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自分には早かったかも。
意図的にそうしているのかもしれないが、使っている言葉が難しいのと、文章が回りくどく、何を言おうとしているのかがいちいち分かりづらい。
また、本やアニメ、小説など、非常に多岐に渡るジャンルの作品から時代背景を読み解くといった議論が多く、たまに「おっ」と思うような主張はあるのだけれども、全体としては大変雑多な印象で、全体の論理展開が分かりづらく、常に道に迷っているような感じだった。
5章の途中くらいまでは読んだが、こんな嫌々読んでいても残るものは少ないだろうな、という思いに勝てず、投げてしまった。
戦後を理想→虚構の時代とに分けて、それぞれの時代の作品等を通して、社会や人間心理の変化を読み取るというアプローチは好きだった。
戦後、日本人の心理に混乱が起きなかったのは、天皇の位置にアメリカが綺麗に収まったからで、そこから理想の時代が始まり、アメリカの権威の衰退とともに人々が絶対的な指標を失い、虚構の時代に入ったというところまでは結構面白かったが、その後のオタク論辺りから、急激にどこを目指しているのか分からなくなる気がした。
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オビの文句「なぜこんなにも息苦しいのか?」と「不可能性の時代」というタイトル。これらにある種の救いを得ようと本書を手に取る人も多いのではないかと思う。しかし個人的には、「理想の時代」、「虚構の時代」そして「不可能性の時代」という戦後を3期に区分する発想と、その画期としての1970、1995という年を想定することに、「なんとなく」「あいまいに」うなずかされる以上に、得られるものはなかった。そもそも時代を象徴する事件の特殊性にその時代の空気を見出そうとする発想は、それ自体あまりにも陳腐であり、気鋭の社会学者たるもの、その手法の有効性を疑うところから出発べきではないのだろうか、という疑問もつきまとう。何故「オウム真理教」ごときに時代を区切られなければならないのか?という問いに対して、まず「オウム」が鏡のように照らし出す「オウム」以外の日本を掬いとる態度を確立すべきなのであって、いまさらにオウムの省庁構成やホーリーネームの意味を云々する発想にはそれこそ可能性を見出すことは出来ないと感じた。良く出来たお勉強の成果、とは認めるが、それ以上でも以下でもない。
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アメリカに管理され、高度経済成長を理想の時代から
凶悪な犯罪事件などに代表される虚構の時代を経て、
不可能性の時代に突入した今。
不可能性の時代とは、「現実への回帰」と「虚構への耽溺」という、
2つのベクトルを持つ時代という。
政治の世界でいえば、
「現実への回帰」は原理主義
「虚構への耽溺」は多文化主義
に対応する。
また、この時代は神のような
『第三者の審級』(全能者みたいなもの?)がいない。
そのため自己責任で意思決定をしていかなくてはいけない。
最後に市民参加型の民主主義は
小さい社会集団の中でしか機能しないことに対して、
『6次の隔たり』、『ランダムな線』で解決の糸口を見つけようとしている。
その根拠に著者の知り合いである中村氏、河野氏を紹介している。
正直、時代を語るのに、エポックメイキングだからって
オタクとか宗教団体を引き合いに出されても、世界が狭すぎて
その時代、社会を本当に言い表していると思えなかった。
最後の結びも性急で市民型民主主義に不可能性の時代の突破口を
見出そうというのは理解できるが、それが現実に根付いていないのに
著者の知人を二人紹介されただけでは、納得できない。
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人間の一つの精神的活動の出発点であり終着点でもある〈現実〉へのコミットが不可能である現代において、どのようにして不可能性に挑み、その〈現実〉へと至る道を獲得するか。
最終的には、イコール憎しみとなる愛、信仰の徹底による無神論を解決とする。けど、私たちは、そうした情動の極限に耐えうるのか。不可能性の不安に立ち向かう術として私たちはその〈分裂〉を経験しなければならないのだとすれば、もう〈現実〉などいらないのではないか。
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図書館より
理論としてはどれも面白かったです。戦後の復興期を「現実と理想の時代」高度経済成長期の頃を「現実と夢の時代」それ以降のオウム事件の頃までを「現実と虚構の時代」と区分しそれぞれの時代における社会思想を読み解きつつ、虚構の時代以降はどんな時代が訪れるのか、という論の展開になっています。
人に見られることを嫌悪しつつもどこか期待している、という話や自分と似た他者との交流を望んでいるという話が自分にも当てはまっているような気がしました。特にブクログでの自己開示や談話室やコメントの交流などはまさにそのまま当てはまっています。あんまり対面では本の話はしないのですが……
結の部分が少し物足りなかったかな。結局言いたいことはそれなの? という感じが無きにしもあらずでした。
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全体として非常に勉強になったんですけれども、まあオタク当事者として頂けない記述が散見されましたね。笑 あとは結論。これほどまでに不可能性の時代を捉えておきながら、ほとんど現実味を感じられない希望を述べて終わるのは、どうなんでしょうか。倫理が不可能であることを直視した先にある倫理というものをわたしは見たいんですが。第三者の審級、真幸が常に言うことですが、オタク論とも関係して(類似性を基礎にしないコミュニケーションって?っていう)、自己と他者と超越者の関係についてもっと突き詰めて考えていくことが、倫理や理性の話にも、コミュニケーションの在り方の話にもつながるのかなあと。そのへんを自分なりに追求しようとおもいました。
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大澤「先輩」の書.
