投稿元:
レビューを見る
TVウォッチャーの堀井さんの本。堀井さんらしく、調査しまくってます。落語という題材がついていけませんでした。図書館予約数は0(09/03/14現在)です。
投稿元:
レビューを見る
落語を少し聞き始めてきて面白くなってきたらこの本を読むべき。
落語の世界の時代背景など堀井的解説をしていて、現代人にはとてもわかりやすく面白い。
「落語ばんざい」的なことばかりでなく、現実や落語に対する聞き手としての率直な感想もおりこまれていて読んでいて納得する一冊。
投稿元:
レビューを見る
最初は図書館で借りたけれど、落語を聞く資料として使えそうなので、新刊を購入。文体が自分とフィットするのは、同じ関西人だからかな。落語を末永く楽しむためにそばに置いておくと役に立つ本です。
投稿元:
レビューを見る
書くことないけど、誰かにいわれて、落語の感想文を書いてみました、それにちょっと 自身の博学を絡めてみました・・・という姿勢。ただ、著者の落語が好きな気持ちは、充分に伝わってきた。
投稿元:
レビューを見る
『落語の国からのぞいてみれば』(2008,講談社現代新書)の著者堀井憲一郎は,「『上方落語』と『江戸落語』のバイリンガル」(p213)だそうです。落語バイリンガルは,日英バイリンガルより数が少ないだろうとぼくは思います。めずらしい。著者は本書で,東西の落語の片言隻句を縦横無尽に引用しています。そのとき拠った録音や速記録のたぐいは,しかし,偏っています。江戸落語のほうは,円生,志ん朝,談志の口演を参照したそうです。そういう趣味のようです。一方,上方落語の引用は,ほとんど『桂米朝上方落語大全集』からのものです。京都出身である著者の落語バイリンガル人生は,米朝から始まったそうです。
桂米朝上方落語大全集どうやら,1970年代に出た『桂米朝上方落語大全集』が蒔いた種のひとつが,この本になったようです。遅咲きにもほどがある,と思われるかもしれません。けど,ウォシャウスキー・ブラザーズの『スピード・レーサー』だって,同じくらい遅咲きです。そして,『スピード・レーサー』とちがって,『桂米朝上方落語大全集』のインパクトがこんなに深く刻まれている本が世に出回るのは,たぶん本書が初めてだろうと思います(堀井さんより先に桂米朝のインパクトを受けて人生が変わったひととしては,枝雀や小佐田定雄がいるわけですが,彼らが十代の時期にはまだ『大全集』が出ていませんでしたから)。堀井さんは本書で,噺の山場やサゲを紹介するのでなく,登場人物のなにげないセリフをテーマに沿ってふんだんに引用しています。そんなことができるのは,著者のアタマで『大全集』のLP48枚がずっと鳴っているからだろうとぼくは思います。米朝を知らないかたには意味のないことですが,著者が米朝から引用するどんな短い部分からも,米朝の声とノリ(と,独特の「訛り」だとぼくが思っている発音)が聞こえてきます。ぼくは,その趣味,その線の人間でないと自覚していますが,堀井さんのようにいまなお浴びるように落語を聞いているひとが1970年代の米朝を絶賛するのを読んで,ぼくは米朝の偉大さを再確認しました。
さて,とはいえ,この『落語の国からのぞいてみれば』はなんの本なのか。ぼくはこの本を三通りに読みました。
1. 華麗な文体の見本として。
2. 古典落語で描かれている世界の社会史として。
3. 落語批評として。
出版社の企画は「2. 社会史」だったと思われます。本書の各章は,テーマ別の社会史として読めるように構成されています。そして,そう読めばいいんだろうと思います。しかし,著者にとって「2. 社会史」は,「3. 批評」と表裏一体であるようです。そして「3. 批評」として読むと,本書には,落語界の人間が賛成しかねるであろうことがあれこれと書かれています。
