言えば「思ひ」です。試験の夢や舞台の夢が顕れる以前の、心の奥底にある混沌とした、なんかもやもやしたもの、それがコトです。
★モノであるワキと、コトであるシテは通常出会うことができません。位相が違うのですから当たり前です。神と人との出会いも同じです。それが出会うことが出来るのは前述したバルトの言う「事件」としての出会いにおいてのみなのですが、その不可能な出会いを芸能化したのが能なのです。
→なので、基本は分裂している。その分裂した状態をいつか来る「出合い」まで保持して、なお精神の健全を保つことがなお重要になってくる。
★モノとコトが出会ったとき、私たちはそこに「チ」である永遠性が流れ込んでくるのを体感し、そのときこの世のどんな不幸も「永遠から見れば、まあ、たいしたことはないか」と実感することができます
→この「永遠性」というのは、言うまでもなく「ポエジー」のことで、ここでいうモノに「人間」が含まれることも忘れてはならない
★通常出会えないモノとコトをつなぐもの、それが「コト」の「端」である「コトバ」です。混沌として不可視なコトの、��る部分を切り取って、それをひとつの面から見えるようにしたのがコトの端である「コトバ」なのです。
「チ」と出会うために、私たちは「呼吸」を使います。西洋でも息を表す「スピリット」は、同時に「精霊」という意味を有します
★日本語の「命」とは「息」の「チ」です。息を探求することによって、コトのさらに奥にある「チ」、すなわち生命活動そのものや、永遠性にも出会える、そう古人は考えたのでしょうか。
→なので息が無ければ、詩もない
反復律動性の呼吸は次の三要素を満たした呼吸です
・意識的な呼吸
・リズミカルに繰り返される深い呼吸
・呼気(吐く)優位の呼吸
★本番の前にとても緊張してしまったとしましょう。その緊張を取るために、リラックスできるような呼吸をしたり、あるいは緊張を取るような薬を服用したら、確かに緊張はなくなるかもしれませんが、しかし同時にパフォーマンスもできなくなってしまいます。試合ならばやる気が出ずに惨憺たる結果になるでしょうし、人前でのスピーチならば間延びしたぼんやりしたものになってしまいます。
本番において大切なことは、緊張や不安をちゃんと抱えながら、しかしそれを適切な状態に保つことです。
彼は自身への戦としてわざわざ不安を募らせました。不安を募らせることによって、さらに大きな戦闘エネルギーを導き出そうとしていたのです。
★行動エネルギーを大きくしようとするならば、不安や恐怖、すなわちストレスは大きい方がいい。
謳や舞は、「ゆっくりと繰り返される、リズミカルな深い呼吸」、すなわち「反復律動性の呼吸」によってなされます。「反復律動性の呼吸」にはストレスをそのままに保ちながら、それを適切なリズムに整えることによって、行動エネルギーに変換させる効果があります
謡や舞、すなわち舞歌によって自分の不安や恐怖を、適切なリズムに整え、それを行動エネルギーに変えることができるという経験的実感を持っていた
ただただ敵を惹きつけて自分の不安や恐怖を増大させていったのです。日本の芸能では「溜め」ということが重視されます。
ですから、そういうことがわかっている人にとっては苦難と言うものは喜びでもあります。「我に七難八苦を与え給え」
★むろん苦難ですからつらい。つらくなくては苦難ではありません。その苦しみを「反復律動性の呼吸」を使うことによって行動エネルギーに変換する、それが彼らの力でした
創業社長といえば聞こえはいいのですが、たった一人で興した会社です。こんな時代ですから資金繰りの大変さはいわずもがな、その経営や人間関係に四六時中、頭どころか体中悩まされています。彼は何度も自殺を考えたそうです。でも、そんなときに謡を謡うと、なぜか生きようとする力が湧いてきた、といいます。
「生生是を易と云ふ」とあります。生成しようとする意志、そしてそのプロセス、それこそが物を存在せしめている根拠
★その仕組みは、自分の他に存在するのではない、自分の中にのみ存在する。その絶対的な自己信頼の上に立つ「中庸」では、我そのものを重視し、その自我を自分から尊厳にすることを求めます。自分の感情に自然であり、自己の思慮に責任をもつこと、それが「中庸」です。だからこそただ隠棲をするのではない。自己に閉じこもらず積極的に外界と調和することを主張します。枯木のように無になるのではなく、外界と接して喜怒哀楽を感じながら、しかもその喜怒哀楽の心の動きそのものの中にこそ、外界と調和する「中庸」の状態がおのずから備わっていると考えるのです。
岩窟に住む隠者でありながら、しかし里人からも慕われ、
欲望はエネルギーであるので変換が可能です。そのエネルギーを自分だけに向けずに、もっと他人に向け、そしてそれを建設的な方向、たとえば奉仕などの作業に置き代える、そんな工夫をする
★この秘宝によって病気が治ったからといって、修行をやまてしまってはいけない。病気が治ったら参禅せよ、参禅したら悟りを求めよ。悟りを得たら、さらに進め
彼は過敏な自分の性格に押しつぶされずに、それをむしろ活用したのです。
★神に対するコトバが古くは「歌」と呼ばれていました。歌とは神に対する祈りや、あるいは神を下ろすための呪言でした。
無意識にかけているブレーキを外す声、それは激烈な響きをもった声、すなわち本来の意味での「歌」
さわり-触れる-ふれあい
日常性を超える。東洋人は日常性を超えた世界と親しく生きてゐたために、ノイズを日常の中に取り入れていました
旅人が歌枕の地に宿ったときに言霊の籠る歌を詠み、そそて呪術としての激烈な響きを持った声で、それを超えに出して歌う
★10年経って、やっと入門者程度になれるということです。しかも、本気で精進しての10年です。そして門に入ってからは、あとは一生続く修行の毎日がまっています
★ゴールを重視うする西洋的なものに対して、日本の芸道はプロセスを重視します。本気でやれば数年で、技法やテクニックを先生に教わることはなくなってしまうのです。しかし大変なのは、そこからです。
★ピアノやヴァイオリンのように超絶技巧の訓練はそこにはありません、スポーツのようにトレーニングによって極める技も存在しません、だから、その分、単純な節や型を、奥へ奥へと深化させていく必要が生じます。その深め方を先生は教えてくれません。深化の方向は人によって違います。