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何か人生の困難に突き当たったときに、ことばたちが自らの記憶のなかから呼び覚まされて、危機を脱出するための道案内をしてくれる。語られ、書かれた、ことばたちは、もはや単なる叙述ではなくて、記憶のなかでは「命令」になるとフーコーはいっている。何々をせよ!これこれと判断せよ!と、師や本がなくても、自己のなかから声が発せられる。これは一種のヒュポムネーマタ(覚え書き)となる。p38
ここでいう<正義>とは一種の統整的原理である。(ここでは目標を定めるものであり、神や霊性など経験を超えたものではなく、人間の理性により認識可能であり、なおかつそこに進むべきものという意味で、カントの統整的原理の語を使っている。)p43
係争から抗争へ、正義が求められるとき
Cf. 映画「フライトプラン」p44
▲メモ
正義のゼロサム性、領土問題
【困難な正義に希望がある】p48
社会的に正義が実現されたこと、少なくとも十割の正義は実現された史実を私は知らない。それは社会というものが、まさに複数の人間から成り、そうなるとすべての人が正義の人とは限らず、また一部の正義と思う人たちが権力を握っても、それは暴力を含んだ権力状態なのだから不当となってしまうアポリアにある。アポリア、簡単に言えば袋小路のこと。
▲メモ
安全保障のジレンマ eg. 米国における銃使用、核不拡散
ルソー「果実はみんなのものであり、土地はだれのものでもない」『人間不平等起源論』p57
「ブロイラー」:人工的に品種改良されたニワトリ。少ない餌で済むのに2ヶ月足らずという驚くべき早さで成長し、出荷される。食べられるために生まれ、食べられるために生きるニワトリ。p64
いまのニワトリの胸の重量(生後8ヶ月)は、25年前の7倍もあるといわれる。
【気付かぬうちに不正の輪にいる】p66
世界には「絶対的な貧困」者が20億人以上いる。世界人口の約1/3もの人びとが、安定した収入と仕事、住居、医療はもちろん、それどころか十分な食糧や水を欠いた状態で生きている。
日常生活で知らぬ間に享受している生活用品(たとえば百均など)は中国や南米の貧国に設けられたフリーゾーン(免税地帯)における低賃金労働者を搾取することで製造可能となっているように、私たちも知らぬ間に不正に構造的に関与している。
▲メモ
これらは厳然としたリアルである。メディアはそれを伝えられるポテンシャルがある。そして、現在のメディア環境にあっては、協働し、解決策を練ることさえ可能となった。
2020年には世界人口が75億人から85億人に達するという予想。by ローマ・クラブ p67
私物化の発端?「ワシントン・コンセンサス」→ネオリベラリズム(世界市場原理主義)の一連の政策を実現するためのものであることは明らか。p73
▲メモ
南北問題をメディア論的にとらえた時に問題化するのは、北にしかカメラがないこと?
映画『ダーウィンの悪夢』p104
タンザニア・ヴィクトリア湖のナイルパーチ→EUや日本へ輸出、フィレオフィッシュや西京漬けになる p111
映画『ジャマイカ ��園の真実』p115
2005年カナダ「国民総幸福量に関する国際会議」政策の4つの柱
①持続可能で公平な開発
②自然環境の保護
③文化財の保護
④よき統治
いまやPMF(民間軍事企業)のマーケット総額は15兆円以上と言われている。p144
チョムスキーが何度も指摘するように、米国は国際司法裁判所が「国際的テロ」として有罪を宣告した唯一の国となった。p147
当初、「無限の正義作戦」と名づけられたアフガニスタン攻撃が、後に「不朽の自由作戦」と改称された。p160
イギリスの経済社会学者コリン・クラウチ「ポスト・デモクラシー」の兆候
①2000年米国大統領選ではフロリダ州での投票操作が明らかになったのに、民衆は怒りの声をあげなかった。
②民主主義は「自由民主主義」として定義されることが増えているが、これは米国の影響である。自由民主主義が重視するのは、大衆参加を選挙で実現、企業のロビー活動の自由、資本主義的分配に干渉しない国家である。
→クラウチはこれを「志の低いデモクラシー」と呼ぶ。
ポスト・デモクラシーとは、選挙はあるけれども、政治の公開討論は各陣営の説得術のエキスパート組織により管理されたスペクタクルとなり、大衆は受動的なしらけた、与えられた信号にしか反応しないようになってしまった政体のことである。p166
映画『ゆきゆきて、神軍』原一男監督作 p170
奥崎謙三