たとえば,p90からp91にかけて,著者は円生と先代小さんの旅の噺のマクラを紹介します。昔の旅は歩くしかなかったからたいへんだったという趣旨のマクラです。「でもこれは、ちょっとちがう。ちがいますね。江戸に生きた人間として言わせてもらうと、誤解されている」(p91-p92)と著者は言います。歩くのがたいへんだというのは現代人の勝手な思いこみであって,落語の登��人物たちはそんなことを思ってないはずだ,と自称江戸に生きている堀井さんは言うわけです。だれに。円生と人間国宝の小さんに。落語界内部の人間なら出入り禁止だろうと思います。
「芝浜」について著者の意見を聞いてみましょう。「かなり何でもないこの噺が近年の落語ファンには人気で、年末の落語会ではさかんに掛けられる。(中略)落語好きより、感動したい病の人たちが支持しているような気がしてならない」(p26)。
当代の小さん、もとの三語楼について。「素の噺家として見た場合に、何も注目すべき点がない。哀しいほど何もない噺家さんだ」(p51)と著者は言います。返す刀で「そんな噺家は東京には掃いて捨てるほどいる。(中略)ちなみに全噺家の平均値“ごく普通の落語”は、だいたいつまんないです」(p51-p52)とまで。
こういった部分を紹介すると,著者は落語が嫌いなのかと誤解を招くかもしれません。しかし実際のところ,仕事でもないのに堀井さんほど頻繁に寄席に通っているひとはめったにいません。
ふつうの落語はつまらないよ,というのは,ぼくも何度かだれかに言ったことがあります。堀井さんの意見ではありませんが,ぼくなりに説明します。それは二重の意味があって,まず,落語というのは客をゲラゲラ笑わせる話芸であるという誤解を解くためです。マンガ喫茶にはいまだに「ゲラゲラ」という店があるそうで,ある種の人々の想定によれば,マンガは読者を笑わせるものであるようです。でも,ひとを笑わせるマンガは,マンガの一部にすぎません。マンガと落語とでは割合がちがうかもしれませんが,それでも同じように落語が,かならずしもひとをゲラゲラ笑わそうとしているわけでないということは,もうちょっと理解されていいだろうと思います。そもそも堀井さんのように寄席に通いづめている客は,噺の山場もサゲもよく知っています。落語好きは落語を聞いてゲラゲラ笑っているのだろうと誤解している人々は,落語好きがオチを知っている冗談を聞いて笑っていると思っているのでしょうか。とんでもない。ぼくの知っている範囲で言えば,落語好きは,落語グルーヴとでもいうべきものを体験しに寄席に行っているのだろうと思います。大当たりの落語グルーヴが起きると,客はクックッと笑いながら泣いています。ぼくの最近の例で言えば,これはラジオだったんですが,桂文我の「時うどん」で落語グルーヴが起きました。「引っぱりな,いうねん」の場面がいわばサビみたいなところで,その場面が近づいてくると待ちどおしい。近づくにつれてグイグイのぼって,「引っぱりな,いうねん」でドッカーンと,笑うというより泣いているわけです。この感情には名前がありませんが,けっしてゲラゲラ笑っているわけではありません。このグルーヴを待つつもりで聞かないと,落語はつまらないよ,というのがひとつめの意味。そして,そういったグルーヴはめったに起きないよ,というのがふたつめの意味です。
堀井さんの本の話に戻りましょう。本書を読むと,著者が往年の志ん朝や談志を高く評価していることが分かりますし,最近の噺家では立川談春や三遊亭天どんに注目しているようです。なのに,なぜ著者は1970年代の桂米朝を大量に引用するのか。たとえば,「帯���」という噺について,著者はこう記しています。「こういう『商家の大旦那と大番頭』が出てくる落語は桂米朝にかなうものはない。米朝の描く陰影に気づいてしまうと、ほかの演者がすべて薄っぺらに聞こえてしまって、そのへんは少しやっかいですね」(p224)。堀井さんは,米朝以外の噺家への批判となるのを避けるためか,米朝を誉めるに止めて,他の噺家の欠点を具体的に指摘しておりません。
