紙の本
待望のゼロ年代批評
2008/08/02 11:34
9人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:けんいち - この投稿者のレビュー一覧を見る
東浩紀以降、サブカルチャー領域のみならず、若い批評家の不在が続いた日本の論壇シーンに、ついに本書を掲げた宇野常寛さんが登場した! 宇野常寛さんの『SFマガジン』への連載評論は、開始当初から多くの話題を呼び、まとめて一書となることが待望されていたが、この夏、ついに『ゼロ年代の想像力』と題して、文字通り画期的な批評としてその全貌をあらわすこととなった。
本書は、自身の明確に述べているように、東浩紀批判としての側面を色濃く持つが、それは、単に東批判に留まるものではない。むしろ、東が現代文化を正しく認識し、批評できていないこと──つまりは「ゼロ年代の想像力」を正しく把握できていないことへの批判から出発する。つまりは、文字通り、併走する現代文化論たらんとして思考され、書かれている。(ただし、それは国内外の「政治」動向と無縁なものではありえないし、「ゼロ年代」という本書の時代把握自体にも、そのことは明らかだろう。)
本書で扱われるのは、『新世紀エヴァンゲリオン』や『DEATH NOTE』といったエポックとなった作品のみならず、小説、ゲーム、マンガ、アニメ、TVドラマ…それも実に幅広いジャンルから多くの作品が参照されていく。そこから宇野さんは、90年代までの「想像力」と、今なお生き残るその残滓を特徴付けながら整理した上で、(東批判、つまりはゼロ年代になお生き延びた90年代的想像力批判を経由して)「ゼロ年代」へのシフト・チェンジと、その可能性を、その特徴、必要性・重要性を理論的に説明しながら論じていく。(今後、本書を読まずに、東、あるいは「セカイ系」を無条件に肯定することは難しいだろう)
その読書体験は、これまで感覚的に「すき・きらい」あるいは「にてる・にていない」とみてきた現代文化が、明晰に腑分けされていくスリリングなもので、鋭敏な批評意識を文章として追うことで、いつしか「ゼロ年代の想像力」という主題のポイントへと導かれていく。本書の読書過程で蒙を啓かれた後にたどり着く結論部では、読者もまた「ゼロ年代の想像力」の長所・短所を考えると同時に、より普遍的なテーマへの足がかりをつかむことにもなる。その意味で、本書はサブカルチャー批評であると同時に、実に広範な射程を持つ、しかも説得的な「批評」の書なのだ。本書出版は、この夏の「事件」といってもいいだろう。
紙の本
刺激的且つ創造的
2008/10/10 12:07
5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:町山 - この投稿者のレビュー一覧を見る
以前から著者の名前はともかく本書の名はしばし雑誌やウェブでの書評で見掛けてはいたので記憶していたのだが、何やらひどく内輪的で拒否を誘う俗物感があるように見え敬遠していた。しかし書店でたまたま見かけ立ち読んでみると想像していた内容と違い以外としっかり書かれていたので購入した。
自分は本書で取り上げられている莫大な作品群の内、一割程度しか鑑賞していない。特に全十六章中一章を割かれてまで書かれている仮面ライダーシリーズを一作も見ていない。そうであるから本書の判断に鈍りがあるはずだ。
だがこのように取り上げられている作品をあまり知らなくても誠に楽しめた。悪質な言い方かも知れないが、議論の正否よりも著者の議論展開のおもしろさに強く心惹かれた。著者は、あれはあれでこれはこれというふう反発を招きかねないほど断定的に作品を纏めあげる。また、単調にならないよう攻撃的でユニークな文章が使われている。
「これはそうだ気がつかなかった」「そこは違うのではないのか」というふう読書中頭に考えが巡ることが多く、久しぶりに刺激的な読書となった。その刺激の結果のひとつがこの感想である。
紙の本
現場、会議室、給湯室。
2008/12/23 22:16
6人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:Living Yellow - この投稿者のレビュー一覧を見る
会社生活の中で、重要かつ難儀なものが、会議、とくに「全体会議」であろう。議決権を有していない立場、大概二十代半ばまでは、「意見」を「述べて」を「積極性」をアピールするくらいしか、許されるものではない。「決断」はそのあと、「上の者」が下す。
