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ハイエクはあまり知られていない経済学者であるが、その思想は新自由主義につながる重要な思想であり、ケインズとの対比も非常に面白い。
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【動機】パターン・ランゲージから「自生的秩序」の考え方に興味をもって。
【内容】ハイエクの社会や経済に対する考え方について、ほかのいろいろな考え方と対比しながら解説している。
【感想】慣れない経済や政治の言葉が多くてあまり読めなかったが、科学哲学の言葉もたくさんあったのが意外でおもしろかった。
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【ハイエク 知識社会の自由主義】
「はじめに」
●社会主義と新古典派経済学に共通する「合理主義」と「完全な知識」という前提に反対し続け、それらは死後15年以上経ち行動経済学の多くの実験で反証された。
●「不完全な知識にもとづいて生まれ、つねに進化を続ける秩序が、あらゆる合理的な計画をしのぐ」という予言を、インターネットは証明した。社会主義の不可能性を証明し、ケインズ政策や福祉国家も含めて、経済を「計画的」に運営する事は不可能であり有害である事を示した。
●21世紀が「知識社会」になるとすれば、不完全で不合理だということを明らかにしたハイエクの理論は、情報ネットワーク社会の秩序のあり方を考える基礎となるであろう
「第1章」
●人間の行動を認識論的なレベルで把握し、歴史を自由の拡大する過程ととられる進化論的な発想を持つ。メンガーの著書「原理」から影響を受けており、価値が生産費で決まるとする古典派経済学を批判し、それが消費者の「必要」から決まる。これは「限界効用の理論」として一般化。しかしそれは、価値が消費者の心理に依存する相対的なものだという主観主義だった。
「第2章」
●第1次大戦後、市場経済に人々が疑問を持ち始めたとき、自由放任の終焉を宣告したケインズが支持を受けたのは当然。世界は、私的利害と社会的利害がつねに一致するように天上から統治されているわけではない
●ケインズの貨幣論が理論的な矛盾を含むとハイエクは指摘。不況の原因は過少消費なので金利を引き下げれば貯蓄が減り、消費が増えるので不況から脱却できるとしたが、ハイエクは原因は過少消費でもないし、金融政策で是正できるものでもないとした
●金利を引き下げても生活者が過度にリスクを恐れて現金を保有する「流動性選好」があるから、長期金利は下がらないという。したがって、政府が公共事業で有効需要を創出する必要がある。というのが「一般理論」の構成
●ハイエクにとっては「市場の問題は長期的には市場が解決する」が、ケインズにとっては「長期的にはみんな死んでしまう」。
●後にケインズは不確実性を経済分析の中心においた。不確実性のもとでの主観的な意思決定を重視するのは、ハイエクの中心思想。ケインズはこの不確実性を政府の力で除去しようとし、ハイエクはおのずから調整されると考えた
「第3章」
●ある商品の価格を見て、それが自分の主観的な評価より安ければ買う。そうした需要と供給の相互作用によって商品の価値が決まり、企業は利潤を上げる。しかしこれが成り立つには財産権が必要であり、中央当局の計画で資源配分を決めることは不可能。これに対し、オスカー・ランゲは「価格には二つの機能がある。取引における交換比率、その商品の価値(影の価格)を示す機能。後者は企業内の部門間でつけられる「移転価格」のようなもので、実際に貨幣による取引は必要ではなく、あるプロジェクトの価値がコストより高いか低いかをみればよい、と反論
●社会主義失敗の最大の原因は「計算を行う前提となる目的関数を決められなかったこと」だ。経済全体の目的はいったいだれが決めればよいのだ��うか。情報を所有するものが自分のために利用する事で、情報の効率的な完全利用が実現する
●理論の正当性を実験的な検証によって裏付けることはできないと主張したポパー。いかに多くの実験で検証しても、次の1回がそれで否定される可能性を排除できない。経験的事実から理論を「帰納」する手続きはありえないのだ、そして科学と非科学をわける基準として「反証可能性」を提唱した。
