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第1章からしばらくは、身体を軸とした認知科学の入門書、もしくはまとめ本という風である。かなり、面白い。そしてかなり話は認知科学全般を横断する。認知科学は現代版の哲学だと以前から思っていたが、その思いを強くする。月本さんのまとめ方で行くと、ほとんどカントのカテゴリー論に近いよね、と思って読んでいると、実際カントに対する記述があって笑った。
しかし、カントに行き着いたあたりでパタリと話は終わってしまい、後半、かなり唐突に本書の主題「日本人の脳には主語はいらない」に突入する。
月本氏の中ではそれらは全て整合しているのだろうが、前半の各章の接続、前半と後半の接続が私にはついて行けなかった。特に前半は面白かっただけに自分の理解力不足を残念に思い、三日ほどかけて読み返した。が、慎重に読み返したつもりだったのだけれど、気づけば筆者に振り落とされていたような気もする。やはり、残念ながら私には全体像が見えない。
後半部分の荒っぽさも気になった。大まかには「子音が多い」→「脳の仕組み上、主語が必要となる」(裏を返すと「日本語のように母音が多い」→「主語は特に必要ない」)といった仮説を検証するのだが、脳にはあまりにも不明なところが多いので、この程度のことではとても検証とは言えないだろう。また、各言語の音声など、脳以外からの比較検証アプローチも、サンプルが少なすぎて、学問的検証としてはかなり心許ない。
なんとなく、己が発見した仮説の面白さに溺れてしまった印象である。まとめの「文法の終焉」などは共感するところが多い。はっきり言って、この本の主題「日本人の脳には主語はいらない」だけ取り除いて、前半と末部を拡張したら、名著だったのではないかとも思う。
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母音は左脳、子音は右脳で処理される。
また、言語処理は左脳、自他認識は右脳で行われる。
日本語は母音が多く左脳で処理が始まる。
しかし英語は子音が多く右脳で処理が始まるが、
その際に自他認識を行う分野に対しても刺激がいくので
英語では主語がほぼ強制的に要求されるという論。
ここであげた言語処理とはブローカ野のことだと思われるが、
そもそも脳内で発音を聴覚分野に送る前に、
その発音をしろという指令は言語処理の分野(左脳)から出されるのでは・・・
などの疑問も読んでいて感じたが、全体的には学ぶことも多く楽しかった。
特に脳の発達という点は非常に興味深い。
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前半の「理解とは仮想身体運動」はなるほど、という感じだったが、後半の、主語を省くプロセスとして右脳の主体理解と左脳の言語処理との距離が離れているから云々というあたりからいきなりあやしくなる感じがする。
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言葉の処理方法を認知学、心理学、脳科学等の様々な側面から解き明かしてくれる点について、新たな視点を得たよう思われます。また、日本語の文法について、日本語には主語がないとする説があることや、明治期に列強に追いつけ追い越せの風潮のなか、英語を国語とする案があり、英語を土台とした文法がつくられたことに大変驚いた。言語機能は獲得形質であり、言語が認識のフレームをつくるという認識をもっていたなら、明治期の人たちの考え方に凄さを感じます。
世界経済の大きな変化、震災、原子力等の問題が増え、現行社会システムのひずみが徐々に大きくなる局面にあります。次代にむけ大きく考え方を変えていかなくてはならない状況にあるように思われます。そのようなことを時間をかけて徹底的に行うには言葉から始めなければいけないかもしれません。
その言葉の力を題材にした本がありましたが、読み書きできるようになりましょうという提案からこの辺まで踏み込んでいただければ良かったと思います。
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これは掘り出し物の本である。
著者の月本洋さんは工学博士で、人工知能が専門であるようだが、博学ぶりが凄い。言語学、脳科学、心理学、修辞学などの世界を縦横に行き来し、おまけにどうやら木村敏さんの本も読んでいるらしく、「私」=「あいだ」の理論まで登場する。
認知も表現も、人間「精神」のはたらきにあたっては、身体全域の活用が必要である、という視点は、メルロ=ポンティやヴァイツゼッカーの思想とも合致する。
そういうわけで大興奮の書物だったのだが、肝心の「日本語のように母音の比重が高い言語では、主語が省略ないし欠如する傾向が強い」「日本人は虫の声なども左脳で聴くが、西欧人はこれを雑音として、右脳で聴く」といった命題は、最後の方で一気に説かれるけれども、残念ながら私には、ここで力説された内容がいかなる方向に思考として展開が可能なのか、いまひとつわからなかった。
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言語によって脳が成長過程を通して違う構造を作るらしい事が脳解析からわかって来た。
英語脳で日本語を見る場合、日本語らしい日本語が出来なくなる可能性すら暗示しそうな報告である。
また、さまざまな雑音を言葉的に捉える日本語の感覚もここから読み解いていけそうで、言葉と脳の関係、そして、母語に日本語を持つと言う事を考えなおせる一冊。
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日本人が空気を読むのが得意で、英語圏の人は自己主張が強い。そんなイメージを言語、脳科学の観点から裏付けてくれたように思う。言語も含めての「文化」と考えれば、「場」を重んじるのは日本人の最大の強みなんじゃなかろうか。
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懇切丁寧。
タイトルの内容を語るのに必要な予備知識の為に本の半分強。
途中、「何が知りたくてこの本読んでんだっけ?」って忘れそうになる(^^;
「雨が降る。」を英語で言うと"It rains"
なんでItが要るんだ?
と違和感を覚えたことがある人は読んでみた方がイイ。
心と脳と社会の関係なんてあたり、主題を忘れて夢中になる。
心の形成。人格の形成。
自分を自分たらしめているものが
自分が思っている以上に社会に拠るモノなのかもしれない…と吃驚する。
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大変興味のあるテーマです。だいたい英語から日本語あるいはその逆に翻訳するとき、主語をどうするかというのはよく悩まされた問題です。「I love you.」と「愛してるよ。」これだけで十分違いがはっきりするのではないでしょうか。なぜそうなってしまったのか。それは脳に関係があるらしい。主語が不要である言語は他にもあるらしいのですが、少数派のようです。今後の脳研究によってさらに詳しいことが分かっていくことでしょう。本書についていうと、まだまだ研究段階だから仕方ないのでしょうが、少し、いろんなところからのつぎはぎという感じで、一気には読み通せませんでした。また、P.92に「狼に育てられた子ども」(この問題については私の中では決着がついていて、西田利貞先生が書かれたものを読んだときから、そんなことはありえない、デマである、と理解しています。)の記述がありますが、そのことも少し本書の印象を下げる原因になっています。まあ、ともかくテーマはおもしろいので、ぜひ研究が進むことを期待しています。
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日本語の文法の独特さと他言語との比較は、外国語を勉強する際に大いに参考になる。前後から容易に推測できる主語をいちいち言わない、主語に合わせた述語の変化がない、ということが日本人の思考に大いに影響しているというのは金谷、三上辺りも言っていたかと思うが、とても興味をそそられる話だ。
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『言葉と歩く日記』より。
表題見て「確かにそうだわ」と気になって。
日本語は主語が省略される点を
心理学と主語学と脳科学にまたがり
仮想的身体運動という視点から解決している。
仮想的身体運動とは、人がイメージする際に身体を動かしていることで
人間は言葉を理解する時に仮想的に身体を動かすことでイメージを作って言葉を理解しているらしい。
へええ!へええ!!!!
脳を心として機能させるには人間集団での教育と相互関係が必要である。
自分は他人の模倣を通してしか作れないのであるから
自分とは原理的に社会的なのであるとも。
ふむふむふむ!納得、納得。
これは購入必須です!