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東浩紀に果敢に(無謀に?)挑戦しているあたりが熱い。
古い想像力と現代の想像力を説得的に腑分けしようという試みが、それなりに成功しているのではないかと思う。
少なくとも、古い想像力の整理は十分に役に立つ。
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要約すれば、90年代の自閉的精神から飛び出して、他者との摩擦を怖れずコミュニケーションしてゼロ年代をサヴァイブせよ、っていうことでいいのでしょうか。
東浩紀『動物化するポストモダン』を初めて読んだとき、自分の漠然と感じていたことをすっきりと言葉にしていて衝撃を受けましたが、本作はそれ以来の衝撃かもしれません。
突っ込めばどこかに穴があるのでしょうが、東が男性オタク周辺(ある意味世間の常識からは遠い人々)の現象を中心にしていたのに対し、宇野は非常にポピュラーなメディアなど(普通のテレビドラマ)にまで言及しています。
ああ、そんなところまで視野に含めてしまって良かったのか! むしろ、そういう地点からこそ現代が見つめやすいかもしれない! とまあ、個人的には目からウロコ。
それでも☆4つなのは著者に対する期待を込めての意で。
それはともかく、こんな批評が『ファウスト』ではなく『SFマガジン』から出てきたっていうのが最も大きな変化ではないでしょうか? (円城塔とか含め)
塩の人が凄すぎるって言うのはわかりきったこととはいえ。
ゼロ年代はSFブーム再来?
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素晴らしいっス。
エンゲージメントを掲げてる方々には、マストな一冊かと。
時代の流れとか、共感されるコンテンツのあり方とかを、考えさせられます。
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「碇シンジでは夜神月は止められない」というところから展開していく主張。
エヴァとかジャンプとかクドカンのドラマとかを通して現代社会を分析した評論。
サブカル批評に留まらず、大きな視点で社会を見てて、色々考えさせられた。
90年代と、2000年代。変わったところもあるけど、連続している。
まさにじぶんが生きた/生きている時代。傍観者じゃなくて、当事者だという意識を
もつべきなんだろうなと思った。そういう年齢になったんだな。
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2008年のベストかもしれん。
新教養主義の章が一番好きで、こんな世の中でも子供産んでも良いかもって思えた。
いろんな人に勧めたが、あまり反応無かったのが残念。
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『DEATH NOTE』、『恋空』、『ALWAYS 三丁目の夕日』、宮藤官九郎、よしながふみ、平成仮面ライダーシリーズ……格差・郊外・ナショナリズム、激震するゼロ年代に生まれた物語たちの想像力は何を描き、生み出してきたのか。時代を更新するサブ・カルチャー批評の決定版。
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SFマガジン連載時より興味深く読んだ。独断であったり、ぎこちなかったりしても、批評しようという又は批評せずにはいられないという決断に至り、再考する機会を持とうとする宇野っちの思想が私は好きだ。
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久しぶりに読み返してみた。
本当にこの本は、歴史というものに頓着なく書かれている。べつにここまで限定しなくてもいいんじゃないか、というくらいに、1995年以後の時代に純朴なまでに限定して語っている。五十嵐太郎がどこかで「ここまで世代間の隔絶を感じさせる批評はない」と言っていたが、それはこのことによるだろう。