そんな材料のために、キーボードを叩き、グラフを叩き出す。
「会議室」と「現場」の両方に送るために。
数多くの小説、アニメ、ゲーム、TVドラマをテーマに、小泉政権以降の「ゼロ年代」における、決断主義:選択肢を拒否して引きこもることもまた決断=拙い選択肢の一つでしかないということ:との対峙・受容・共存あるいは超克を語る本書には。その一方で。
類書にない、素材=各作品に対するまなざしと、料理=分析の静かな情熱が存在する。
日々のTV欄:献立をおろそかにしない、普通の、だが続けられる礼儀。
本書中、ゼロ年代の成果として、取り上げられる、木皿泉氏脚本によるTV版『野ブタをプロデュース』で山下智久くん演じる彰が日々飲む豆乳、堀北真希さん演じる信子が父に手渡す、どこでも手に入るコンビニおにぎり。
同じく重点を置かれる、よしながふみ氏のマンガ、『西洋骨董洋菓子店』、本書では取り扱われていないが、現在『モーニング』連載中の『きのう何食べた?』はそのものずばり。ただ、もはや『クッキング・パパ』や『美味しんぼ』と違って、料理は部下の結婚問題も、副部長の進退にも関わらない。生きるために、ただ、献立を選択し、手早くていねいに、日々料理し、おいしく供し、いただく正しさ。
そして、決断主義を踏まえた「仲裁者」=宮藤官九郎氏脚本の、『木更津キャッツアイ』において。「奴ら=オジーの敵」は「男の勲章」でもどこの喫茶店でも「ナポリタンとオレンジジュース」しか頼まない。「決断」を自覚しない者たちの醜さ。
ゼロ年代の大状況の分析を見据えつつ、諸作品に対して、決して、それらを「道具」扱いしない本書のていねいな「料理」の作法には共感を覚えた。
ただ。無い物ねだりを承知で。
フジテレビ系『踊る大捜査線』が「事件は会議室で起きてるんじゃない!」と織田雄二:青島に叫ばせて、はや十数年。個人的印象では、平成不況の始まりの中「組織のきしみ」を肌で感じた人々が。これだけは見ておかねばという、勢いで劇場版に殺到していたように記憶している。
そして、現在。80年代、テレビ朝日系:久米宏氏の『ニュースステーション』に文字通り時間枠を追われた、『特捜最前線』、『必殺仕事人』的な「社会悪」の形象をより洗練し、加えて「組織の論理」を導入、90年代末からじわじわと人気を集め、今春の映画版のヒット、同じく今クールのTV版も継続して視聴率を維持しつつ、一区切りを迎えた『相棒』、水谷豊:杉下右京氏。
これらの「ウェルメイド刑事ドラマ」のメインキャラクターの変遷は。
設計主義的「決断の調整」のより深く、広い浸透を意味しているのか。
「事件」は。もはや、「現場」は会議室にも。給湯室にまで拡がってしまったのだろうか?
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東浩紀に果敢に(無謀に?)挑戦しているあたりが熱い。
古い想像力と現代の想像力を説得的に腑分けしようという試みが、それなりに成功しているのではないかと思う。
少なくとも、古い想像力の整理は十分に役に立つ。
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要約すれば、90年代の自閉的精神から飛び出して、他者との摩擦を怖れずコミュニケーションしてゼロ年代をサヴァイブせよ、っていうことでいいのでしょうか。
東浩紀『動物化するポストモダン』を初めて読んだとき、自分の漠然と感じていたことをすっきりと言葉にしていて衝撃を受けましたが、本作はそれ以来の衝撃かもしれません。
突っ込めばどこかに穴があるのでしょうが、東が男性オタク周辺(ある意味世間の常識からは遠い人々)の現象を中心にしていたのに対し、宇野は非常にポピュラーなメディアなど(普通のテレビドラマ)にまで言及しています。
ああ、そんなところまで視野に含めてしまって良かったのか! むしろ、そういう地点からこそ現代が見つめやすいかもしれない! とまあ、個人的には目からウロコ。
それでも☆4つなのは著者に対する期待を込めての意で。
それはともかく、こんな批評が『ファウスト』ではなく『SFマガジン』から出てきたっていうのが最も大きな変化ではないでしょうか? (円城塔とか含め)
塩の人が凄すぎるって言うのはわかりきったこととはいえ。
ゼロ年代はSFブーム再来?
