投稿元:
レビューを見る
人材育成論と言えば、よく人にアドラーを薦めていたが、恥ずかしながら本人の著書を読んだことがなかった。本書は、アドラーがウィーンのフォルクスハイムで行った講義がもとになっていて、原著の第一部を訳出したもの。何をどう知れば自分や他者を「知る」ことになるのか。症例を通して「人間知」を探求している。最近お疲れ気味なので、心の栄養になればと思い、原点にかえって読んでみた。
以下、解説より。
「アドラーは人間の悩みはすべて対人関係の悩みである、といっている。なぜなら、『人が個人として生きる前に、共同体があった』からであり、その意味で、対人関係から離れた人は考えられないのである。そこで、対人関係の悩みを解決するためには、人間知は不可欠であり、その知の内実は他者との関係から離れたものではない。また、育児をしている親は、子どものことを知らなければ、適切に対処することはできないだろう。対人関係を解決するという目的のためには、人間知は、言葉の本当の意味で実践的でなければならず、生きることの現場からあまりにもかけ離れていては学ぶ意味がないのである。」
本書の中には、症例が度々登場してくるので、形而上の議論で終わることなく、身に染みる議論が展開されている。
以下、本書より。
「今やわれわれは、人類の存続を確かなものにするために必要だった規則、教育、迷信、トーテムとタブー、律法が、まず第一に、共同体の理念に適合したものでなければならないことを理解する。われわれは、そのことをすでに宗教の制度において見た。われわれは、共同体の要求〔に応じること〕を、個人においても社会においても、精神器官の最も重要な機能である、と見ている。われわれが正義と呼んでいるもの、人間の性格における最も重要な面であると見ているものは、本質的には、人間の共生から流れ出た要求の充足に他ならない。これが精神器官を形作ったのである。そこで、信頼性、誠実、率直、真理愛などは、本来、共同体の普遍妥当的な原理によって立てられ、維持される要求である。われわれがよい性格、わるい性格と呼ぶものは、共同体の視点からのみ判断できる。…いかなる完全な人も、共同体感覚を育成し、十分実践するのでなければ、成長することはできないということが、やがて明らかにされるだろう。」
「…幻覚は、心が最も緊張した瞬間、人が自分の目標を実現できないことを恐れる状況で起こる、といえる。…
…苦しんでいる人の想像能力を、より完全な明瞭さで現在の苦境から元気を起こさせる状況へと高めることを可能にするのは、最高度の苦境にあるという緊張である。この緊張感は、疲れた人を勇気づけ、自信が揺らいでいる人の力をかきたて、より強く、あるいは、より無感覚にし、香料や麻薬のような作用をする。」
「個人心理学の原則は、次のようである。精神生活のすべての現象は、念頭に浮かぶ目標のための準備として理解されるべきである。ここまで述べてきた精神生活の形成は、われわれにとって、個人の願望が満たされるように見える未来のための準備という意味を持っている。これは人間に普遍的な現象であり、すべての人がこの過程を通過しなければならない。」
「人生の個々の現象についていえば、しばしば、次のことが認められる。ある人は、自分の人生に対する能力を知らず、それを過小評価しているが、自分の欠点についても十分には知らず、実際にはすべてが利己主義から発しているのに、自分をよい人とみなしているということである。あるいは反対に、自分を利己主義者とみなしているが、仔細に見れば、いい人であることがわかるということである。人が自分のことをどう思っていいるか(あるいは他の人が自分のことをどう思っているか)は重要ではなく、人間社会の内部での態度全般が重要なのである。これが、人がこの世界の中で欲し、関心を持っていることのすべてのことを規定し、導くからである。
実際、ここでも、人間の二つのタイプが問題になる。一つのタイプは、より意識して生き、人生の問題に、より視野を広く持って向かう人で、もう一つのタイプは、偏見を持って、人生と世界の小さな部分を見て、無意識に行動し、話す。そこで、一緒に生きている二人の人が、一方が絶えず反対するのでうまくいかないということが起こる。これは稀なケースではないが、頻度に関しては、おそらく両方が絶えず反対しているケースが多いだろう。しかし、当事者は、反対しているということは、少しも知らない。それどころか、常に自分は正しいと信じ、平和を望んでいるのであり、協調することを最も高く評価している、という。しかし、事実は、その人がいうこととは反対であり、実際には、一方が一言いえば相手の側面を突いて反対するが、これは外面的には目立たない。厳密に見れば、この反論は、敵対的で、好戦的な気分に満たされているのがわかる。」