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p38
空白の意味
白は時に「空白」を意味する。色彩の不在としての白の概念は、そのまま不在性そのものの象徴へと発展する。しかしこの空白は、「無」や「エネルギーの不在」ではなく、むしろ未来に充実した中身が満たされるべき「機前の可能性」として示される場合が多く、そのような白の運用はコミュニケーションに強い力を生み出す。空っぽの器には何も入っていないが、これを無価値と見ず、何かが入る「予兆」と見立てる創造性がエンプティネスに力を与える。このような「空白」あるいは「エンプティネス」のコミュニケーションにおける力と、白は強く結びついている。
p41
満ちる可能性としての空白
何もないということは、何かを受け入れることで満たされる可能性を持つということである。空っぽの器を負の意味に取らず、むしろ満ちるべき潜在力と見るところに、コミュニケーションの力学が動き出す。日本の神道は自然の中に八百万の神を見立てる宗教であるが、別の見方をすると、それはどこからでも神を招き入れ、イメージの力を運用するコミュニケーションの技術でもある。
p42
代(しろ)=「空白を抱く」という基本原理からなる。
p43
こうして「代」は神が訪れ入り込む可能性の「寄り代」としてしつらえられ、四つの柱に注連縄の張られた空(うつ)なる空間が生まれた。漂白する神「客神(まれびと)」が飛来し宿る「かもしれない」という可能性に手を合わせ、意識を集中させる営み、すなわち神道という日本古来の宗教は、こうして始まったのである。
p49
日本人のコミュニケーションは分かりづらいと批判されることがある(中略)主体をはっきりさせなかったり、責任者を特定できなくしたり、言わずもがなでことをすませることは、暗黙裏の合意形成のシステムである。そのようなコンセンサスが自然と共有される事態は、錬度の高い集団的コミュニケーションの結果であり、それ自体は優れた伝達技術であると考えた方が自然である。今日のように、インターネットを介した膨大な集団コミュニケーションが動き出している状況においては、むしろこのような合意形成の手法が精密に読み直され、研究される必要があるだろう。(中略)ずるがしこい政治家がこの仕組みを悪用して責任を回避する構図が時にクローズアップされるので、このコミュニケーションの仕組みそのものがいかがわしく見えてしまう傾向があるが、本質はそうではない。
p59
茶室が簡素であるのには理由がある。そこが空白であることによって、最小限のしつらいで、大きなイメージをそこに呼び入れることができるのだ。(中略)一見みすぼらしい素の空間である茶室は、具象的な演出がないだけに、自在にどんなイマジネーションをも受け入れることができる。
p63
発想は空白に宿る
空白がそこに存在することで、それを補完しようと頭脳が運動する。そこにコミュニケーションや思考が発生するのである。さらに言えば、「考える」あるいは、発想するという脳の営みそのものも
、「思う」という能動性によってゼロから構築的に作られるのではなく、「問い」に無意識に反応することで成立するのではないかと僕は考えている。「我思う」の前に、目に見えない「問い」を置く。問いとは脳の中に何らかの拍子に生まれる空白である。(中略)脳は、差し出された小さな空の器に、反射的に「答」を入れるという傾向を持っている。思考や発想は、「空白の器」が媒介しているのである。
p66
空白やエンプティネスの運用には、やはり修練と経験が不可欠である。シンプル・単純ではなく、機能する空白を使わなくてはいけない。自在なイマジネーションを招き入れる潜在力そのものが意のままにプランニングできれば完璧だ。
独創性とはエンプティネスの覚醒力、すなわち問いの質のことである。独創的な問いこそが「表現」と呼ぶにふさわしく、そこに限定された答は必要ない。それは既に無数の答を蔵しているのであるから。
p71
p73
p74
p75
p78
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それは光の白でもあり、余白の白でもあり、なにものかが意識の中に立ち上がるのを待つ清浄の白さであったりもする。
古来、青銅器や縄文土器などの装飾の稠密性に力を見いだした、優れた技の披露から一転、慈照寺銀閣寺の書院、同仁斎にみられる最小限の空間。そこが空白であることで、より大きなイメージを呼ぶことが出来る。
侘び茶の茶室、水盤に桜の花びらがぽつんと浮いている。満開の桜の下かと、ふと思う。そこに桜の木はないけれど。
手入れの行きとどき緻密に制御された空間を通って向かう緊張感は、どんなちいさな変化も見逃さず、五感は研ぎすまされる。
