投稿元:
レビューを見る
JGバラードが描く屈折したエロ小説。ものすごいエロなんじゃないか?と思うと車のフォルムだったり。車の話だと思うと女性の話だったり。。。。。すばらしき変態さんの小説です。
投稿元:
レビューを見る
人間と自動車、事故、傷、リビドー。サドをちらっと読んだときとちょっと似ている気がしました。性行為のことがいっぱい書かれていますが、どれもこれも限界までいってます。
けっこうショッキングな内容でした。
実際にやってみたいとは思いませんが、興味深い内容でした。
2010/8/30 読了
投稿元:
レビューを見る
車の衝突事故で性的に興奮する人たちのロマンス。
グロ切ない。
翻訳家のセンスかもしれないが、内容はグロいのに文章の並び、リズムが詩的でとても美しい。
投稿元:
レビューを見る
交通事故に性的快楽を覚え、ひたすらに事故を起こす「バラード」と、おなじく交通事故に性的快楽を感じる事故現場の撮影をする「ヴォーン」が出会い、とある有名女優の交通事故を作り出すという流れ。
正直、わずらわしいくらい比喩表現が満載で、しかもその比喩から、その指し示すものがイメージできなかったりする。
文章のなかに難解な比喩をところどころに差し込むことで、むしろ意味そのものをはぐらかしているような気もする
投稿元:
レビューを見る
文体が読みにくくて何度か挫折して積読していたが、今回やっと読了。自動車というのは人間にとって一番身近な暴力であり、他人を簡単に傷つけることができるが、一方で自分自身も車に簡単に傷つけられる脆い人間である…という、加虐と被虐の感覚と、人体の体液が無機物と交じり合う気持ち悪さが逆に快感、みたいな感じか。
退廃的だが納得感はあっておもしろかったものの、体臭がにおってきそうな生々しい文章で気分が悪くなってしまった。
一方で、車以外の場面(家や病院、職場など)やキャサリンのキャラクター等、乾いて清潔感のある雰囲気でほっとする部分もあった。この感覚はハイ・ライズ等の他作品の建物の印象にも共通している気がして、これが自分のバラード作品の好きな部分かも。
主人公とヴォーンの絡みにはびっくりしたが…ヴォーンが主人公を振り回しているように見えて実は主人公の欲望を体現しているという関係性は、「ファイト・クラブ」と似ていたな。
投稿元:
レビューを見る
序文曰く、『テクノロジーに基づくポルノグラフィー』。
理解出来るかどうかは兎も角として、自動車事故に限らず破壊衝動とリビドーには共通する何かがあるのかもしれない。強烈なフェティシズムを感じた。
自動車ではないが、マンディアルグの『オートバイ』を連想した。
投稿元:
レビューを見る
訳:柳下毅一郎、原書名:CRASH(Ballard,J.G.)
イギリスのニューウェーブSF作家バラードの1973年の作品です。テクノロジーとセックスの融合というテーマで、自動車(事故)と関連してしか性欲を持てないクレイジーな内容です。濃密な描写が暑苦しいくらいですねぇ。バスとかで読んでいると結構恥ずかしかったりします。
投稿元:
レビューを見る
空想を尽くして架空の科学体系を作り上げるSFとは一線を画し、目の前にある科学技術から世界を抽出して硬質な創造の翼を羽ばたかせる。バラードはそういうひとだと思う。
すべては序文にある通り。SFの可能性の追求と、「もの」の概念化によって生まれる異質な新たな論理を精神分析で拡げる。
この作品では、「自動車」から性的な力を見出してしまった、ある意味でクラッシュしてしまったひとと、自動車という技術・ものとの関係がグロテスクに語られる。では、この「自動車」からそんな論理を見出すのは一体誰なのか。ものとひとの関係を描きながら、実は、関係を見出す本人の内的なやり取りの結果がこの物語だったのだ。これが外宇宙から内宇宙の探究へ、ということだろう。
語られる物語は、自動車事故が与える新たな論理にのみ込まれることが前提となって始まる訳だが、はたして技術はひとを呑み込めるものなのだろうか。
技術は目に見える「もの」を扱うものだ。そうなると、技術が呑み込めるのは、ひとの死すべき部分である肉体ただそれだけだ。目に見えぬ「精神」を呑み込めるのはやはり目に見えぬ「精神」でしかない。
だから、自動車という技術がひとを呑み込むのではない。自動車を見出し形作るひとの精神が、ひとの精神を呑み込むのだ。