「第4章」
●理想的な状態が実現するかどうかは、社会の中で知識がどう分布し、どう流通するかという「知識の分業」に依存する。個人は断片的な知識しかもっていない。それが市場での相互作用によってどう伝わり、コーディネートされるかが経済的パフォーマンスを高める。問題は、個々の企業がどういう材料とどういう労働者どう使ってどういう商品をつくっているか、といった個人的知識である。
●人々が誰も経済全体についての知識を持っていないとき、異なる人々の心のなかにある知識の断片を欠どうして、全体を指揮する知識がないと意図的に実現できないような結果をもたらすには、どうすればいいか。誰も計画しなくても、個人の自発的な行動によって、一定の条件の下で、全体があたかも一つの計画で作られたかのように資源を配分することを示す必要がある
●完全な知識を持つという前提は成り立っていないにも関わらず、あたかもそれが成り立っているかのように経済が動いているのはなぜか、という問題。どこかの利用者の個人的知識が、市場の取引によって価格という一般的知識に翻訳されて市場に伝わるだけで、あたかも計画当局が「不足した金属を節約せよ」と命令したかのように、各企業が自発的に行動する
●現代の産業では新古典派が暗黙に想定する個人企業はほとんどなく、少数の大企業により寡占になっていることが多いが、それは規模の経済がある限り「完全競争」より生産の効率性という点では優れている。競争が完全か不完全かではなく、あるかないかが重要。
「第5章」
●もし全知全能の計画当局が永遠の未来を合理的に予想し、世界を正しく導くことができれば、自由は必要ない。
●自由の意味は、無知な人々が最大の選択肢をもち、いろいろな可能性を試すことが出来ることにある。このようにオプションを拡げることによて効率が高まることも多いが、それが目的ではなく、試行錯誤による進化の結果、生き残るのは適応した個体であって、絶対的な基準で「最適」な個体とはかぎらない
●進化によって「客観的知識」に近づくというポパーの理論を、ハイエクは批判した。われわれの社会が最適だという保証もなければ、それに近づいているという保証もない
●自由という言葉には、古来からある「他人の恣意的な意志による強制に服従しない」という消極的な自由(~からの自由)、と積極的な「~への自由」がある。ポジティブリストだと、それから外れた行動が全て禁止となる
●「自然発生的に出来た制度を維持し、起源や根拠のはっきりしないルールを守り、伝統や習慣を尊重せよ」という。いわば歴史の実験によって何度も有効性を検証されてきたのであり、個人の経験をはるかに超える価値があるから。「道徳のルールは、理性による結論ではない」というヒュームの意見に���ある。
●習慣や言語は、多くの人々が使っているがゆえに自分も使うトートロジーになっている。
「第7章」
●大きな社会では、人々の利害は一致しないので、各自の行動が合成された結果は、誰も意図しなかった秩序を生み出す。全体主義や社会主義は、こうした意図せざる結果の法則を理解していない
●スミスもニュートン物理学に影響を受け、人間社会の秩序を決める法則を「分業」にした。
●古典力学モデルにかわってハイエクが構想したのが、進化の概念に基づく生物学モデル。経済システムでも、環境に適応した者が生き残ることによって非効率な個体が排除されるメカニズムが働くと考えられる。違いは経済行動にはルールが必要であるということ。
●もし経済システムの進化にはルールが必要とすると、何もしなければ自動的に秩序が成立するという無政府主義とはなりえない。
●自由を妨害している最大の要因は、煩雑な規制や政府の裁量的な介入なので、規制を撤廃してルールを明確化する制度設計こそ、自由な社会を実現するために重要。
●ルールの功利主義。効用を最大化するという目的には意味が無いが、人々の自由度を最大化するルールを設計することが、自由な社会を建設するためには重要。
●社会主義国の停滞がはっきりしたのは、資本蓄積が飽和し、製品が複雑化した1960年代からである。