新しさを生むことではなく維持する日本の美意識。「自然と人間の営みのどちらともつかない領域に、おのずと生まれてくる造形の波打ちぎわ」を聞かせてくれる一冊。MUJIなどのアートディレクターをつとめた原 研哉氏の、繊細で正確な「白の深さ」を聞く。
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「白」=empty。 「空」だから何か(神さえも)入るかもしれないという可能性を感じさせる...その「かもしれない」という潜在的な可能性に手を合わせるのが神道の信仰心である。 日本人にとっては「なにもない」ことをポジティブに捉えることは自然なのだが、西洋人、インド人と仕事をしてみるとそこは理解しずらいようだ。その違いが面白いのだが。
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書かれていることは興味深く、普段自分がうつらうつら思うとことと共鳴する部分も多々あり、間違いなく自分向きの本であると思ったりするのであるけれど、なぜだろう、どきどき、あるいはわくわくするような高揚感がない。
優等生に対する謂れのない反抗みたいな黒い感情がふつふつとわいて来る。その気持ちを抑えなければ、書いてあることを頭の中で冷静に整理しきれない、そんな苦しい読書となった本書。
10年位前、ペンローズのEmperor's New Mindに恋していた頃、茂木健一郎という面白い人がケンブリッジに居ることを知って、八重洲の専門書のコーナーで著書を漁ったことを思い出した。クオリアという考え方が新鮮で、必死に彼が何を言おうとしているのかを理解しようとした。でも今何故かNHKで見る茂木健一郎を素直に受け止めることができない。この本を読みながら感じる抵抗感は、その感覚にとても似ているように思う。
白は図ではなく地としての存在意義を持つ、結局この本が言っているのは、終始そのことである。でもそれってそんなに目新しいことなの? そんなことより、養老先生が言う、色即是空、の色と空の対象関係、すなわち、色とは物質であり、空とは場である、あるいは、色とは脳であり、空とは身体である、という文脈の中で「地」である白を語る平原へ進みだすべきだったのじゃないかなあ。つまり、地だけを語ることは不可能で、それは常に図と一体となったものである筈だと思うのだ。
もちろん、各章は、白を、空を、引き出すために、図についても言及されている。でも余りに地に着目するという観点に固執してしまっては居ないだろうか。
例えば、さまざまな空間という本の中で、著者は、空間を表すために空間を埋め得るものについて執拗に言及を重ねる。そして、その挙句残る余韻のようなものとして、空間が引き算の答えのように導き出されて、印象強く残される。
何かが余りに強く主張されるとき、人は裏に何があるんだろうかという疑念を抱きがちだと思うのだが、白が地としての重要さを持つということが繰り返し主張されると、その裏にあるものが、ほら、だからこの本の作りを良く見てね(確かに、この本で使われている紙の白さは圧倒的といえる)、ということが言いたいのかな、という意地悪な気持ちになる。
言っていることは解るんですよ、一応。理解できるし、どちらかというと好みの考え方なんです。でも、何故か素直によめなかったな、という印象が残るのです。
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現代版「陰影礼賛/谷崎 潤一郎」
日本の心が陰影にあるなら、それに相反した極点である「白」にもある。「白」という色ではなく、「白い」という感受性についての論考。半分は英訳だけど、それを補う濃さだからいいと思う。
「空白/エンプティネス」の章はかなり勉強になった。日の丸や神社の屋代等を引き合いにだしての解説は豪快にうなづいてしまう。デザインを白という切り口で切った教科書のよう。
話の道中、白から紙になってそこから印刷、文字になっていくのは、道草かと。チクリ
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東大の試験問題で取り上げられたのがきっかけで読んだものだが、とてもいい文章に出会えた。
忘れてはいけない日本人としての誇り、美しさってこういうこと。私が生きていくうえで漠然と大切にしていることをうまく文章にしてくれた感じ。
専門的な話も出てくるので前述の問題部分だけでも読んでみるといいかも。
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文章の量自体は多くないけれど、とても濃厚で深みのある内容です。読む度に新しい発見がありそうなので、何年かしたら再読すると思います。