朝霧ミステリー作家の北村薫は,『朝霧』という小説で,「たちきれ線香」という色街の噺について,堀井さんと同じようなことを作中人物に言わせました。ぼくは『朝霧』を高野文子先生の表紙絵に引かれて買っただけなので,中身をよく覚えていませんが,北村さんは,たしか米朝だけでなく,文枝も含めて,上方落語の「たちきれ線香」を例に出していたように思います。そして,米朝や文枝の「たちきれ線香」のサゲの意味に気づいてしまうと,ほかの演者がすべて薄っぺらに聞こえてしまう,というようなことを作中人物に語らせました。
みなさん遠慮がちなので,ひとつ具体的な例をぼくが挙げておきます。「千両蜜柑」という噺があります。江戸の昔,大きな商家の若旦那が夏に病に臥せっていまにも亡くなりそうである。原因は,ばかばかしいことに,夏にミカンが食べたくなったから。ミカンが食べられなければ死ぬと若旦那は言っていて,実際死にそうである。そこで番頭さんがミカンを探して歩きまわり,ようやくミカン問屋の蔵から,ひとつだけ腐っていないミカンを探しあてる。さてそのミカンひとつのお値段は?たとえば,ぼくが聞いた志の輔だと,その値段は「千両です」と来ます。ミカン問屋は,夏でも蔵をミカンでいっぱいにしている,その蔵に入れておいたミカン全部の代金を払ってもらいますから,たったひとつでも千両です,というわけです。けれど,米朝の演出では,このミカンははじめタダです。無料です。紀伊国屋というミカン問屋にしてみれば,命にかかわるほどミカンが好きだというひとがいてくれてありがたい,その若旦那のために早くこのミカンを持っていってあげなさい,と番頭にミカンをあげようとします。そのとき,番頭が,ちょっとしたミエをはり,紀伊国屋の親切をバカにする。つまり,紀伊国屋は大きい店かもしれないがうちだって負けないくらいの店を構えている,ミカンひとつといえどもタダでもらうのは恥である,みたいなことを言うわけです。番頭は紀伊国屋の親切に正札(プライス・タグ)をつけようとした。そのときはじめて紀伊国屋が商人の顔になって,「ほたら千両です」と言うわけです。そこで番頭が青ざめる。そういう米朝の演出を聞いていると,いきなり「千両です」と来る現代の名人志の輔が薄っぺらに聞こえます。
ぼくはここで,江戸落語が上方落語より薄っぺらであると言おうとしているわけではありません。「米朝直系の弟子たちは、枝雀をのぞいて」(p226)とるにたりないと堀井さんは厳しい評価を下しています。枝雀を除くのであれば,吉朝も除いてほしいとぼくは思いますが,それ以外の点では,文珍に厳しいことを含めて,ぼくは堀井さんの意見に賛成です。けれど,江戸落語をめぐって巷間言われていることのいくつかにたいして,ぼくは不満を持っています。宵越しのカネがどうのこうの言いながら,江戸落語の世界は案外カネに汚い,とか。そういったことが従来問題視されてこなかったのは,落語好きがたいてい,江戸か上方どちらかのモノリンガルだったからだろうとぼくは思います。そういったことがようやく,落語バイリンガルである堀井さんのような著者によって明らかにされつつあるのは,江戸上方両方の落語界にとっていいことだと思います。志の輔のような名人には耳の痛い,腹の立つ話かもしれませんが,ここは大局観に立って改めるべきところを改めてほしいものだとぼくは思います。
なお,米朝好きの堀井さんの著書を紹介したからといって,ぼくが米朝好きというわけではありません。その話は長くなりますのでいずれまた。
P.S. だからといってぼくが米朝を嫌いというわけでもありません。最近また転んで入院した米朝師匠は,病院で見舞客にむかって「覚えてた噺,全部忘れてしもた」と言ってるようです。あいかわらずどこまで本気か分かりませんが,心配です。
投稿元:
レビューを見る
[ 内容 ]
時間の感覚、死生観、恋愛と結婚、酒……
今の暮らしは、どこかヘン!?