●ハイエクが依拠したのは「集団淘汰」。集団同士が競争する場合、利他的な個体が多いと集団の効率が上がって競争に勝つという話。個体レベルでは、感染力を弱めて宿主を生かすことは利他的な行動だが、その結果、集団が最大化されて遺伝子の数も最大化。同様の集団レベルの競争は、社会的昆虫のコロニー等にも広く見られる。もちろん個体レベルの競争も機能しているので、淘汰は個体と集団の二つのレベルで行われている、これを「多レベル淘汰」という
「第8章」
●実際には、何のルールもないところには秩序が発生する事はない。経済システムでも社会主義国で国営企業の民営化が失敗した最大の原因は、70年以上も市場経済を知らなかった人々に「約束を守る」「他人のものは盗まない」などの常識が共有されていなかったから
●「実定法主義」においては、法律の正当性は国家主権にあり、国家は民主主義などの手続きによって主権者たる国民から負託された権力をもつと考えられる。法律も最初から意識的につくられた秩序ではなく、長い歴史の中で積み重ねられてきた慣習を条文にしたものだ。市民法の起源とされるローマ法も、最初から立法府が制定したものではなく、ローマ市民の契約についてのルールを文書にし、六世紀にユスティニアヌスによって「ローマ法大全」となったもの。ハイエクはこの主義を批判する
●英米法の伝統では、慣習や判例の積み重ねの上に成文法があると考える。デシスはノモスの上につくられる第二次的な秩序であって、その正当性は歴史的に積み重ねられてきた判例や慣習によって保証される。
●これらの国々では、法律が慣習法のパッチワークとして徐々に形成され、その解釈基準として実定法ができたので、立法と司法が分離し、またアメリカでは行政はもともと各州に分かれていたので、結果的に三権が分立するシステムができた
●利用できる資源の少ない、追いつき型近代化の局面では、大陸法型システムが機能する。乏しい資源を総動員しなければならないため。しかし、行政集権的な「開発主義」システムは、経済が成熟すると集権的な調整機能のオーバーヘッドが負担になり、さらに大きな負のショックが発生すると、コンセンサスによる調整では対応できないため、制御不能になる
●カール・ポラニーの説は、「市場原理主義」を指弾し、「市場と社会の調和」を唱える人々の論拠になっているが、実証的な証拠の無いものだ。
●伝統的には抑制すべき悪徳とされてきた利己心を積極的に認めたことが、近代西欧文明が他の文明圏に比べて飛躍的に大きな富を生み出す重要な原因だったことは間違いない。
●実験とは自然を「拷問にかけて自白させる」というロバート・ボイル
●財産権は産業革命をもたらした「知識の共有」というもうひとつのエンジンと矛盾する要因を含んでいた
●人類史上最大の革命は「定住革命」
「第9章」
●社会主義のような集権的な経済システムでは、必要な知識は官僚に集中するので、変化の激しい社会では、社会の全体像を知る事ができない。
●インターネットは不完全な知識しかないユーザーのもとでもそれなりに機能し、問題があれば後から直すという「進化的な」発想でできている。インターネットのルールはRFCと呼ばれており、ルールはつねに未完成で、多くの人々に修正されて発展するという。
●エリック・シュミット「ビジネスの世界ではインターネットが負ける方に賭けるな」というのが鉄則
●ハイエクが法秩序の原則として掲げたのは「任意のメンバーがそれぞれの目的を達成するチャンスをできるかぎり高めること」である。伝統の中から自然に進化するノモス。ノモスは慣習法のように多くの処理の中から生まれて来るが、ハイエクは伝統を絶対化するのではなく、自由を基準にして制度を評価し、自由を阻害する法は廃止すべきとする
●創造的なビジネスに於いては、、マーケティング・リサーチで市場をいくら分析しても答えはでない。きのうまで見た白鳥が白かったとしても、「全ての白鳥が白い」という法則は帰納できない。新しいデザインは前例の無い「ブラック・スワン」だから価値がある。日本的な「すりあわせ」による改良をいくら積み重ねても、画期的なイノベーションは生み出せない。
●遺伝的アルゴリズムのような突然変異を利用したメカニズム。労働・資本市場の改革で参入・退出を自由にし、局所解を脱却するような創造的破壊によって全体最適解をさがす