ものがないと言っているのではない。ものに性的な力を見出すのはひとえにひとの精神の力に他ならない。技術というものがひとに刃を向けるのではない。技術を生み出すひとの精神がひとに刃を向けるということだ。
このように考えると、バラードの想定する内的世界を外的世界の融合というのはおかしな話になる。外的世界を見出すのは一体誰なのだ。それはバラードの考える内的な外的世界なのだ。
内的宇宙の探究、そこまでは納得できる。だが、彼は技術というものが、外的なものとしてあたかも自分とは外れた外的なものとして置き換えてしまったのだ。そのあたりが当時epoch making だった精神分析を取り込んだミスとも言える。内部世界と外部世界が融合するという時、いったいそれを見ているものはどこに存在するというのか。どうもそれがよく分らない。
クラッシュによって生まれる自動車=性的なもの という新しい論理の異質さを煽るような、描写の結晶質のような硬質さがとことんグロテスクで、その印象だけが強く残ってしまう。序文にある通り、作家は仮説を提示し読者の反応や事実でそれを証明し、恐怖でもって警告発するものだという。だが、ことばによってこの論理自体は考えられていない。自動車という目に見えるものが、どうして性的な力という目に見えないものにすり替わるのか。それがなぜ自動車事故である必要があったのか。
この途方もない深淵を、どうしてバラードはさも当たり前の前提のように受け容れられるというのか。
投稿元:
レビューを見る
柳下毅一郎氏の翻訳ということで手に取ってみた。
文意の読み取りづらい高密度な文体が大変な緊張を強いる本作は「頁をめくる手が止まらない」というようなタイプの小説ではない。
しかし、ヴォーンという偏執的なキャラクターに(バラードを介して)振りまわされるうちに、読者は本作の荒唐無稽な主題が奇妙な説得力を得る瞬間に立ち会うことになる……かもしれない。
投稿元:
レビューを見る
交通事故と性的快感を結び付けた性倒錯者達が多数登場する、どういう人生を歩んだらそんな設定が思いつくんだという作品。
40年以上前の作品でありながら、現代ですら斬新に思える設定に星2つとしたけれど、個人的には全く合わなかった。
ただひたすら、ホモ含むセックス描写の連続で、早々に胸焼けしてしまった。
徹頭徹尾、倒錯的なセックスと妄想を書き連ねたことは凄いとは思うが…。
「ファイトクラブ」が本作に捧げたオマージュは見事だなあと真っ先に思った。
投稿元:
レビューを見る
テクノロジーとの性的交合。
もう読むのは4回目くらいだがこんな内容だったっけか?ってくらいカーセックスまみれ。
すぐ精液がメーターやらなにやらに滴り落ちるし。
こんなだったっけか?この小説ってくらいな印象を持った。
投稿元:
レビューを見る
バラード初読。代表作だと思ったので。これはSFなんでしょうか。科学の発展と人間の関係という新たな面を見せてくれてはいますが。
P25「心の中で、ヴォーンは全世界が同時多発する自動車災害によって死んでゆくのを、エンジン冷却材と射精する下腹部との最終的結合の中で、無数の車が同時に発車してゆくのを見つめていた。」
翻訳が直訳なのかな、単語の羅列のようで読みづらい。イメージが、雰囲気が頭に入ってこない。車の部品、衝突と、それによって破壊される人体への恍惚。
かなりの性的な単語が並び、なかなか電車の中では読めないです。車の中でしか性行為ができず、自動車事故に惹かれる狂った科学者。不倫、レズビアン的資質がノーマルに感じるくらい、歪んだ性癖。
ずっっと同じ、自動車のパーツ、蹂躙され破壊される性器、無残な死というモチーフが延々と続くので、展開に盛り上がりがなく、ただ圧倒されただけで終わった。
投稿元:
レビューを見る
70年代らしく、LSDと車への偏愛による怪作。胸が悪くなるような描写が続く。自動車事故の愛好、という状況がキモチワルイ。
投稿元:
レビューを見る
ピカソの絵に出てくる人の顔は、前から見た顔と横から見た顔を同じキャンパスの上に描いている、と聞いたころがある。正直、私にはそのよさがイマイチわからないのだが、バランスをとることが難しいだろうことは、何となく分かる。
それと同じというわけではないのだが、この本も、二つの相異なるものを同一線上に並べているという点で、何か共通するものを感じた。