江戸を向いて歩こう!
恋愛こそすべてという圧力、名前に対する過剰な思い入れ、死んだらおしまいと言えないムード……どこか息苦しくないか?
落語のなかに生きる人々の姿から、近代人のおかしさを撃つ!第1章 数え年のほうがわかりやすい。
[ 目次 ]
第2章 昼と夜とで時間はちがう
第3章 死んだやつのことは忘れる
第4章 名前は個人のものではない
第5章 ゼニとカネは別のものである
第6章 50両で人は死ぬ
第7章 みんな走るように歩いてる
第8章 歩くときに手を振るな
第9章 生け贄が共同体を守る
第10章 相撲は巨大人の見世物
第11章 見世物は異界の入り口
第12章 早く結婚しないといけない
第13章 恋愛は趣味でしかない
第14章 左利きのサムライはいない
第15章 30日には月は出ない
第16章 冷や酒はカラダに悪い
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
投稿元:
レビューを見る
堀井氏の著書は、他に『若者殺しの時代』を読んだことがあります。『若者殺しの時代』は、雑誌やテレビ番組の分析を通じて、80年代とはどういう時代だったのかを検証するユニークな一冊でしたが、今回ご紹介する『落語の国からのぞいてみれば』も手法は一緒。落語の作品を分析することを通じて、江戸時代とはどんな時代であったのかが検証されます。
堀井氏の真骨頂は、メディアの中身に分け入りながら、自らの身体感覚を通じて、その時代の空気感を浮かび上がらせていくことにあります。本書でも、縦横無尽に落語の作品世界に分け入っていきながら、同時に、実際に京都まで徒歩旅行を試みるといった身体を張った検証作業を通じて、江戸時代の人々の身体感覚や時間感覚、そして精神世界に迫っていきます。
私達は、ともすれば、今生きている時代の常識でしかものをみません。しかし、200年くらいさかのぼってみた時、同じ日本であっても、そこには随分と違う風景が広がっていることに気づかされます。昔は、もっと人の死が身近で、個性は今ほど重視されず、好き嫌いを言う前に結婚させられ、夏と冬とで一時間の長さが違い、日付はそのまま月の形を表していたのです。
本書を読むと、人が人である限り時代を越えて共通するものがある一方で、人の感情や感覚のあり方は、かなり時代の空気に左右されるものなのだなということに気づかされます。そして、ちょっと前の日本人はこんなふうに考え、生きていた、と思うと、現代の個人の生き方や社会のあり方が、それほど根拠のないものなのだな、ということにも思い至るのです。海外を見るのも大事ですが、こうやってちょっと前の日本人の姿を眺めてみるのも、自らを相対化し、客観視する上で有用な作業なのですね。
「落語は近代をすっと越えてくれる」というのは著者の言ですが、落語の世界に浸りつつ、気づくと今の生き方や社会のあり方を考えさせらている、そんな内容の一冊です。是非、読んでみてください。
=====================================================
▽ 心に残った文章達(本書からの引用文)
=====================================================
日本にはかつて誕生日はなかった。少なくとも誕生日の祝いななかった。
1950年に「年齢のとなえ方に関する法律」が定められ、満年齢で数えることになった。昭和二十五年のことだ。その時代から庶民にもお誕生日祝いがリアルに存在しはじめたのであろう。個人の時代、自由の時代が始まった。それは子供中心の時代の始まりでもあったわけだ。
落語をよく聞いていると、どうも「死をそのまま受け入れろ」と繰り返し教えてくれてるようにおもえる。
何が残ろうと、死んだらおしまい。そう送ってあげるのがいいんだよ、と落語は教えてくれています。それは残ってる者がしっかり生きろというメッセージでもあるわけで、動物としてはそういう生き方が正しいと思う。
「生まれたときの名」
「家を継いだときの名」
「隠居したときの名」