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経済学者/哲学者のフリードリヒ・ハイエクの主張や生涯を追うハイエク入門書。著者の池田氏の博覧強記ぶりはかなりのもので、入門書といえど決して易しくなく、"噛みごたえのある"内容だった。
前提となる他の経済学者の主張や学派などの知識がない状態では、特に理解に時間がかかってしまい不勉強を恥じる。
ただ、本書をきっかけとして行動経済学や心理学など他の学問へと自然に興味や視野が広がって行くきっかけを得ることが出来ると思った。
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池田信夫著「ハイエク 知識社会の自由主義」PHP新書(2008)
*通常の金融理論では、すべての市場参加者が完全あn知識に基づいて合理的に行動をすると課程し、市場は効率的なので市場に勝ち続ける事はできないと教える。しかし高い収益をあげ続けるヘッジファンドがあるいっぽうで、ロングタームキャピタルマネジメントのように破綻するファンドもある。このような不確実な世界を正しく予測していたほとんど唯一の経済学者としてフリードリヒ・ハイエクがいる。彼は生涯を通じて、社会主義と新古典派経済学に共通する「合理主義」と「完全な知識」という前提を攻撃し続けた。しかしその結果主流の経済学者からは徹底して無視された。しかし彼の死後15年以上経って、経済学はハイエクを再発見している。合理的な人々の行動を記述する「合理的期待」派のマクロ経済学やゲーム理論が行き詰まり、新古典派理論の根本的前提である「合理的経済人」の仮説が、「行動経済学」の多くの実験で疑問の余地なく反証された。つまり人々の行動には、非合理的なバイアスが伴っている。人々は不完全な知識のもとで慣習に従って(かならずしも合理的ではない)行動するハイエクは考えた。これは彼の一貫した新年であり、社会主義やケインズ的な計画主義が全盛だった1930年代にかれはほとんと1人でその通年に挑戦した。
*歴史を自由の拡大する課程ととらえる彼の進化論的発想は、ヘーゲルやマルクスにチアック、英米の分析的な経済学とは明らかに異質であった。一見、科学的な新古典派経済学ではなく、概念的だが人々の情緒に訴えるマルクスとハイエクの理論であった。
*ルーズベルト大統領が1930年代にとってニューディール政策にもとづく公共事業によって雇用を増やし景気を回復させたようにみえたためケインズ理論は大きな影響をもつことになった。
*ハイエクは政府が市場をかく乱すべきではないと論じたが、ケインズは目の前の問題を解決する手段があるとき、それを使わないのは政策当局の怠慢だと考えた。これは経済問題をどれほど辛抱強くかんがえるか、という社会哲学の違いかもしれない。ハイエクにとっては、市場の問題は長期的には市場が解決するはずだが、ケインズにとっては長期的にはみんなしんでしまうのだ。
*不確実性のもとでの主観的な意思決定を重視するのはオーストリア派の伝統であり、のちに紹介するようにハイエクの中心の思想でもある。また、功利主義のベンサム的計算を否定し、特に将来のリスクを数学的に計算して金利に織り込むと考えるフィッシャー流の経済理論を批判した点でハイエクとケインズの考えは似ていた。しかし、ケインズがその不確実性を政府によって除去しようとしたのに対して、ハイエクは市場によって不確実性は長期的に調整されると考えた。
*すてべの情報を単一のセンター、あるいはセンターとそれを支えるサブセンターに集める事は不可能である。知識は分権化される必要が有る。情報を所有する物が自分のために利用することで、情報の効率的な完全利用が実現する。従って分権化された情報には影響の自由と私的所有が付随していなければならない。つまり、これが計画経済(社会国家)��限界である。
*社会主義を理想とする人々が科学者に多い事も特徴的である。イギリスの科学雑誌「ネイチャー」は社会を科学的に組織する計画を繰り返し特集した。多くの科学者が資本主義の無政府性を批判し、国民を科学的に管理するシステムを提案。こうした科学者にとってダーウィンの進化論をモデルにして不可避な歴史法則を樹立したと自称する、エンゲルスの「科学的社会主義」はきわめてうけいれやすいものだった。