本の帯には、「テクノロジーと人間の悪夢的婚姻 衝突事故における性的可能性の追求」とある。車等の乗り物のテクノロジーと、人間のもつ性的なイメージを、登場人物の中にある偏執を利用して、あたかも同一であるかのように印象付ける。
ここまで極端ではないにしても、いわゆるフェチと呼ばれるものの延長にある一つの物の見方なのかもしれない。そう言えば、車やオートバイの雑誌やモーターショーには、ある種の美女がセットになっているが、何か、男性の深層心理には、そういうつながりがあるのだろうか。
とにかく、読み始めると、その世界観に慣れるまで読み進めるのがつらい。果たして単なる場面設定なのか、何らかの形でストーリーが進んでいるのか、それさえ判然としないまま、漠然とページを進める自分に嫌気がさしてくる。この作者は何が言いたいのだろうか。この文字の羅列に何か意味があるのだろうか。そんな疑心暗鬼を感じながら、50ページだか、60ページくらいまで読み進めると、急に、この小説が提示している世界の中に、自分が足を踏み入れたような感覚に落ちる。
それからは、理解できるかどうかは別として、最後まで一気に読み上げた。
この本がそのまま楽しめる人は、多分、作者と同じ趣向の持ち主であろう。しかし、多くの読者は、作者と同じ趣向を持っているとは限らないので、そのままでは楽しめないかもしれない。それでもなおこの本を楽しむには、私が最初に書いたような視点の転換をして、自分が理解できる趣向と置き換えて読むといいのかもしれない。
それにしても、この訳がすばらしいなあ。原作がどういう表現で書かれているのか分からないけれども、借り物の言葉ではなく、まるでオリジナルのメッセージのように、力強い言葉がびしびし伝わってくる。所詮、翻訳ものは、手袋をした上から手で触るように、本物には触れられないもどかしさがあるけれども、少なくとも、この本に関して言えば、本物と同じ感触が味わえているような気がする。それほど、訳が完成されているというか、この本に合っているように思う。
きっと、本屋に並んでいるだけでは決して手に取ることはなかったであろう作品を、こうして読む機会を得て、今回は貴重な体験をさせていただいたことを、感謝したい。
投稿元:
レビューを見る
バラードの代表作のひとつとして有名な作品であり、鴨も読む前からだいたいの内容は知識として持っていました。自動車事故に性的興奮を感じる男女が、乾いた現代社会の片隅でエクスタシーを求めて蠢く群像劇。いかにもバラードらしい、ビザールで劇的でスタイリッシュな問題作。
・・・との前知識を持って、読み進めたんですけど。
特殊性癖のヘンタイがヤリまくるだけの作品でしたヽ( ´ー`)ノ
いやまぁ、乱暴すぎるまとめだということは鴨もわかっているつもりです。が、煽情的で押出しの強い作品世界の中から、立ち上ってくる「美学」がないんだよなぁ・・・。
この作品をバラードが世に出した意図は、序文でバラード自身が明確に語っています。バラードが実際に日々感じていたであろう現代社会のテクノロジーの発展、その帰結としてバラードが幻視する、人間の制御を超えて暴走するテクノロジーのランドスケープ。そして、テクノロジーに飲み込まれて無意識のうちに変容していく、人間精神のあり方。そうした作品テーマをダイレクトに伝えんがために、敢えてポルノグラフィの体裁を取ったと、バラード自身が説明しています。
が。残念ながら、鴨にとっては、ただのポルノグラフィ以上のテーマ性が最後まで見えてきませんでした。異形の世界観ではあります。柳下毅一郎氏の翻訳らしい独特の癖のある文体が生み出す幻惑感もあって、読んでる最中は「なんだかスゴいもん読んでるなー」という実感はありました。でも、後に残るものは、鴨には残念ながらありませんでした。ポルノグラフィとして肝心な○○○シーンも、ただただ気持ち悪いだけで、全く盛り上がらず。
フィクションの世界観において、悪や背徳や変態性を描くことは、何ら問題ではないと鴨は思っています。ただ、そこで描かれる悪や背徳や変態性には、読者の平凡なモラルを圧倒的な力でねじ伏せる、他をもって代えがたい「美学」が必要です。何をもって「美」を感じるかは全く主観的な問題なので、たまたま鴨の基準には合わなかっただけ、ということだと思います。
異形の怪作であることは間違い無いので、その筋がお好きな方にはオススメです。かなり人を選びますねー、これは。