生涯に三つの名前を持つ。それぞれが正式な名前で、人は役割によって名前も違うのだという、前近代���な常識に基づいた方式です。
「銭金はおタカラだから大事にしないといけない」
「金銭は不浄のものであるから、固執してはならない」
お金に関しては、人は必ずこの二律背反なイメージを持っている。というか、この二点を子供のころから徹底的に教えこまれるのだ。
お江戸日本橋から、京の三条大橋まで歩いたことがある。21世紀になったばかりの頃だ。若者2人を連れてのべ23日で歩いた。これはちょっとゆっくりだったなとおもって、またそのあと、二年後に日本橋から名古屋まで7日で歩いた。東京から名古屋まで七日で歩くってのは、ほとんど走っているようなスペースである。
歩く旅に慣れると、里という単位がとてもありがたい。一里をだいたい一時間で歩きます。休憩なしですっと歩ける距離が一里です。
相撲とは何かって、興行です。見せ物でしかない。
相撲はむかしから、必ず人が見る前で取り組まれていた。客を選んだり制限したりしたことはあっても必ず客はいた。(…)相撲はスポーツではない。勝ち負けや記録だけ残しても意味はないのだ。
見世物小屋という世界があって、人の世界からはずれてしまうなら、そちらに身を寄せればいい、という知恵があったのだろう。いままでのように人がましくは生きられないが、でも何とか生きていけるという方法である。近代以前の弱者の方策だ。個性と人権を大事に考える世界に生きていると、人がましくなくても何とか生きていくというエリアが認められなくなって、こういう考えかたはできなくなった。
近代というシステムは何故か「すべてをクリーンにしたい」という人間の欲望をすごく刺激する。言い方を変えれば「世界を制服したい」欲望でもあるわけだけど、その欲望につき動かされて、近代の社会は端っこがなくなっていく。
大束に言ってしまえば、近代より前は、人は好き嫌いで生きていけなかった。好き嫌いは前面に押し出されることはなく、また好き嫌いで人生を決めてはいなかったんだろう。それはそれでひとつの見識である。人が人であるかぎり、さほどの横幅を取って生きていけるわけではない。欲張ったところで、自分以上の横幅を取って人生を歩めるわけじゃない。
近代より以前、人は夜になると月を見ていた。すべての人が月の形を意識して生きていたわけですね。そもそも暦が月の満ち欠けで決められていた。(…)大雑把に言ってしまえば、明治五年以前の暦は「その夜が明るいかどうかを示したもの」だったのだ。夜の明るさのカレンダー。
落語のえらいところは、二百年も昔の若い連中の姿を生き生きと見せてくれるところだ。(…)でも落語は遺跡ではなくて、いまでもエンターテイメントなんだな。いまこの瞬間もどこかで人を笑わせている。そのへんがすごい。
息苦しいなあとおもったときには、ちょっと江戸の気分になってみると、少し楽になるかも、ということです。落語は近代をすっと越えてくれる。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
●[2]編集後記
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
まだまだ冷えますが、立春を迎え��暦の上では春になりました。
植物達は敏感に春を感じているようで、地べたに張り付くようにして冬を過ごしていた我が家の畑の作物達も、急に力を取り戻し、むくむくと起き上がってきました。
植物というのは、本当に環境の変化に敏感ですね。植物の特徴は、一度根を張ったところからは動けないことですが、動けないからこそ、全身の感覚器官を開いて、環境の微細な変化をキャッチできるようになっているのでしょう。「動けない」というのは、動物に比べると弱点のように見えますが、植物達はその「弱さ」故に、高い感受能力を発達させてきたのだ、とも言えます。
小さな子どもの感応力の高さも、やはりその弱さ故ではないか、と思ったりします。最近、娘は、こちらが何も言わないのに「春が来たね」と盛んに言うのですが、どうも大人にはわからない、微妙な空気や温度の違いに気づくことのできるセンサーが彼女にはあるのでしょう。
