紙の本
教師にお勧め
2006/07/25 02:24
8人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:濱本 昇 - この投稿者のレビュー一覧を見る
私は、学校教育に大いに関心が有る。それは、一個の人格形成に係る家庭、社会と共に大きな一要素だと思うからである。学校には、初等、中等、高等教育が有るが、本書で述べる学校は、初等、中等教育に関するものである。著者の主張する学校とは、社会との交わりがある教育、職業訓練の場としての学校である。本書は、我が国の戦後教育に大きな影響を与えたと解説されている。しかし、今の教育現場を見てみると、それは、過去のものと思えてならない。何故ならば、今や、我が国の学校社会は、一般社会と隔絶された閉鎖的な特殊社会となっていると見えるからである。ゆとり教育の名の元に、社会との係りをカリキュラムに取り入れているように見えるが、実体は、教師と生徒の閉ざされた社会に有るように思う。中には、生徒を社会に交わらせる有効な教育を行なっている例も散見されるが、それはあくまで例外だと思う。
今の教師及び教師の卵達は、この閉ざされた教育の中で教育理論を学び、実践している。従って、開かれた教育とどう向き合えば良いか、教師自体が知らないし、当然実践も出来ないのである。今の教師、何が忙しいのか、忙しがって読書等の自己啓発にも乏しいと推測する。自分が教師の端くれだと考えている人達は、少なくとも本書を手にし、その昔のアメリカの実践教育の何たるかを勉強して欲しいと思った次第で有る。
投稿元:
レビューを見る
いわゆる「ゆとり教育」の方針にも影響を与えたデューイの教育論のひとつで、特に彼が実践した学校教育の授業内容を叙述したもの。
生徒の自主的な行動と実践の結果から、世界の論理を洞察し、体得させることを最良の教育とし、その手法と行程についての例を述べている。
投稿元:
レビューを見る
近代教育の父、ジョーン=デューイ(1859-1952)の著。1915年刊。それまでの旧教育を批判し、子ども主体の教育を提唱。自身が創始したシカゴ大学付属小学校での教育実践の様子も。
投稿元:
レビューを見る
初の満点作品!
学校は社会のつながりなしに存在することは許されない。教科書の数式や年号の暗記が役に立たない、おもしろくないと思ってしまうのは生活に関係のないことだったのだから当然なのだろう。
そのかわり、どんなに小さな疑問も邪険にしてはいけない。その疑問を自分で考え解決していくことこそが今必要とされている教育なのだ。
最初から最後までほとんど読み飛ばすことができなくて少し時間がかかってしまったけど、本当に面白かった1冊です☆是非読んでみて下さい!
投稿元:
レビューを見る
デューイの主張は分かるが、読みにくい。
訳者が悪いのか、原文が悪いのかは分からないが、とにかく読みにくい。前半は1度で理解できたのに、後半は2度も3度も読み返した。
とはいえ、生活に根ざした教育の重要性を説くものとして、一読の価値はある。
投稿元:
レビューを見る
デューイは教育に関して二つの約束を重視した。
一つは学校は暗記とテストによる受動的な学習の場ではなく、子供達の能動的な、活動的な社会形成の場であるということ
二つめは、この小社会と外部の社会との相互作用を必要とし、現代の社会生活の歴史的進歩を代表する小社会でなくてはならない。
(p206から引用)
この原理は現在の自分の研究にもつながるし、哲学としては良書であった。
現在起きている問題は社会と教育の相互作用から。
社会を変えるには教育も変えなくてはならない。
哲学書は翻訳版よりもペーパーバック等のオリジナル言語のが読みやすいだろうに。手に入らないので、読了。
投稿元:
レビューを見る
前博物館長からいただいた本のうちの1冊であり、やっと読み終えたところだ。
シカゴ大の付属小での講演がまとめられている。大学付属小学校は基本的に実験学校だということが改めてわかった。本学の先生方は「付属小・中」という誤用に極めて不快感を感じている。なぜならば小学校から設置された学校だからだ。そんなことをふと思い出した。いずれにせよ、同一法人に大学と小学校がある場合の法人の基本的な考え方
