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(2008/7/28読了)先月紀伊国屋のシンポジウムで拝見した萱野さんの本ということで興味を引かれた。若者の右傾化と言われる事象について、それは要するに、仕事や日々の生活において「承認」を失いつつある中で、自分のアイデンティティの「承認」としてのナショナリズム、という背景があるのではないか?とのこと。
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「生きづらさ」についてはわかりやすく説明している。
解決ではなく、「生きづらさ」の原因、プロセスである。
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対談なので多少冗長な感は否めないが,問題を考えるヒントは散見される。特に,第3章「認められることの困難とナショナリズム」は示唆に富む。日常生活で承認を得られない弱者が,日本人でさえあれば受容されるコミュニティとして右翼を見出すというのは,ありうる話だと思う。フリー=どこにも所属しないという定義付けも有用だろう。どこにも所属しないからこそ,徹底的に自己責任に追い詰められる。他者からの承認を過度に要求される社会において,承認を得られないことは,厳しい疎外感を生むことは身をもって感じている。ただ,そこから生まれる「連帯」は,常にナルシスティックなものに堕する危険を孕むのではないだろうか。僕が,インディーズ系メーデーの盛り上がりや素人の乱に素直に共感できないのは,ここの問題なのかもしれない。それとも自己責任の呪縛から抜け出せてないだけなのか?
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「生きづらさ」というタイトルに惹かれて購入した本です。
新しい貧困問題について,当事者の視点に触れています。福祉事務所等がこれらの貧困問題に対して対応できていないことについても書かれています。生きづらい状況について,心理的なことと社会的なことが関連していることについては分かりますが,ナショナリズムとは強引に結びつけているという印象です。確かに,社会システムや国の施策と大きな環境があるのですけど。
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派遣労働者や現在の経済格差、労働環境の問題を対話形式で論じている。
一貫してアイデンティティの問題を主題としている。
いつの時代でも経済格差は多かれ少なかれ存在するだろうが、貧困層が社会的に包摂されているかということが重要なのである。
まあこういう問題に興味がある人は読んでおいていいだろう。
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「行きづらさ」について書かれている。
この本では、精神的な「生きづらさ」と社会的・経済的な「行きづらさ」が渾然一体であるとして語られている。
そうやって押し付けられるダブルの「行きづらさ」。
どうにかしたいものです。
興味深い箇所。
P9 L4〜L5
(萱野稔人)「おそらく精神的な「行きづらさ」と社会的・経済的な「生きづらさ」って、どこかで重なってるんですよね。」
P10
空気を読んで自殺する
P13
空気を読むことの重圧
P14 L5後半〜P15 L5
(萱野稔人)「生きていくうえで、空気を読む必要がものすごくあるわけです。人間関係のなかで要求されることのレベルがとても高い。
いまの社会では、場の空気を読んで、相手の感情や行動を先回りして、互いにコンフリクトがけっしてあらわれないようにふつまえっていう要請がすごくあるじゃないですか。そうしないと、自分のことをまわりから認めてもらえないし、自分の居場所もつくれない。そういうハードルの高い人間関係のかたちがあるから、一度それにつまずいてしまうとなかなか立ち直れない。つまり、コミュニケーションのあり方が行きづらさのもともとの原因にある。
コミュニケーションのなかで要求されるスキルや繊細さって、時代のなかでどんどん高度になっているんですよね。だから勝ち組の年長者は、いまの行きづらさのリアリティがまったくわからなかったりする。いまでは小学生でさえ、相手の期待や場の空気を壊さないようにするにはどうふるまったらいいかを、すごく考えています。でも、要求されるレベルが高いから、それがちょってでも狂うと―たとえば友達の機嫌をそこねてちょっとでも無視されたりすると―学校へ行けなくなる。そして、一度不登校になると、コミュニケーションのハードルが高いから復帰がすごく難しい。引きこもりになりやすいんです。」
P36 L8〜P37 L2
他者からの承認