*ハイエクは1945年の論文「社会における知識の利用」で新しい経済学の考えを示した。かれはまず、市場が効率的な資源配分をもたらすという新古典派経済学の結論は、ある条件に依存していると指摘する。その決定的な条件とは、すべての人々が無限の将来にわたる完全な情報をもっているということである。しかし、すべての人々が完全な情報をもっていることはあり得ない。しかし、あたかもそれが満たされているかのように経済が動いているのはなぜか?『合理的な経済秩序の問題に特有の正確は、われわれが利用しなければならないさまざまな上お経についての知識が集中されて統合された形では決して存在せず、ただ、すべての別々の個人が所有する不完全でしばしば互いに矛盾する獅子期の分散された断片としてだけ存在するという事実によって、まさしく決定されているのである。すなわち、どの人にもその全体性においては与えられていない知識を「社会全体として」どう利用するかという問題なのである』
*西欧世界の自由主義には2つの伝統がある。1つは大陸の啓蒙思想に始まり、デカルトからルソー、そしてイギリスではホッブスに至る合理主義の思想である。ここでは痔湯は、合理的な主体の契約によって設立される国家によって保障される権利である。ルソーの思想はフランス革命の理論的支柱となった。このような合理主義は、大陸では一貫して主流であり、その後、カントを経てヘーゲルによって完成された。
*ハイエクは、利己心や自己愛は悪徳だと思われているが、それがなければ人々は金を儲けようとも思わないし、働こうとも思わない。そうした悪徳がビジネスを生み出し、人々を互いに豊かにするのだ。慈善事業の資金を稼いでいるのは、こうした悪徳を重ねている商人たちである。しかし人々が利己的に行動した結果、その利害が一致するのはどういう場合だろうか。おそらく一定のルールが必要であり、まったく自由放任で泥棒も偽金も許すという訳にはいかない。そのルールは誰かが意図的につくった物ではなく、言語のように長い年月をへて形成されてきたものだ。
*ハイエクが構想したのが、進化の概念にもとづく生物学モデルだ。生態系ではいろいろな生物が互いに補食したり寄生したりしながら、全体としてはバランスが保たれている。経済システムでも環境に適応した物が生き残る事に寄って非効率な個体が淘汰されるメカニズムがはたらいていると考えられる。しかし、経済システムが生態系と違うのは経済行動にはルールが必要だと言う事だ。むしろ自由を妨害している最大の要因は煩雑な寄生や政府の裁量的な介入なので、規制を撤廃してルールを明確化する制度設計こそ、自由な社会を実現するために重要なのである。
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著者の主義主張をハイエクの思想を借りて論じているだけのようにも思えるが、ハイエクの思想の概要を知る事は可能。ただし、著者の解釈・認識が正しいとは限らないので、内容を鵜呑みにせず、関連書籍を数冊読み比べる必要があるだろう。原典を自分で読みこなす能力があるのならそれがイチバンいいのは言うまでもないが。
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ハイエクについて知るための本というよりも、ハイエクの著書を通じて、過去から現在(2008年)の経済(金融危機当時)を著者の主張も含めて述べた本と言った感じ。
他のハイエクの解説を読んでもいまいちピンとこなかった自分だが、初めてハイエクの著書を読んでみたいと思えたのは意外。
ハイエクその人の語ったことをハイエクに成り代わって解説した書籍よりも、著者の解釈や主張も含めて書かれたこのような本の方が良いと感じた。
ハイエクというと、自由、貨幣、反マルクス、ケインズとの対戦ばかりで終わってしまうことが多いが、それらを必要なところ以外はざっくり削ぎ落としているので、自分のようなさらりと読みたいだけの人にはこのような本が読みやすいし、「深いところを知りたければ他の本をどうぞ」という姿勢が自分にはよかった。
