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今までの歎異抄解説書ではわからなかったことがこの本ではっきりとわかります。
「善人なおもって往生をとぐ、いわんや悪人をや」の意味がはっきりとわかります。
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独善的、一面的な解釈。
わかりやすく説明しようとした結果なのだとは思う。ただ、親鸞や歎異抄をわかりやすく説明するところに落とし穴がある。結局の所わかった気になって善を行うだけの元の木阿弥。
歎異抄がなぜ秘本とされたのか、それはこういった解説本が出版されて誤解する人が出ないようにするためではないだろうか。
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信じることと知っていること、の違い
信じる、ということは疑いを持っていることの証し。
「火は熱いものと信じている」とはいわない。「知っている」という。
合格を知っている、とは言わない。合格を信じている、という。
信心とは、疑いの心を押さえつけ、信じ込もうとすること。
しかし、親鸞上人のいう信心、信楽は、疑いがなくなったもの、
疑いが消滅した状態をいう。
この心持ちは、自分でそうできるのではなく弥陀から賜るものである。
故に、他力の信心、と言われる。
疑うまい、と努める信心ではなく、疑いが晴れた心を弥陀から賜ったもの、
が親鸞上人のいう信心である。
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「歎異抄」は七百年ほど前親鸞聖人の高弟・唯円によって書かれたそうだ。親鸞が亡くなった後、親鸞聖人の説と異なることを言いふらす者が現れたため、この誤りをを正そうとしたものと言われる。「方丈記」「徒然草」と併せて三大古文として有名だという。全部で十八章からなり、第一章から第十章までは親鸞聖人の言葉をそのまま記し、第十一章から第十八章は当時流布していた異説を正したものだ。
現在では『親鸞聖人』といえば「歎異抄」、また「歎異抄」といえば『親鸞聖人』と言われるほど、広く一般に読まれているという。私は「歎異抄」の名前は知っていたが、読んだことがなかった。先日五木寛之の「他力」を読んだ繋がりで、ずいぶん以前に入手しておきながら手をつけずにいたこの本を読むことにした。
親鸞が誤解を受けるもとになっているのが
「善人なおもって往生を遂ぐ、
いわんや悪人をや。」
(善人でさえ、浄土へ生まれかわることができるのだから、ましてや悪人は、なおさら往生できる)
という言葉だそうだ。悪人を成仏させるのが弥陀の本意だから、『助かる縁なき者』と、他力にうちまかせる悪人こそ、浄土へ生まれかわる正客なのだという。「親鸞の教えは悪人製造の教え」と非難されたそうだが、ここで親鸞が「善人」や「悪人」をどう定義しているのか読むと納得がいくかもしれない。
なお、第一章から第十章までは、朗読暗唱用に、美しい毛筆で書かれた章文も認められいる。書家の木村泰山氏によるものだ。これは素晴らしいと思う。
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古典というのは、やはり、自分自身の魂でぶつかっていくことが重要なのかも。
魂が言葉や解釈やイデオロギー的になってしまったり、
なんたら教とかなんたら先生を奉づる感じになってしまうのはあんまり好きじゃない。
それを著する個人としては立派だと感心するけれど。
なぜかというと、個人語というのを放棄してしまうことだから。
五木寛之訳の方が泣けた。
親鸞の思想はキリスト教にそっくり。
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有名な歎異抄をある程度わかりやすく書いてあります。いろんな方が解説を書いていますが、この本はわかりやすい現代語訳と、後半の原文をどちらも味わえるのが特徴。
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歎異抄の解説本
わかりやすい内容でしたし、原文との比較や
原文を読みやすい形で書かれていると思います。
ただ、やはり本質のところは、ぼやっとしていて
わからない部分もあります。
まだまだ他力になれていない自分だからだろうか
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司馬遼太郎さんの「無人島に一冊だけ本を持っていくなら『歎異抄』だ」との書評に惹かれて購入。
まず、五木寛之さんの親鸞を読んでから、読みました。哲学的で深く、何度も読み返したくなる気持ちが分かります。
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浄土真宗の永らく秘本だった「歎異抄」明治時代に再評価され、本書も39万部を超える隠れたベストセラーらしい。善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。わかったような気だけはしましたwwww。
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浄土真宗の親鸞の言ったことを後世の仏縁者に正しく残すために弟子が記した「歎異抄」を解説するための本。言うなれば解説本の解説本というところ。
この本の構成としては3部立てとなっており、第1部に原文抜粋と現代語訳、第2部に解説、第3部に原文全ての記載がある。ハードカバー350ページだがフルカラーで文字も大きく、桜の写真が何枚も挿入されておりサクサク読める。