随分昔に読んだので詳細は覚えていないのだが,今の自分の思想の根本にはこの本があるといっても過言ではない.
今生きる時代を考えるのには不可欠の書であるといえる.
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社会学も哲学も専門外の身としては全体の論旨の展開がやや難解だった。
とくに、結びの部分への展開が読めなかったが、諸所に織り込まれる例によって最後まで読み通すことができた。
隅々まで理解できているとは思えないので、また読み返したい。
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戦後という時代を「理想の時代」「虚構の時代」「不可能性の時代」の3つに区分し、それぞれの時代における「第三の審級」のあり方について考察しています。
オウム真理教事件やオタク文化が現代の日本社会のある側面を示していることは間違いないとしても、それらに焦点化する形で戦後日本社会の総体を把握することができるのか、という疑問はもっともだと思います。ただ本書は、戦後日本社会を包括する試みではなく、見田宗介の『現代社会の理論』や『社会学入門』(ともに岩波新書)から、オウム真理教事件を中心に現代社会を論じた著者の『虚構の時代の果て』(ちくま学芸文庫)への展開を改めてたどりなおし、同時に『虚構の時代の果て』から東浩紀の『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)への展開に対する応答の試みとして理解するべきだと思われます。
個別の議論では興味深いところも多くあるのですが、本書の議論の背景をなしている理論的な枠組みは、第三の審級をたえず繰り込んでいく資本主義の運動に対する否定神学的な解決なので、既視感は否めないように思います。
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2008年刊。著者は京都大学大学院人間・環境学研究科教授。◆理想(45~60)→夢(60~75)→虚構(75~90)という戦後時代変遷に関する見田宗介の分析を肯定的に継承し、地下鉄サリン事件(95)が虚構時代の終焉を顕わにしたとしつつ、以降を「不可能性の時代」と見て、90年代~の時代相を解読する。◆相当面白いが、幾許かの疑問も。◆社会構成者の一部で、購読層・愛好者も限定されるサブカルチャー。これへの批評を社会批評につなげられるか、社会全体への評に拡散できるか。この種の議論の根本的疑問は解消されず。
◇持って回った言い方だが、現代政治思想は、実は先祖返りに過ぎないとの疑念。◇リスクに関し、マイナス面を地球が負担するのか(温室効果ガス・核廃棄物)、社会が負担するのか(大気汚染等の公害)、地域が負担するのか(嘉手納爆音問題)、個人が負担するのか(交通事故)による差があるのに、リスクを選択・決定のみに相関させる立場(著者が引用し前提とするルーマン)の持つ甘い分析への配慮がない。モータリゼーションは社会選択の帰結だが、そのリスクの及ぶ歩行者の選択下にはない。社会選択と個人選択を混同したままの議論。
◇表現の自由と名誉権との対立に同値の問題提起(241頁)につき、対立止揚の手法(害悪の具体的分析を通じて、場合に応じて優劣決定)において、本書は余りにも大鉈過ぎな論。◇グローバル資本主義の志向はルール一元化、多元的文化主義とは非整合的。が、これを整合的とする本書の説明(225頁)が意味不明。◇監視社会の容認を「見られることへの欲望」に依拠する本書。が、監視によるメリット享受(安全・簡便な情報取得等)+監視に伴う害悪の不可視化や監視者自体の透明化・不可視化に帰着なだけ(ストーカーの監視は欲しない)。
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同著者『虚構の時代の果て』とセットで読むのがいいと思う。『虚構の時代の果て』でまず筆者の言わんとする「虚構」の概念、枠組みを捉えた上で、「虚構」がどのようにして「不可能」へとすり替わる・移行するのか、その過程に目を向けた本『不可能性の時代』であるという印象。