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現代の日本社会に対する著者自身の意見を織り込みつつ、ハイエクの経済・社会思想を紹介している本です。
ハイエクの思想の哲学的な側面にも触れ、ヒュームの影響のもとで懐疑論的な立場を標榜することになった彼の思索が、現代のインターネットや進化論的な認知科学の動向にも通じるような洞察を含んでいたことも論じられており、読者の内にハイエクへの関心を掻き立てずにはおかないような魅力をもっています。
本書とおなじPHP新書からは、渡部昇一の『自由をいかに守るか ハイエクを読み直す』が刊行されており、どちらも著者自身の立場から比較的自由にハイエクの思想を読み解く試みがなされていますが、個人的には本書のほうが格段におもしろいと感じました。
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アダムスミスから受け継がれる市場経済に立脚したハイエクの思想と、それと対峙した社会主義やケインズ主義を中心に主要な経済学思想との比較を論じている。
当初は、異端であると考えられ評価されていなかったハイエクの自由主義的経済は、既に現在の米英的な資本主義経済を中心とした先進国経済の活動の中核的な理論となり主流となっている。
また、フリードマンを中心としたシカゴ学派による定量的なアプローチによって経済学の前提は、自己の利益を最大限に追求する個人としての経済人であり、これが経済学を現実の社会から乖離されている。ハイエクはこうした経済人的な個人の前提を否定し、人間は常に合理的な判断をすることができないという立場をとっている。ハイエクのこの考え方は、現在の経済学のフロンティアであるとも言える行動経済学の出発点となっている。
中央集権的に特定のプレーヤーによって管理される固定電話が、より自由であり自立的な存在であるインターネットによる脅威にさらされ、競争上の劣位にたたされているのは、ハイエクの唱える中央により管理の度合いの少ない自由経済であり、これこそが全体としての厚生を最大化するのである。
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経済学の基本も学ぶことができる内容だった。
ハイエクの思想は、ウィーンに生まれたことで大陸の遺産を受け継ぎ、英米に移住することで新しい世界と交わってできた。市場経済を擁護し、歴史の進歩を信じる理論のようでありながら、近代の合理主義を否定し、人間の無知を前提に置く。
ハイエクはオーストリア学派に分類される。その創始者のメンガーは、価値が消費者の必要で決まると考え、その心理に依存する相対的なものと考えた。市場の機能を高く評価する点ではシカゴ学派がその伝統を受け継いでいるが、シカゴ学派が新古典派の均衡理論を取り入れているのに対して、オーストリア学派は人間の非合理的な行動を分析することに注目した。
ケインズの「一般理論」は、大恐慌という特殊な時代の不完全雇用の状態に対応した特殊な政策だった。戦後の経済学者は政府が経済を自由にコントロールできると考え、慢性的なインフレの原因となった。財政政策によって紙幣を増発すると、インフレになって労働者の実質賃金が下がるため、労働需要が増えることで失業は減るが、インフレを折り込んで賃上げを行うと、失業率は元の水準に戻った。1970年頃から、欧米で失業率も物価上昇も高止まりするスタグフレーションが広がったことで、ケインズ政策が見直された。1980年代以降、フリードマンの主張に近い通貨供給を安定させる金融政策をとると、一時的に失業率が急上昇したが、やがてインフレが終息し、ついで景気も回復した。
社会的効用を最大化しようとする新古典派の福祉経済学は、論理的に成り立たない。ハイエクは、自由度を最大化するようなルールが望ましいと考えた(ルールの功利主義)。ベンサムの功利主義も計画主義として批判した。