そんなに大それた歴史参照は、学術ではなく批評なのだから必要条件ではない。でも、たとえば母性について語るならば 河合隼雄の『母性社会日本の病理』、たとえば成熟について語るならば江藤淳の『成熟と喪失』。このように少なくとも戦後日本の歴史くらいまでは、簡単に遡って(参照して)叙述できたはずだ。
それがないから、1995年以後のサブカルの知識に乏しい人間は、ただその知識が乏しいというだけで、あるいはそれに興味がうすいというだけで、著者の論についていけなくなってしまう。読者を限定してしまうことはそれだけで批評としてよろしくないことである。全編、著者は、読者を東浩紀のみに想定しているんじゃないかしらという印象すらおぼえる。
また、著者の「歴史への頓着のなさ」はこの本にある種の「くどさ」を生んでしまっている。1995年以後のサブカルに限定された内容じたいは、めちゃくちゃに濃いことは間違いない。しかし読んでいて、すこし飽きるというか違和感を覚える箇所が少なくない。
ひとつには、歴史には触れないにもかかわらず「国民国家」とか「マルクス主義」とか「大きな物語うんぬん」とか、へんに大文字の言葉を使っていることがあげられる。文章全体が排他的であるから、これらの言葉はまったくリアリティを感じさせない。著者はこれらの言葉で「一般性」「普遍性」を帯びさせようと意図しているのだろうが、まったく記号的な言葉遣いである。
よって300頁を超える長編であるのに、まったく論は深みを増してこないし、ネタをとっかえひっかえしての堂々巡りとなってしまっている。もう少しだけ視野を広げられれば印象は大分ちがうと思うのだけれど。まぁでも、映画・テレビドラマ・小説・漫画などの表現物をすべて「時代の空気」の表出あるいは帰結としてしか論じないあたりは、そもそも限界があるのかもしれない。
味は濃いけど深みはない。まるで千屋のラーメンみたいだな!鈴木屋ではない。
(このようにあらかじめ読者を限定した書き方をすれば、共感できない人間は排除されるのだよ。横浜ローカルのいわゆる「家系」とよばれるラーメン屋のこと)
しかしやはり、暑苦しい本だなこれは。カバー裏の載っている著者の写真とか、生理的に受けつけないと思う人間が多数いるんじゃないかしら。これは蛇足。
それと、宇野は「あえて」の使い方を間違えているように思う。宇野の「あえて」は、「あえて(ベタに)」という意味で使われている。実際の文章中に「あえてベタに」と書かれていることもある。「あえて」はベタと並列に使えないでしょう。「あえて」はどちらかというとメタであり、宮台真司のように「あえて亜細亜主義」「あえて天皇主義」というように使うのが正しい。ベタとメタの間を全力で往復する精神をを示すときに使うべきである。
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たしかに、東浩紀を中心とした文化的影響力に飲み込まれすぎたために接触をせずにすましてしまった可能性の断片は多いに違いない。
「〜である」というキャラクターの承認ではなく、「〜する、〜した」という行為の積み重ねに、トライ&エラーを繰り返しながら、人との関係の履歴を大事する、小さな関係性を取り戻す必要はあるだろう。
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この本で
宇野常寛氏は次のように言っている。
「ひとつの時代とその不可避な潮流に対峙したとき,人々は『こんな世の中は間違っている』とすべてを否定して背を向けるか,『流れに乗ればいい』と身をまかせてしまうかという両極端な反応を取りやすい。
しかし,それは愚かな選択だ。」と。
「世界の『いい/悪い』を論じることにまったく意味はない。」と。
つまりは
現状を良い点と悪い点を把握し
長所を生かし,短所を逆手に取って克服することで状況を変化させていくしかない!!