先にツッコミを入れたいのだが、この本によれば明快な現代語訳を記載しているとのことだが、まず、明快なはずの現代語訳に注釈がわりとついていて、「明快」の意義が自分の中で迷子になった。一応平成に書かれた本なのだが。
内容については親鸞の言いたかったことを丁寧に説明はしている。社会の教科書なんかで出てきた「他力本願」「悪人正機説」が軸となるうえ、何かと誤解されがちなのでそこを特に力説している印象。
弥陀に救われるのは自分の行いが因果だからではなく、全てを弥陀に委ねた結果自然と念仏を唱える状態になった時点だろう。悪人こそが救われる、と親鸞が説いたのは、善人ほど自分の行いに自信を持ち、絶対正義だと疑わず、「これだけ正しいことを行っているのだから極楽浄土へ行けるだろう」という驕りに結び付きやすいから、また救われるためにいいことをしようとしているからなのでは。その状態では弥陀の救いを受けられない。自分が悪人だと自覚し心のどこかでそれを苦にしている人は、自分を絶対的頼りにしないため、弥陀にすがることができる。結果、弥陀に救われる。
確かに仏縁事でなくても、正しい行動をしていれば必ず自分にいいことがあるし、他人も正しい行動をすべきだと思っている人はいる。そういう人は何かあると正しい行動を取らない他人を責めてすぐに怒りをあらわにしますよね。まさに煩悩の塊。正しい・正しくない、善・悪なんていうのは人間が自分の意思に従っている(自力)結果なので弥陀の救いに一切無意味と親鸞は説いている。
こう言った親鸞の言葉は一見反社会的ともとられるかも、とこの本に書いてあるが、自分はそう思わなかったのはひねくれてるから?寧ろ上にあげたこと以外でも色々そうだそうだと思うことが沢山書いてある。個人的には「この世のすべては、そらごとであり、たわごとであり、まことは一つもない」のセリフに救いを感じる人が、弥陀の救済に近い人なのではないかと思う。
ただ、これをふーんなるほど、と読み物として読む分にはいいが、具体的な行動については何も書かれていない(当然だが…)ので、「で、どうすればいいの?」となるので行動規範を求めてる人には物足りないかもしれない。
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新聞広告で大絶賛だから借りた。内容見てびっくり。親鸞の仏教説法のホントは露知らず、でも借りたら最後、読破するのが信条、読んだw
ちょうど我が家は浄土宗。よくお坊さんが「不可称、不可説、不可思議..」と唱えているその語の意味を初めて知った。
歎異抄の存在もこの本で初めて知ったわけだが、ぶっちゃけ、賢い人がもの知らぬ人にものを教える時の悪い見本の一例だなぁと感じた。自分が分かっている事を前提に話すから相手は混乱する。それがこの歎異抄だなぁと。言ってる事がどちらにも取れる事だけに誤解を与えて当然。で、本人も判ってか被見させない、っておいw
まぁ仏教も戦乱の世ではその徳を利用されて多くの農民が死地にやられたのを思うと宗教なんて~って思うよね。
さておき、歎異抄の解説本としてはなかなかうまくまとめられ、無知の自分ですらちょっと浄土宗に興味を持ったほどだからうまくまとめられた本だとは思う。
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真宗系の大学を出ているのに、歎異抄をきちんと学んだことがなかったが、要するに「信じよ」という言葉に尽きるシンプルな教えであることがわかった。大きめの文字や総ルビなど、年長者か年少者か、特定のターゲットがあるのかもしれないが、スルスルッとわかりやすい文体では決してはなく、中ほどの説明のない桜の写真などと相まって、少し不思議な印象を受ける本だった。
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新聞広告でよく宣伝されているので、どんなものかと読んでみた。
歎異抄と言えば「善人なおもって往生をとぐ、いわんや悪人をや」の一節くらいは聞いたことがあるが全体はよく知らない。その歎異抄に対して、現代語の意訳と原文を併記している。主な事項には解説をまとめている。
正直あまり興味を持てなかった。意訳がよくわからないから頭に入ってこない。意訳のもっとわかりやすい翻訳とその解説がほしい。
こんな私でも、信心さえあれば極楽に行けるでしょうか
。
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父親が仕事の関係で、あの畳の大きな建物ができた時に、見学会のようなものに呼ばれたらしい。そしてその時もらったのがこれ。
とりあえず読んでみた。ああ、やっぱり「絶対の幸福」という単語に違和感を感じる。知らずに参加した親鸞会のダミーサークルで最初にその単語を聞いたときに、「え?仏教ってそんなのだっけ?」と疑問でいっぱいになったのを思い出す。自分は親鸞会に入ったことはない。でも間違いなく、この本の著者の教えを聞いた人たちの勉強会で経験したことが、今の自分を作っている。不思議だな。
紙質や色の変え方、本文、訳の入れ方、すごく工夫されて作られているのはすごくわかる。でもなあ、やっぱりなあ。読了。
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他力(他人/世界?)への感謝を、まず心に置くという、根本は改めて深いと思う。
そこから、また考えを進めて、生きることとは?、生即苦とは?と、生きること自体への思考が進んでいくように感じる。