(萱野稔人)「空気を読んで、まわりに過剰に同調するというコミュニケーションのあり方って、いいかえるなら、それだけ人びとが他者との関係に依存しないと自分を維持できないってことをあらわしていますよね。他者から否定されたら自分の存在を支えられなくなるからこそ、空気を読んで、まわりに自分の存在を受け入れてもらおうとするわけです。自分の存在が他者からの承認に依存している度合いがとても高い。他者とのあいだにズレやコンフリクトが生まれて、他者からうっとうしがられたり見切られたりすることを極度に恐れて、無理にでも他者に同調してしまうんです。」
P37 L6〜L14
(萱野稔人)「やっぱり、人から認められることが、自分の存在価値を証明する一番の回路だと思いますよ。もともと人間って、自分の存在価値を自分では証明できないから、他者にそれを認めてもらうしかないんです。どうしても他者からの承認を求めてしまうんですよ。
ただ、どれくらい他者からの承認を必要とするかという度合いは、人によっても時代によっても違ってきます。おそらく、高い���ミュニケーション能力が要求されるいまの社会って、その度合いが強い社会なんでしょう。そうした社会では、他者とのコミュニケーションのなかでそのつど自分の能力や価値を認めてもらわないといけないという圧力がものすごくあって、そうした社会の圧力にあわせて、個人のほうも「自分の価値を証明しなきゃいけない」、「他者に認められないといけない」っていう衝動に強く駆られてしまうんです。」
P39 L3〜L14
(萱野稔人)「いまニートの話がでましたが、こうして見てくると、精神的な「行きづらさ」のなかに、すでに社会的な「行きづらさ」の要素が一通りあることがわかります。
たとえば、貧困や不安定労働における「行きづらさ」って、たんにお金がないから行きづらい、ということだけにはとどまりませんよね。そこには、社会からまともに扱われないとか、居場所がないといった行きづらさも含まれています。そういった生きづらさの原型は。すでに精神的な生きづらさのなかに見いだされるものです。
もともと、要求されるコミュニケーション能力がどんどん高くなり、他者からの承認を得るためのハードルもどんどん高くなるなかで、多くの人が生きづらさを抱えるという状況があって、さらにそのうえで、ある時期からいきなり就職が厳しくなり、労働条件も厳しくなっていったということでしょう。それによって「行きづらさ」が、もっと社会的な問題まで広がってきたわけです。」
P65 L5〜L7
(萱野稔人)「おそらく左翼の陥りがちな誤りはそのへんにありますよね。左翼はどうしても「こっちが正しいんだ」という態度で、相手のいうことを否定し、説得することに向かってしまいがちですから。で、相手が直面している実存的な問題やリアリティを見落としてしまう。」
P85 L5〜P86 L14
フリーター、アイデンティティ、承認―なぜアカデミズムはフリーターの問題に対応できないか
(萱野稔人)「フリーターこそ実は自立させられていると言う話は、本当にそうだと思います。
ここで「所属」の問題をもう少し考えてみたいのですが、「所属」というのは、一方で、いざというときに頼りになって生活を保障してくれるものであるのと同時に、他方で、「私はここに所属している」というかたちでアイデンティティを保障するものでもあると思うんですよ。
たとえばフリーターは、どこにも所属していないアルバイターとして、社会的には何者でもありません。これに対し、学生のアルバイトなら、大学という所属する場所があるわけですよね。だから少なくとも社会的には何者かとして認知される。「フリー」の人間はそれがありません。もちろん有名人なら、どこに所属していなくても自分の名前だけは社会的に認知してもらえますが、しかし、普通の人にはそれは無理です。実際、有名人だって、自分の名前が知られていないところでは、「日本人」だとか、職業だとか、どこどこの会社(組織)の人間だとか、役職とか、そういうところで認知されるほかありません。要するに、所属というのは、物質的なレベルにおける社会の保障と、精神的なレベルにおけるアイデンティティの保障の、両方にかかわっているのです。
僕の属してい��アカデミックな思想の世界では、これまでずっと「所属がないことはいいことだ」といわれてきました。「あらゆる所属をふりはらって、所属先のさまざまなしがらみとか、共同体的な縛りから逃れるのが自由なんだ」、と。ラディカルぶりたい研究者ほど、そういうことを得意げにいっていたわけです。でも、自分は大学の研究者として確固とした所属先をもっているのに、口先では「所属やアイデンティティをふりはらえ」なんていうのは、ちょっとおかしいですよね。実際、彼らはいまの流動化した社会の状況やフリーターの問題にはぜんぜん対応できていません。」
P90 L5〜L8