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素晴らしいっス。
エンゲージメントを掲げてる方々には、マストな一冊かと。
時代の流れとか、共感されるコンテンツのあり方とかを、考えさせられます。
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「碇シンジでは夜神月は止められない」というところから展開していく主張。
エヴァとかジャンプとかクドカンのドラマとかを通して現代社会を分析した評論。
サブカル批評に留まらず、大きな視点で社会を見てて、色々考えさせられた。
90年代と、2000年代。変わったところもあるけど、連続している。
まさにじぶんが生きた/生きている時代。傍観者じゃなくて、当事者だという意識を
もつべきなんだろうなと思った。そういう年齢になったんだな。
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2008年のベストかもしれん。
新教養主義の章が一番好きで、こんな世の中でも子供産んでも良いかもって思えた。
いろんな人に勧めたが、あまり反応無かったのが残念。
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『DEATH NOTE』、『恋空』、『ALWAYS 三丁目の夕日』、宮藤官九郎、よしながふみ、平成仮面ライダーシリーズ……格差・郊外・ナショナリズム、激震するゼロ年代に生まれた物語たちの想像力は何を描き、生み出してきたのか。時代を更新するサブ・カルチャー批評の決定版。
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SFマガジン連載時より興味深く読んだ。独断であったり、ぎこちなかったりしても、批評しようという又は批評せずにはいられないという決断に至り、再考する機会を持とうとする宇野っちの思想が私は好きだ。
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久しぶりに読み返してみた。
本当にこの本は、歴史というものに頓着なく書かれている。べつにここまで限定しなくてもいいんじゃないか、というくらいに、1995年以後の時代に純朴なまでに限定して語っている。五十嵐太郎がどこかで「ここまで世代間の隔絶を感じさせる批評はない」と言っていたが、それはこのことによるだろう。
そんなに大それた歴史参照は、学術ではなく批評なのだから必要条件ではない。でも、たとえば母性について語るならば 河合隼雄の『母性社会日本の病理』、たとえば成熟について語るならば江藤淳の『成熟と喪失』。このように少なくとも戦後日本の歴史くらいまでは、簡単に遡って(参照して)叙述できたはずだ。
それがないから、1995年以後のサブカルの知識に乏しい人間は、ただその知識が乏しいというだけで、あるいはそれに興味がうすいというだけで、著者の論についていけなくなってしまう。読者を限定してしまうことはそれだけで批評としてよろしくないことである。全編、著者は、読者を東浩紀のみに想定しているんじゃないかしらという印象すらおぼえる。
また、著者の「歴史への頓着のなさ」はこの本にある種の「くどさ」を生んでしまっている。1995年以後のサブカルに限定された内容じたいは、めちゃくちゃに濃いことは間違いない。しかし読んでいて、すこし飽きるというか違和感を覚える箇所が少なくない。
ひとつには、歴史には触れないにもかかわらず「国民国家」とか「マルクス主義」とか「大きな物語うんぬん」とか、へんに大文字の言葉を使っていることがあげられる。文章全体が排他的であるから、これらの言葉はまったくリアリティを感じさせない。著者はこれらの言葉で「一般性」「普遍性」を帯びさせようと意図しているのだろうが、まったく記号的な言葉遣いである。
よって300頁を超える長編であるのに、まったく論は深みを増してこないし、ネタをとっかえひっかえしての堂々巡りとなってしまっている。もう少しだけ視野を広げられれば印象は大分ちがうと思うのだけれど。まぁでも、映画・テレビドラマ・小説・漫画などの表現物をすべて「時代の空気」の表出あるいは帰結としてしか論じないあたりは、そもそも限界があるのかもしれない。
味は濃いけど深みはない。まるで千屋のラーメンみたいだな!鈴木屋ではない。