本学の労作の考え方と似ているというか基になった考え方がまず冒頭に紹介されている。これは下に引用しておく。
おさえておきたいことは、子供の4つの興味の種類である、談話・探究・物の製作・構成の興味・芸術的表現の興味だ。これらが成長に大きくかかわってくるという。学校だけでなく家庭でも意識しなければならないことだろう。“小社会”で学んだことを家でも定着させる時間にしなければならない。
投稿元:
レビューを見る
ポール・ラングランの生涯学習論の先駆けともなるデューイの学校及び教育論。不断に変化する社会において社会の一機構として学校が果たすべき役割とは何かという事を考察している。社会と学校との有機的な関係という思考の基盤となっている道具主義の思想は日本の戦後教育に多大な影響を及ぼし、今日の教育観の礎を為している。
投稿元:
レビューを見る
今まで読んだ本の中で一番面白い。
言葉にできていなかった違和感を100年前の偉い人が言葉にしてくれていて、とても勉強になる。
教師やるなら必読だなーと思う。
投稿元:
レビューを見る
教育学の古典を読もうと本書を手に取ってみた。
これだけではデューイが何を言いたかったのか、真意までは分からないと思う。
おおまかな子ども中心の教育の考え方は何なのか、把握する程度なのかな。
投稿元:
レビューを見る
イタリアの幼児教育(レッジョ・エミリア保育)が参考にしたというデューイ理論。
日本の教育も近代から現代にかけて少しずつ、デューイ理論の最終形態へ傾倒してきた?
現代の子どもがどんな理念の教育をうけ、その教育内容、教育指導方法に至った理由をどれだけの国民が理解できているのかな。
流動的な社会・政治が教育に期待するのは、その時代の社会に適合する人間を育てる事なのかな。
結局、教育ってプロパガンダなのかなぁ…?
投稿元:
レビューを見る
社会とは、共通の線に沿い、共通の精神において、また共通の目的に関連してはたらきつつあるが故に結合されている。一定数の人々ということである。この共通の必要および目的が、思想の交換の増大ならびに共通の統一の増進を要求するのである。こんにちの学校が自然な社会単位として自らを組織することができない根本的理由は、まさしくこの共通の、生産的な活動という要素が欠けているからである。(pp.26-7)
伝統的な学校教室には、子どもが作業するための場というものがほとんどない。子どもが構成し、創造し、そして能動的に探究するための作業場・実験室・材料・道具が、いやそういうことに必要な空間さえもが、大部分欠如している。これらの過程と関係のある事物は、教育上においてはっきりと認められた地位さえもたないのである。(p.47)
4つの興味―談話、すなわちコミュニケーションの興味、探究、すなわち事物を発見する興味、物を製作すること、構成の興味、および芸術的表現の興味を念頭に浮かべながら、われわれは次のようにいうことができる。これらの興味こそは自然の資源であり、投資されざる資本であって、子どもの活動的な成長はこれらの興味をはたらかせることにかかっている、と。(p.63)
教養とは、想像力が屈伸性において、範囲において、感入の度合において成長して、ついに個々人のいとなむ生活が自然の生活と社会の生活によって滲透されるにいたるような、そのような想像力の成長のことをいうのである。自然と社会とが教室のなかに生かされるとき、学習の諸々の形式と道具とが経験の本質に従属させられるとき、はじめてこのことがそのとおりになる機会が生まれるであろう。そして教養ということが民主主義の合言葉となるであろう。(pp.77-8)
他人が尋ねるであろうところの問題にたいする、すでに出来上がっている解答を記憶することのためのものである。いっぽう、真の、反省的な注意は、つねに判断・推理・熟慮をふくんでいる。すなわちそれは子どもが自分自身の問題をもっており、その問題を解決するための関係材料を探求し選択することに能動的に従事し、その材料の意義と関係を―すなわちその問題が要求するような解決の道を考察することを意味する。問題は自分自身のものなのである。(p.180)
