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活憲の時代 コスタリカから9条へ みんなのレビュー

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紙の本

人は誰でも愛される権利がある

2008/07/31 19:37

11人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:未来自由 - この投稿者のレビュー一覧を見る

本書は、世界中を歩き、世界の人々との交流を積み重ねてきた著者の実体験から「憲法を活かす」世界の人々の姿を語った講演集である。
 大統領を憲法違反で訴えたコスタリカの大学生の話は以前に聞いたことはあるが、2004年9月に「勝った」という話は日本との違いを見せつけられた。コスタリカの大統領がアメリカのイラク戦争に「賛成」と言ったことに対し、大学生が訴え、裁判に勝ち、大統領は謝罪して撤回したというから、憲法がどれだけの力を持っているのかがうかがえる。
 コスタリカでは、小学生でも憲法違反の訴訟ができるという。「もしもし、憲法違反ですよ」と電話一本で訴訟ができる仕組みが整っているという。日本とは大違いだ。コスタリカでは、小学校に入学して子どもたちが最初に習う言葉は「人はだれでも愛される権利がある」で、基本的人権をしっかりと教えられ身につけている。
 憲法とは本来そうでなければならない。本書にはそんな具体例がいくつも紹介されている。

 本書には他にも、カナリア諸島にある「九条の碑」「ヒロシマ・ナガサキ広場」の話、アメリカでの憲法守る闘いなど世界の憲法活かす取り組みが紹介されている。
 「世界の人々は、憲法を盾にたたかっている。憲法で一つでも使えるものがあれば、それをもってたたかっている。私たちの憲法は、9条だけでなく人権も、ほかにもいっぱいいいものがあるのに、使っていない。世界の人々はひどい政治状況の中でも民主化のために、少しでもいい社会になれるように、憲法を使っているのです」
 こんな著者の熱い思いが語られている。

 憲法を日々の暮らしに活かすことが今日ほど求められている時はない。『蟹工船』ブームも、若者たちの生き難い現実に対する行動からますます広がっている。
 人権と平和、いまこの本来の役割実現に、憲法を活かす運動を広げることがますます重要だ。ぜひ読んで欲しい一冊だ。

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紙の本

思慮浅薄のそしり

2008/08/13 03:03

13人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:佐伯洋一 - この投稿者のレビュー一覧を見る

憲法を活かすというのは、要するに憲法訴訟をたくさん起こせという一言に尽きる。本書では、8歳の少年が原告となって憲法訴訟を起こしたコスタリカの例が載っている。
 賢明なる方にはお分かりだと思うが、もしも日本のような人口大国で憲法訴訟が頻発したら司法は機能停止する。それどころか、莫大な国家予算を計上しなければなるまい。大体、年端もいかぬ8歳のガキが偉そうに憲法訴訟を起こすなど、バカも休み休み言えとしか思えない。逆にいえば、それほど大人はだらしないのか。8歳といったら、小学校入ったばかりの子供である。
 それよりも、イラク戦争に反対賛成といった行政府の政治判断という抽象的判断にまで違憲訴訟を提起できる法律システムに興味がわいた。日本では無論無理である。訴訟というのはあくまで主観訴訟が中心であり、客観訴訟は住民訴訟などに限られているのが普通である。
 もし、日本でこれをやりたいなら、まず憲法76条を改正しなければならない。そして、憲法裁判所をべつに設けないと無理であろう。なんで、こういうシステムになっているかといえば、自分自身の利益に関係ない政治判断にまでいちいち訴訟を認めていては、左翼がいまでもくだらぬ訴訟を起こしているというのに、おそらく国家は機能しなくなる。そういうことがあるから、成熟した国家では主観訴訟が中心なんだろう。もっとも、客観訴訟が可能な国もあるのだが、種種の制限は付されている。 
 考えてみれば、成田空港関係の訴訟で訴訟と呼ぶのも憚られるような馬鹿どもと、特に自衛隊関係の事件ではそういった抽象的な憲法違反の訴えがたくさん起きている。そして、そのなかでも自衛隊は合憲だし、日米安保も合憲という判断が下っており、もう判例は動かない。だから、いまさら抽象的違憲訴訟を認めたところで、実質的な意義は左翼にとってはないだろう。
 だって、イラク戦争云々のはなしも、憲法の条文どこをさがしても、違憲にはなりえないことは日本国憲法の解釈として間違いない。9条は戦争の放棄を訴えているだけで、内閣の判断を縛る効力を最高裁が認めることはあり得ない。司法は、3権分立のうちの一つに過ぎず、議院内閣制のもと行政の判断には一定の権威を認める。それがもともと議院内閣制として65条が予定していることである。
 たとえば、年金訴訟にしてみても、25条を活かすという意味では、いまでもそういう訴訟は起きており、ちゃんと成果は出ている。だから要するに8歳の少年が違憲訴訟を起こせるように改正したところで、おそらく実質的には日本の場合なにも変わらない。変わるのは、左翼による訴訟の乱発による国費増大である。
 ちなみに、最高裁は無難な判断しかしないので、法令違憲判決というのは尊属殺など数件しかない。しかも、法令違憲判断が下ってもそれで法律を改正したことにはならない。もしこれをみとめたらどうなるか。司法が、消極的立法府ということになってしまう。選挙を経ていない司法が法律を消したり書き換えたりできてしまうというのは、それこそ民主主義の崩壊である。そして、司法に民主主義を取り込めば、それこそ多数派が勝利する民主主義のなかで痛い目を見た少数派を救う最後の砦としての司法までが、多数派の味方となってしまい、これは絶対に許されない。
 要するに、法律論からも実質論からも、本書の活憲という主張は、新しいように見えるが実に古い話題であって、現代の整備された国家を運営するには不要だし国民の人権のためかえって有害であるというすでに克服された法律問題なのである。コスタリカはまだまだ小さい国にすぎないのだ。
 そして、憲法があったから戦争を止め得たのではない。それは、人の力である。そういう世論があるからこそ憲法もあったのであり(憲法は多数派が作る条文にすぎない。天から降ってくるものではない。)、大統領も言うことを聞くのである。なにか憲法に魔力があるような口ぶりが実に無思考で、人の力、民主主義(多数が国を動かす)というルールを軽視しているようで、誤解しているように聞こえる。
 政治で多数派が国を動かし、司法で少数派を救う。これこそが法治国家の原則であり、司法でっかちで民主主義が司法に負けるようでは結局人権は守れないし、国は政策実施が遅れ、やがて衰退して25条の理念も実施できなくなるのである。そして、このシステムを取ったのは、著者が活かそうとしているわが日本国憲法そのものだったのだ。著者はここまで思いを致してこういう論理を展開しているようには見えない。

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