(萱野稔人)「「おまえなんていてもいなくても同じ」という立場におかれるのは、ひじょうにつらいことです。人は誰でも自分の存在価値を認めてもらいたいわけですから。「おまえじゃないとダメだ」とか「おまえのおかげだ」って誰でもいってほしいものですよね。自分が存在している価値なんてないんじゃないかという状況に人間は耐えられません。」
P104 L4〜P108 L9
(萱野稔人)「・・・・・。雨宮さんは、最初に左翼の集会へいったものの、ここは自分のくるところではないと思って、右にいった。しかしその後「プレカリアート」という言葉に出会って、フリーターの労働運動や反貧困の運動にどんどんコミットするようになった。このように、左右両方の世界に身をおいた人間から見ると、右と左はどう違うんですか?」
(雨宮処凛)「「ミニスカ右翼からゴスロリ左翼へ」とよくいわれるんですが(笑)、自分としてはあまり変わっていません。『右翼と左翼はどうちがう?」という本にも書きましたが、右翼と左翼の人たち何人かにお話を聞いた結果、違いは、憲法と天皇しかないように思いました。その二つ以外は、ものすごく入り組んでいる。その団体によってまったく違うし、極左と極右が同じことをいってたりする。憲法と東大以外で違いを見つけられませんでした。
あとはファッションセンスの違いでしょうか(笑)。右翼はベルサーチとかが好きで、左翼はラフなというか、貧乏くさい格好していますよね(笑)。だから、憲法、天皇、あとちょっと服も違うみたいな。・・・・・」
P163 L9〜L12
(萱野稔人)「つねにシノギを削り、そのつどのコミュニケーションをつうじて自分の能力や価値を認めさせる、というのが、いまの人間関係の基礎になっているんですよね。なかなか安住できる人間関係がない。」
(雨宮処凛)「やはり最悪の出会い方しかできないのが、行きづらさの根本問題だと思いますね。」
P165 L9〜L12
(萱野稔人)「リストカットをしている子に話を聞くと、やっぱり自分を責めているんですよね。自分を責めて、否定して、その結果として自傷行為に走る。たとえば自分への罰としてリストカットをして、罪滅ぼしするという子がいました。自分の手首から流れる血が見ていると、罪悪感が消え、心が安らぐ、と。」
P177
メンヘラーが労働運動で自己を回復する
P180 L11〜P183 L6
自己を肯定する二つの宣言
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派遣問題、ニート、自殺、右翼左翼がほとんど同じ問題を抱えていることを対談?で解説されている。
正直、共感はできませんが内容と考え方、プロセスは面白い。
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この本は「週刊ブックレビュー」で2009年1月に紹介されました。
映画監督の佐藤忠男さんが取りあげました。
著者の雨宮処凛さんはNHKの「私の1冊 日本の100冊」や「派遣切り」の問題を扱ったテレビ討論番組にも出演しています。
佐藤忠男さんは敗戦後の貧困を経験していますが、当時の貧困は「努力すれば乗り越えることが出来た」と言います。
貧しくても誇りに思うことが出来たといいます。
いまは、競争社会で負けたものが、正社員になれずにフリーターになるという見方があります。
「自己責任にしてはいけない」と著者は言います。
中江有里さんも「次のチャンスが訪れない閉塞感は恐ろしい」と言っていました。
「フリーター」という言葉が肯定的にとらえられていた時代もありました。
仕事のために好きなことを犠牲にする必要がなく、夢を追える、そうしたポジティブな意味が消えたのは2003年頃でしょうか。
フリーターは、風邪を引くとそのまま失業することになります。
正社員は風邪を引いてもクビにならないと聞いてびっくりしたと雨宮さんは言います。
フリーターに住宅ローンを組ませてくれる銀行はないとも言います。
いまのコミュニケーション重視型の競争社会の中では、共同体は避難所の役割を果たしていると言います。
親子という共同体では、優れているから認められるわけでなく「無条件に認めてくれる居場所」になります。
「おまえのおかげだ」「おまえじゃないとダメだ」と言われることは生きる支えになります。
正社員は休日のない長時間勤務に喘ぎ、非正規社員は低賃金と不安定な雇用にさらされているという閉塞感、何とかならないのでしょうか。
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面白かった。
対談形式なのも読みやすかったし。
「高いコミュニケーション能力を求められる世の中で、KYを意識し過ぎている」ことが、精神的な面での「生きづらさ」に繋がっているという内容はすごく納得できた。
それと、社会問題化している派遣や貧困問題についてもとても勉強になった。
アイデンティティをナショナリズムに求める過程がちょっと厳しいが、読むに値する一冊。