実例として取り上げられているのが子供時代のわたしにも強く印象に残った(かつ多くの人も覚えているであろう)かつての少年犯罪の数々なので、理解しやすい。時代の変遷に伴い、少年犯罪の加害者の心理、動機が全く反転しているという指摘が面白かった。
「オタク」をめぐる様々な概念についても、オタクの社会の捉え方、他者との関わり方等々、言われてみれば思い当たるようなふしも多いし、自分が感じていたことや違和感を平易に言語化してもらえたようで、頭がすっきりした。
この本が出版されたのはちょうど10年前の2008年。今でも「不可能性の時代」が続いているのか、また別のフェーズに来ているのか、「今」がどんな時代である(あった)かというのはやっぱり10年くらいは待たないと解説できないものなのかな。「振り返る」形でしか社会学は機能しないものなのかと思えば限界を見るようでさみしいし、でもそれもそうだよなとも思う。難しい。
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戦後から現在までを社会学的に丹念に分析したのち、現代の閉塞を突破する門を見出す。新書レベルでは中々お目にかかれない密度の高さ
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『社会学史』があまりに面白かったので、大澤さんの別の著作にも手を出してみた。
戦後日本を、理想の時代→虚構の時代→不可能性の時代、と遷移してきたと論じる。『虚構の時代の果て』で、オウム真理教事件を分析して、その時代の限界と終焉を論じた著作を継いで社会学的に現代を分析したものだという。
著者は、二つの少年犯罪を異なる時代の背景を反映したものとして、大きく取り上げる。一つが、永山則夫であり、もう一つが少年Aとして知られる神戸連続児童殺傷事件である。二つの少年事件の対照性を語り、時代の変遷を語る。この二つの少年殺人事件の類似と相違点が理想の時代と虚構の時代を分ける鍵となると結論づけるのである。
そして、宮崎勤による殺人事件を語り、オウム真理教の地下鉄サリン事件を虚構の時代の終わりと位置付ける。東氏や北田氏を引きながら、オタク文化や2ちゃんねるなどのアングラ文化を語り、美少女ゲームなどにも触れる。
しかしながらオタクについて「オタクという現象には、さまざまな逆説と謎が詰まっている。本章は、そうした謎を解いたわけではない。まずは、謎を謎として提起したのである」とすることで済ましてしまうのである。
そこに村上春樹の『羊をめぐる冒険』などを放り込んでくる。
「軽さ」、決して良い意味での軽さではない「軽さ」が前に出ている。
時代の考証を、神戸やオウム、宮崎勤などの個の事件によって語るやり方が自分が思う社会学的な姿勢ではないように思う。フーコーはそうではなかったし、本書で時代考証の素晴らしい実例として引かれたジョン・ダワーのやり方とも異なっている。
『社会学史』を読んで高まった期待に沿うものではなかった。残念。
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『社会学史』(大澤真幸)のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4062884496
『敗北を抱きしめて(上・下)』(ジョン・ダワー)のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4000244205
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4000244213
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「現実」に逃避しているとして挙げられる「現実」の例が、リスカ、リアリティショー、アニメオタク。作者は一体どんな環境に日頃身を置いてるのか。Twitter?馴染みのない身からすれば、せめて全人口の何割がそれぞれにハマっているのか数字が出されてると分かりやすかったと思う。
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読み進めてくうちに今の時代の感覚に近づいてきてる感ありました。すべて理解できたわけではないのでまたちょくちょく読み返したいです。