「正義というものは、一方的な暴力になりかわることがある。これが国家レベルになったら恐ろしいことp176
憲法というのは非常時に樹立される権力。Cf. カール・シュミット p181
映画『パレスチナ1948-NAKBA-』広河隆一作 p216
Cf. アウシュビッツの巻物、ゾンダーコマンド
ジョルジュ・ディディ=ユベルマン「想像力の解体」:あまりにも行為が残虐すぎて信じてもらえない
グアンタナモですが、2002年3月米政府は司法省と協力して、「新たな軍事法廷」を設定しました。(新ガイドラインの発表)この軍事法廷は、通常の捕囚者の権利が守られる司法裁判所ではありません。さらにジュネーヴ条約の法的保護もなく、異議申し立ても認められず、本国送還もない。異議申し立て等などは、通常の米国内の裁判に適用されるものだが、米国政府はグアンタナモは米国内ではないという。またテロリストは正規の戦闘員ではないのだからジュネーヴ条約も適用されないという。(アフガニスタンの行政を行なっていたタリバン勢力でさえ、「戦時捕虜」ではないといわれている)「テロとの戦争」という表現が明らかにおかしいことを、自ら暴露しているようなもの。戦争というのは主権国家と主権国家の間のものとして国際法上のルールに従う。国内の犯罪者は、その国の司法手続きによって裁かれる。
グアンタナモの収監者たちは、「テロとの戦争」における容疑者でありながら、どこの国の法にも拘束されない「新たな軍事法廷」で米国政府が裁く。いま起きているのはデモクラシーの前提であるはずのの<法>の無効化、バトラーのいう「法の停止」である。米国の「新たな軍事法廷」は、連邦裁判所があるにもかかわらず、裁判官たちの司法システムを「中抜き」にしてしまう。p228
権���はネットワークであり、リゾームであり、その末端の国民たちが相互監視しながら自動的に権力の実現に加担する。p230
Cf. フーコー「規律―訓練型権力」、ドゥルーズ「管理型権力」
【ジハード、インティファーダ】p247
「ジハード」もまた、選択の余地がない。それにはさまざまな理由がある。テロリストによる巧妙な説得の場合もあるし、貧困ゆえの場合もあり、そのようなときには私たち先進国諸国の害が及んでいる場合もある。この悲劇的惨状の根源がどこにあるのかを私たちは考えて行かなければならない。何を誰を赦すことができるのか。その時には、メディアで醸成された<悪>のイメージを信じることは危険。たとえば、パレスチナの物騒な武装蜂起とされるインティファーダはそもそも武器のない市民たちが憤り、捨て身で投石などの抗議活動を展開するところから始まった。絶望的な状況のなかで、選択肢を奪っているのは何であるのか、これを見定める必要がある。
アドルフ・アイヒマン「ひとりの人間の死は悲劇であるが、数百人の死はもはや統計でしかない」p256
【ジャック・デリダの有名な講演「正義への権利について(法権利から正義へ)」】p260
法権利を曖昧なく区別するための「規則、規範、規準」を見出さなくてはならない。そのためにデリダは法の脱構築可能性と正義の脱構築不可能性について考えるという戦略をとる。
「法はいつでも権威に裏打ちされている」法は正義にしたがってその産物としてつくられるものでありながら、その内包される正義はそもそも権威、力、暴力の徴がある。
法はそもそも正義だというものではなくて、「法が権利として、または法にもとづいて、正義になることができるのは、力を握ることによってのみであり、その最初の瞬間からすでに力に訴えることによってのみである」そして法の執行のたびに、その暴力が反復される。
パスカル『パンセ』「正義。力。正しいものに従うのは、正しいことであり、最も強いものに従うのは、必然のことである。力のない正義は無力であり、正義のない力は圧制的である。力のない正義は反対される。なぜなら、悪いやつがいつもいるからである。正義のない力は非難される。したがって、正義と力をいっしょにおかなければならない。そのためには正しいものが強いか、強いものが正しくなければならない。このようにして人は、正しいものを強くできなかったので、強いものを正しいとしたのである」
モンテーニュ『エセー』「習慣は、それが受け入れられているという、ただそれだけの理由で、公平のすべてを形成する。これこそがその権威の神秘的基礎である」「ところで掟が信奉されているのは、それらが正義にかなうからではなくて、それらが掟であるからだ。これが掟の権威の神秘的な基礎で、このほかに基礎はまったくない」
映画『ムルンバの叫び』p299