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中国に行く前に空港で買った本。
現代の日本を取り巻く生きづらさについて原因を探った本。解決策が十分提示されているとは言えないと思うが、とてもよく現状を捕らえていると思う。
持論では、人間の欲求はマズローの欲求段階説に従っており、これらが満たされないことに人は不満や生きづらさを感じるものだと思う。
現代の日本に生きづらさが蔓延しているのは、もっとも基本となる生存欲求が満たされない人(働きたくても働けない人)ばかりでなく、働いている人の中でも所属の欲求や承認欲求が満たされないことに原因がある。
本の中で「犠牲の累進性」という言葉が出てくる。世の中にはもっと苦しんでいる人がおり、、下を見ることで現状に満足させるエクスキュースの言葉として否定的に使われているが、様々なレベルで不満が渦巻いているというのは事実だろうと思う。
生存のレベルで苦しむ人と承認のレベルで苦しむ人の課題はそれぞれ解決されなくてはならないと思うが、問題はこれらがトレードオフではないかということである。
本にも書いてあったが、我々は生まれてすぐに他人と競争する主体として存在し、誰かを犠牲にすることでしか我々の社会や暮らしは成り立たないのではないか。
実際自分はそういう会社で働いているし、多くの同僚は同じ感情を抱いているのではないかと思う(実際にそういう発言をした上司はいた)。
もちろん生存の欲求は承認の欲求より優先されるべきだと考えているが、これが社会全体の問題である以上、トレードオフ・合成の誤謬・囚人のジレンマが生じ、個人の努力によっては解決されない問題だと考える。知恵と合意によってルールとして社会が選択しなくてはならない。
知恵として個人的に魅力を感じているのは、ベーシック・インカムという仕組みである。最低限の生存欲求を満たすことですぐに救える命があると思うし、生存欲求を離れて人がよりリスクをとって生きることのできる社会で、人はゼロサムではなくよりwin-winな関係を築けるのではないだろうか。
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細かくいえば評価は3・5。納得できるところとできないところがあったが、社会的に立場が低いと見られている人たちがどのようにしてその状況から脱却しようとしているか。というのが書いてあった。国や国民が利己的ばかりになるなってことだったのかな。
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貧困、アイデンティティ、ナショナリズム 他人を蹴落としてでも勝ち残れ、あるいは自分を押し殺してでも社会にとけこめ、それでだめなら自己責任という重苦しい空気。その先に死があるとすれば、「甘えるな」の一言で片付けるのはいささか乱暴にすぎる。
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前線からの報告という感じか。
深刻な問題が、『生きさせろ!』の時点よりさらに根深く広がってる。
彼女の今の活動や方向性は重要な問題定義をしていると思うが、
「クラブ活動の人間関係がしんどい」なところからスタートされるとなあ。
彼女に共感する人が読むときに、それを同じように重大事にしないでくれと思う。
それとも今はそれこそが重大事に値するようなことなんだろうか?
http://takoashiattack.blog8.fc2.com/blog-entry-1081.html
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アイデンティティーは他者からやってくる。
肯定も他者から、そして自分のなかで肯定が可能になる。
自分を肯定できない→他者とのコミュニケーションに踏み出す自信がなくなる→社会的な活動の場が狭くなる・頼れる人が少なくなる→不安定な生活条件になる→悪循環 ただ、自分を肯定したいという意志がなくなった時が一番危ない。
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メンタルヘルス(mental health)とは、精神にかかわる健康のことである。医療行政や医療領域では、精神保健という呼称の方が一般的である。略して「メンヘル」「メンタル」「メンヘラ」とも呼称される。
コンフリクト【conflict】1 意見・感情・利害の衝突。争い。論争。対立。2 コンピューターで、複数のタスクが同時に同じファイルやメモリ領域を利用して競合する状態。システムダウンを引き起こす要因となる。
ルサンチマン【(フランス)ressentiment】国語辞書
強者に対する弱者の憎悪や復讐(ふくしゅう)衝動などの感情が内攻的に屈折している状態。ニーチェやシェーラーによって用いられた語。怨恨(えんこん)。遺恨。
犠牲の累進性