(このようにあらかじめ読者を限定した書き方をすれば、共感できない人間は排除されるのだよ。横浜ローカルのいわゆる「家系」とよばれるラーメン屋のこと)
しかしやはり、暑苦しい本だなこれは。カバー裏の載っている著者の写真とか、生理的に受けつけないと思う人間が多数いるんじゃないかしら。これは蛇足。
それと、宇野は「あえて」の使い方を間違えているように思う。宇野の「あえて」は、「あえて(ベタに)」という意味で使われている。実際の文章中に「あえてベタに」と書かれていることもある。「あえて」はベタと並列に使えないでしょう。「あえて」はどちらかというとメタであり、宮台真司のように「あえて亜細亜主義」「あえて天皇主義」というように使うのが正しい。ベタとメタの間を全力で往復する精神をを示すときに使うべきである。
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たしかに、東浩紀を中心とした文化的影響力に飲み込まれすぎたために接触をせずにすましてしまった可能性の断片は多いに違いない。
「〜である」というキャラクターの承認ではなく、「〜する、〜した」という行為の積み重ねに、トライ&エラーを繰り返しながら、人との関係の履歴を大事する、小さな関係性を取り戻す必要はあるだろう。
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この本で
宇野常寛氏は次のように言っている。
「ひとつの時代とその不可避な潮流に対峙したとき,人々は『こんな世の中は間違っている』とすべてを否定して背を向けるか,『流れに乗ればいい』と身をまかせてしまうかという両極端な反応を取りやすい。
しかし,それは愚かな選択だ。」と。
「世界の『いい/悪い』を論じることにまったく意味はない。」と。
つまりは
現状を良い点と悪い点を把握し
長所を生かし,短所を逆手に取って克服することで状況を変化させていくしかない!!
ってことだーね。
弱点を逆手に取るってのが,冷静にならねば難しいのかなー。
そんな風に客観的に世の中を見てみようではないか。
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ゼロ年代はひきこもりから決断主義への移行。今は決断主義の臨界点。決断主義の限界=暴力、排除の論理。この限界の克服がゼロ年代末の現時点における課題。という感じに、東浩紀で止まってしまったゼロ年代の批評を批判的に再検討し、さらに現状から先への展望まで描いてみせる。かなり広い範囲から引用していながら、シンプルに構図を描いて、なるほどと思わせる。
一方で、決断主義の限界の克服の段になると、説得力に欠けてしまうのが残念。解決策は結局、仲間とか、日常の幸せ、という小さなところに落ち着いてしまう。それまでの、クールな分析に対して、ひどくなまぬるい。いろいろ分析してきた結果が結局それなの?と。
なんでなんだろうと考えてなんとなく感じたのは、著者自身が何かよりどころとなる確かなものを求めているという感じ。論理的にはポストモダン状況を不可避なものとしながら、心情としては確かなものを求めているんじゃないか。それは、強いお父さんであったり、優しいお母さんであったり、といった素朴なもののような気がする。頭が良いだけに、ポストモダン状況が不可避だってことは認めざるを得なくて、それ以前の大きな物語を肯定することはできない。でも、心の中ではそうでないところがあるから、そういうちぐはぐさが生じるんじゃないか。そのことについて著者自身がどこまで自覚しているかわわからない。
ただ、心情的な面を否定する必要はないと思う。問題なのは論理的にはポストモダン状況が不可避であるということと、確かなよりどころを求めるというちぐはぐさをどう乗り越えていくか、ということになるんじゃないか。そう思うんだけど、そのちぐはぐさが自覚されないまま放置されたままになっているのが少し残念。
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これはやばい、刺激的過ぎる。今知りたかったこと、なんとなく気づいてたけど言語化できなかったこと、俺自身の創作のヒントになることがいっぱい詰まってて、このままでは宇野史観に染まって「ゼロ年代は決断主義が~」「大きな物語が~」とか日常で言っちゃいそうなのであえてこの本の思想とは距離を置いておきたい。近づくと自分が揺らぐ。というわけで大満足の★5つで