世界49か国の法体系と経済成長率を比べると、規制が少なく分権的な英米法型の方が、権限が官僚に集中している大陸法型より有意に高い。ただし、大陸法型の日本の戦後の成長率が高かったように、発展段階にも依存する。権限が行政に集中する大陸法型は、遅れて近代化を進める国が国力を総動員するには向いている。明治憲法の骨格を固める際に伊藤博文に大きな影響を与えたのは、日々転変する現実に即応するためには、君主の命令や議会の立法ではなく、官僚の裁量が最も適しているというプロイセンの法学者の国家観だった。
失業率は、雇用規制の強い国ほど統計的に高い相関関係がある。最低賃金の引き上げによって、雇用されている労働者の賃金は上がるが、賃金コストが上がるために労働需要が減り、失業率は上がる。
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いつもブログを読んで勉強させてもらってる池田信夫氏の新著。
ハイエクといえば、一般的にはケインズに対置される存在の人物として理解されているのではないかと思います。
政府支出による有効需要創出を唱えたケインズに対して、サッチャーやレーガンによる「小さな政府」を志向した新自由主義思想の後ろ盾となったハイエク、というイメージがあるのではないかと。
そういうイメージで捉えると、昨今評判の悪い「市場原理主義者」の教祖みたいに思われてしまいそうですが、ハイエクの思想は決してそんな単純なものではない。
ハイエクの思想のうち、自分が最も共感するのは、人間の不完全性を認めた上で、理論で社会をコントロールしようとするあらゆる計画主義を否定している、という点です。
最適な経済を計画的に実現しようとする社会主義、国家が社会をあるべき姿に導くために個人を統御しようとするパターナリズム、これらは社会には「目指すべき目的」が存在することを前提としているわけですが、複雑な集合体である社会全体の「目的」を一意に決定することはナンセンスである。
それよりも、個人の「自由」な経済活動が最大限に発揮される状況を理想とすべきである、と。
そのことは「市場に委ねればあらゆることがうまくゆく」というような市場原理主義とは一線を画し、「自由」であること自体を重要視し、個人の自由度を最大化するルール作りを目指すもの、なのです。
…というのは自分の浅薄な理解に基づく要約ですが、池田氏の解説の語り口も相俟ってハイエクの思想はとても鮮やかさを感じさせるものなので読んでいて心地いい。
一方で、その深遠さを新書一冊読んだだけで真に理解できるものとも到底思えないのですが、その思想の一端に触れることで現在の社会・経済においてリアルタイムで起こっていることを見定めるためのスコープを持つためのヒントは得られたような気がします。
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フリードリヒ・ハイエクは1899年生まれの経済学者で、1974年にノーベル経済学賞を受賞している(1992年に死去)。その主張のユニークさから、主流の経済学者からは無視され、知識人からは嘲笑されたという。
といって、彼の主張は別に奇異でもなんでもない。
その根幹は、いわゆる「新古典派」経済学に見られる理念的で純化された前提からではなく、「人間は不完全な知識のもとで、必ずしも合理的とは言えない慣習に従った行動をする」という、フツーに考えれば当たり前の事実から出発していることにある。
つまり、計画され、規制された社会(たとえば社会主義)はうまく機能しない。野放図では話にならないが、人々の自由を尊重する分散自律型の社会生成を妨げないことがベターな(ベストではないが)解であろうと説く。
著者は、ハイエクの出自やケインズとの対立、主張の骨格や変遷などをひもときながら、インターネット(分散自律)時代である現代、さらに未来へと進むためには、今こそハイエクに学ぶべきだという。
そして、日本の官僚機構のムダ、知的財産権の欺瞞、電波やインターネットを行政や大企業が主導しようとすることの見当外れ、派遣など労働者施策の間違いなどを指摘する(これらはいずれも、既得の権益構造が社会を恣意的に規定しようとするものだ)。氏がいつもブログで主張している中味だ。
こうして見るとこの本、近代経済学の概観、ハイエクを通した現代~未来の捉え方について勉強になるばかりではなく、池田氏の入門書としても好適、ということになるだろう。