もし歴史教授の目的が、子どもをして社会生活の価値を評価し、人間相互間の有効な協同を助ける諸力、およびこれをさまたげる諸力を想像をとおして看取し、社会生活を助長させるところの、またはこれを阻止するところの事物の種々なる性質を理解することを得させることであるならば、歴史を提示するばあいの最も本質的なことがらはその提示を運動的・力動的たらしめることである。歴史は、結果或は影響の集積、すなわち生起したことのたんなる叙述としてではなくて、力にあふれた、活動しつつあるものとして提示されねばならぬ。歴史を学習するということは、知識を蒐集するということではなくて、いかに、そしてなぜ人間はかくかくのことを為したか、いかに、そしてなぜかれらはその成功をかちえたか、或はその失敗をまねくにいたったかについての躍如たる画像を構成するために知識を使用するということである。(p.184)
投稿元:
レビューを見る
ぃやー、何より論旨が明快で分かりやすく、スピーチの収録だけあって口語で理解も容易なので、☆4つにしてみました。
なんか、古い人だけど、今にも普通に通じること言ってる。それがなんか新しかった。
確かに、今やっていることっていうのは、必ずしも新奇なことばかりではなくて、あくまで、当時は先進的だったかもしれない考え方ももとにしながら、一部はいつの間にか当然の考え方になりながら、やってきてるんだものなぁ、と、なんとなく再認識。
というか、やはり、物事、最近はもうどんどん細分化されていて、それがゆえに、細かい目先のことに囚われがちだけれども、実はこういう「哲学」みたいなものを理解していると後の全ての理解が早いし、分かりやすい、また、物事の軸になるから良いなぁと改めてこれも思いました。
最近、実験系の単発の情報ばっかり読んでたから。
さて、言いたいことは。
つまりまとめると・・・
子どもたちは社会的見地から教育されるべきであり、その担い手が学校。学校は、読み書き、算だけのためにあるわけではない。真の児童中心主義を考え、子どもたちが学習の中で「経験」しながら学べるようにすることが必要。彼らの興味が向く方向に自発的に探求させる、考えさせると、真の知恵がつく。学校はそのための環境を整える。実験室思想。
そして、社会と学校はつながりを持つべきであるし、学科同士は「これは~のため」というように明確に区切られるべきでもない。
道具主義
(すべての観念は行動のための道具であり、思考は人間と環境との相互作用、環境を統制する努力の中から生まれ、かつ進化するとする説。→頭のなかの哲学ではなく、実際生活上の問題解決を目指すための哲学を目指した=common manの哲学)。
投稿元:
レビューを見る
「進化論という観念の影響をうけて、精神は個人的な、独占的な所有物ではなくて、人類の努力と思想の所産を代表するものであるという考え、…」(p.117)
メンデルの法則は基本的性質は代々伝えられると言い、進化論は環境によって変化すると言い、生物学者が「遺伝子」について色々と悩んでいた頃?ピアジェとヴィゴツキーが登場する前夜.電子が見つかり,量子力学が生み出されつつある瞬間.そして一次大戦に突入してゆく空気.
人類が世界の見方を変えるのは,様々な分野で相互作用し,ほぼ同時にやって来る
投稿元:
レビューを見る
図書館で借りた本。
問題解決型教育の原点を知りたくて読んだ。
モンテッソーリとかも同じ方向を向いていると思う。
教育を、カリキュラムとして生活とかけ離れたものにせず、日常生活から発生する色々なことを通して行うべきとするもの。
日常から学ぶことは多い。
でも、問題解決型教育としてとりくんだ数学の実践では、デューイが主張しているような生徒の姿は見られない。
やっぱり、単一教科で行うのはムリなんじゃない?と思う。
文科省から提示された指導要領もかなり無視することになるし。
中学校数学でやるんだったら、学力テストの範囲が〜とかってなるし。
切り取って一部で行うものじゃなく、やるんだったら学校全体・教科全体として取り組まなきゃいけないと思う。
向いている方向はわかるけど、一公務員としての私が切り取って実践するのは難しいなぁ。
でも、生徒の必然性に寄り添う感覚はちょっとわかった。