ってことだーね。
弱点を逆手に取るってのが,冷静にならねば難しいのかなー。
そんな風に客観的に世の中を見てみようではないか。
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ゼロ年代はひきこもりから決断主義への移行。今は決断主義の臨界点。決断主義の限界=暴力、排除の論理。この限界の克服がゼロ年代末の現時点における課題。という感じに、東浩紀で止まってしまったゼロ年代の批評を批判的に再検討し、さらに現状から先への展望まで描いてみせる。かなり広い範囲から引用していながら、シンプルに構図を描いて、なるほどと思わせる。
一方で、決断主義の限界の克服の段になると、説得力に欠けてしまうのが残念。解決策は結局、仲間とか、日常の幸せ、という小さなところに落ち着いてしまう。それまでの、クールな分析に対して、ひどくなまぬるい。いろいろ分析してきた結果が結局それなの?と。
なんでなんだろうと考えてなんとなく感じたのは、著者自身が何かよりどころとなる確かなものを求めているという感じ。論理的にはポストモダン状況を不可避なものとしながら、心情としては確かなものを求めているんじゃないか。それは、強いお父さんであったり、優しいお母さんであったり、といった素朴なもののような気がする。頭が良いだけに、ポストモダン状況が不可避だってことは認めざるを得なくて、それ以前の大きな物語を肯定することはできない。でも、心の中ではそうでないところがあるから、そういうちぐはぐさが生じるんじゃないか。そのことについて著者自身がどこまで自覚しているかわわからない。
ただ、心情的な面を否定する必要はないと思う。問題なのは論理的にはポストモダン状況が不可避であるということと、確かなよりどころを求めるというちぐはぐさをどう乗り越えていくか、ということになるんじゃないか。そう思うんだけど、そのちぐはぐさが自覚されないまま放置されたままになっているのが少し残念。
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これはやばい、刺激的過ぎる。今知りたかったこと、なんとなく気づいてたけど言語化できなかったこと、俺自身の創作のヒントになることがいっぱい詰まってて、このままでは宇野史観に染まって「ゼロ年代は決断主義が~」「大きな物語が~」とか日常で言っちゃいそうなのであえてこの本の思想とは距離を置いておきたい。近づくと自分が揺らぐ。というわけで大満足の★5つで
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私には受け入れられなかったです、敷居が高すぎました。
色々な作品に自論を強引に関連付けて分析していますが、的確といえばそーなんですが無理ありすぎね、同年代の他作品はどうなのよ、ていうか長いよ。所々あーというのはあったけど分からない言葉多いし、正直疲れました。
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面白かった。
読んでてイラっとくるところは図星が7割、疑問・反論が3割ぐらい。
具体的な作品名をガンガン挙げてくるのは気持がよかった。読みやすいし。
ただ所々で、視野が狭くない? と思えるのが……見えてないんじゃなくて、あえて見てないんだろうけど。例えば滝本龍彦については「NHK〜」しか語ってないとことか。著者にとっては「ネガティブ〜」も「超人計画」も同じなのかな。
全体通してすげえ面白い道を通ったのに着地点はそこかよ、みたいな。
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私たちの生きる社会とそこから生まれる物語の想像力は何を描き、語ってきたのか
を大衆が享受してきた作品=それぞれの年代のマンガや小説、アニメ、ゲームといったサブカルを通して明らかにしていく一冊
サブカル批評で大きな発言力を持つ東浩紀に真っ向勝負を仕掛けたという点で
実に興味深いものに仕上がっている
・何故碇シンジでは夜神月を止められないのか?
・データベースの生む排除型社会とは何か?
・世界ではなく自分の心を変えることでやり過ごす「引きこもり/心理主義」から戦わなければ生き残れないという「サヴァイヴ系」への転換はどのように起こったのか?
・何故佐藤友哉・滝本竜彦・舞城王太郎といった「セカイ系」の流れを汲む作家達が
西尾維新に敗れてしまったのか
・高橋留美子が描く母性のディストピアとは何か?
こんなテーマに関心のある&文学に少しでも関心のある人には是非読んで欲しい
これらのサブカル作品群が何の前触れもなく流行を巻き起こすわけではない
新世紀エヴァンゲリオン(1995)→無限のリヴァイアス(1999)→バトルロワイヤル(1999)→リアル鬼ごっこ(2001)→デスノート(2003)→fate/stay night(2004)→コードギアス(2007)
一見ただの作品の羅列に過ぎないがこの背後に隠されている人々の考えや価値観の流動が社会を形成する一つの大きなパラダイム(シフト)となっている事は想像に難くない
それを解き明かしていこう 誰もが迷い・もがき続ける混沌と絶望が入り混じる世界の中で
そしてそんなセカイに対してそれを変えるだけの勇気を我らに与えたまえ
(by ラインホールド・ニーバー)