いつの間にか面の皮が厚くなって、どんどん鈍感になっているけれど、本来は、植物や幼児が持っているような感受能力というのが僕らにもあるはずです。世界を味わい尽くすためにも、そういう微細な感受能力というものを忘れないようにしたいものですね。
投稿元:
レビューを見る
常識も時代によってかわるんだ
気にはしないといけないけれど
絶対ではないということを心に留め置く
投稿元:
レビューを見る
最近、落語をよく聴く。
話の背景を理解するのに便利。
現代の常識はたった400年前の常識にあらず。
投稿元:
レビューを見る
落語の時代という200年前と現代の情勢を落語を交えながら比較しつつ語られた本。昔はいかに社会が優先され、今はいかに個人が優先されているか気付きを与えてくれました。随所随所で数々の有名落語ダイジェストもあり、面白かったです。
投稿元:
レビューを見る
一時期、ポッドキャストの落語の配信を楽しみにしている時期があった。少々かじった程度であるので、本からでも他に面白いことがあるのではないかと手に取ってみた。なるほど、昔の常識(武士の利き腕、月と暦の関係)が分かっているのt分かっていないのでは落語の理解、面白さに差がでてくるではないか。今後は違った視点からも落語が聞けるのではないかと思う。著者の言うようにライブで見るべきだが、いつかは行ってみたい。
投稿元:
レビューを見る
ある日突然「落語の国」に迷い込んでしまったビギナーにとって、この一冊はなかなか便利な「道しるべ」となっている。
ここでは落語の歴史やあらすじ、おすすめの噺家などが紹介されるかわりに、落語に登場する人たちー 熊さんや八っつぁん、長屋のご隠居や与太郎といった魅力的な人物たち ーのことばや動きの背景をなす「感覚」について、「時間」「金銭」「結婚」「恋愛」「酒」「死」といったキーワードを通して語られる。
たとえば「時そば」という有名な噺(はなし)の下げ(オチ)は、「九ツ」と「四ツ」という江戸時代の時間の数え方を知っているか知っていないかでその面白さがずいぶんとちがってくるように思えるし、現代よりもずっと「一年」という区切りの単位が重かった時代の噺(はなし)だからこそ、「芝浜」のおかみさんは「大晦日」に真実を告げるのだと合点がゆく。「夢」が「現実」に変わるとしたら、そのタイミングはまさに一年の変わり目にしかありえないからである(以上は、読みながら勝手に感じたぼくの解釈)。ほかには、じっさいに著者が「東海道」を日本橋から京都まで歩いたときの体験から語られる江戸の人々の「歩き」にかんする考察も、ふだんそんなこと考えたこともなかっただけにおもしろく読んだ。
ぼく自身は知らなかったのだが、著者は週刊誌などで活躍する人気コラムニストとのこと。読むひとのなかにはその軽い口調が気に障るひともいるかもしれないが、落語や町人が活躍する時代劇などに関心のあるひとにとっては、おそらくきっと興味深く読めるのではないかな?
投稿元:
レビューを見る
落語を全く知らない私にもすんなり読める。
落語を通してみる江戸時代(文化文政)の空気。
左利きの武士はいない、とか
日本酒は燗が常識とか、
目から鱗のトピックもあり、面白かった。
投稿元:
レビューを見る
久しぶりの新書です~
落語を通じて近代化の中で日本人が置き忘れて来てしまった文化を再認識出来ます。
面白いですよ〜落語にも興味が湧いてきました( ^_^)/~~~
投稿元:
レビューを見る
この本を読むと「今の自分たちの生き方に何かヒントをくれる」「いい意味で楽になれる」。そう吉田さんが言う『落語の国からのぞいてみれば』は、落語で描かれる江戸時代の人々の暮らしを紹介しながら、現代人の生活と対比していきます。
続きはこちら
GUEST 066/映画監督・吉田大八:スミスの本棚:ワールドビジネスサテライト:テレビ東京
http://www.tv-tokyo.co.jp/wbs/blog/smith/2012/10/post137677.html