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「しろし」は何もないの意味や神社の解説がすばらしかった。この人デザインの人なのに、すごく深い考えを持っているんだなぁー。
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ー白があるのではない。白いと感じる感受性があるのだー
「白」に意識を通わせることで世界のコントラストが
細分化するとともに、日本の文化の底辺に静かにしみ込んでいる
「陰」の感覚に繊細になることが出来る。
この本を読んだ後、眼に映る世界は、輝きと翳りを深めます。
名著です。
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こんな視点は持ったことがなかった、というものがたくさん。わたしはいつも世界に期待していたい。わたしの知らないものやこと、考え方がまだまだたくさんある、世界の本当に素晴らしい部分をこれからまだまだ見つけていける、と思うこと。それは生きるうえで大切なことだと思う。印刷メディアだけではない、紙。ひとの想像力を刺激する白。神が宿るかもしれない可能性としての屋代。自然と人為のせめぎ合いとしての清掃。わくわくする。
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明治、大正、昭和にかけての作家は、言葉が流れるようにきれいですいすい読める作品。「いのちの初夜」は、らい病に発病した主人公が、外見が醜くなっても生きている重症患者を見て、「命」の大切さ、生きる覚悟の描写が書かれている。
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「白」を中心に据えて、筆者が考える日本の美意識などを述べた本。様々な方向へ話が展開するのはとても発想が面白いと思うが、話の展開が深まらず、キーワードを述べた程度で集結してしまうので、少し不満を感じた。筆者の日本古来の美意識への礼賛がしつこいと感じてしまった。少ない根拠で暴走しているような印象を持ってしまった。
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的確な比喩
力強くユーモラスな文章
新しい理解
高密度な文脈
何度読んでも新しい発見と共感と感動が得られる本。
そしてデザインと日本文化、或は世界史が
いかに白と綿密に関わって白と共に発展を
遂げてきたか。が解る一冊。
この本を手にする度に原研哉さんという人は
本当に頭の良い人なんだと感心してしまいます。
軽く嫉妬の念さえ浮かぶほどに。
自分の未熟さをこうもありありと見せつけられてしまうと、
やる気を無くすどころか逆に気持ちよく
背筋を正し新たに学べるというものです。笑
中学校や高校の先生がこの人だったら、
きっとぼくはもっと早い段階で勉学に目覚めて
いたかもしれません。あくまで結果論ですけど。
少なくとも20年後ではなく
今現段階で出会えていることに
最大限の感謝を表したい次第です。
この本を読んだらきっとあらゆる
「白」と出会えることでしょう。
ほんとうにあらゆる白と。
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美しい本だと思った。装丁や、ページの余白、そして中程に収録されている写真。グラフィックデザイナーである著者自身が自ら作ったという本ならば、それは当然なのかもしれない。
そして、言葉も美しい。冒頭の『白があるのではない。白いと感じる感受性があるのだ。』という文からすでに引き込まれ、一気に読んだ。
白という色は特殊な色であると著者は言う。「色の不在」を表現している点で特異だと言う。そして、紙の白さによって人々は表現したい欲求を触発されている。そういう意味では不思議な魅力のある色とも言える。
白は時に「空白」を示すこともある。日本人は特にこの空白に美しさを見いだし、可能性を見いだしていると著者は言う。日本画の中に残された余白に、私たちは緊張感やその絵の奥行きを見る。そして、空白はそこに何かが満たされる予兆であり、その空白に神が宿るとして信仰をしている。なるほどと思った。
本文は80ページほどで、本の後半部分には本文を英訳したものが収録されている。日本人が白という色とどう関わってきたのかを書いているものなので、外国の方が読めば日本の文化について知れると思う。
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装丁がやはり素晴らしい。印象に残る言い回しで、美しいと思うところもあった。ただ、書かれていることは一般論をつなげていったという印象で、歴史とか認識に多様性や膨らみを感じなかった。