フリードマンと並ぶ最高の経済学者
2018/07/01 17:21
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投稿者:蒙リーニョ - この投稿者のレビュー一覧を見る
この本の著者は、フリードマンについての本を書いている経済学者である。その為か、本の内容には所々フリードマンの思想及びその考えについての比較についても述べられている。
ハイエクの著書を先に読むことは難しいが、考えについて分かりやすく書いているこの本からハイエクの著書に入ることが望ましいでしょう。
ハイエク入門書と言っても差し支えない。
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この本と一緒にこの著者のブログも読むと今の日本経済がよくわかる?
経済学に詳しくないのでもっと勉強していきたいなぁ。
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(2008/12/29読了)池田先生の本なので経済学視点オンリーの本なのかと思っていたら、第8章では日本がいかにガチガチの「実定法主義であるか」という法学面の論点も提供されており(それがblogにも書かれていた法律のスパゲティ化だったのですね)、興味深く読めました。
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久しぶりの読書
ハイエクのことより、著者の考えのが多いような気がする。
ト、2009.2.6
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池田先生のブログ、読んでいるので買いました。この表現力、さすがです。
内容そのものの精査は僕の専門外ですが、経済思想をはっきりさせる事は、経済学が学問だけでなく、政策に応用されるものだということ、そして、政策の決定に国民が関与している(投票という鼓動が政策への影響として程度の質量を持っているかはこの際置く)事を考えると、一つの重要なテーマのように思います。
ただ、学派とは先天的なものではなく、自分の研究内容や実証結果に応じてそうした思想は出来上がっていくんでしょうけどね。ま、所詮そんな事は建前ですけど。
ま、とにかく、読んでいて色々考えさせてくれる本というのは、先端の論文と同様に重要です。
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経済のおべんきょう
のつもりだったけど、いろいろと話が派生していて面白い。
経済のおべんきょうにはあまりならなかった。
行動経済学とかって面白そうです
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最近、注目されることの多いハイエクの入門書。ハイエクは自生的秩序を重んじ、計画主義には批判的であった。それは、人間の知識は不完全であるからだ。ハイエクは、功利主義を否定するかわりに、最大限の選択の自由を許す社会が望ましいという「ルールの功利主義」を提唱した。どちらかといえば、保守的な思考をもつ私にとって、ハイエクの思想は魅力的である。
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ハイエクの入門書というよりは、ハイエクを通して著者の主張するところを述べるという色が強いように思います。著者のブログを合わせて読んでいると理解が深まるかと思います。そういう意味で、きちんとハイエクを知りたければ、実際の著作に当るべきかもしれません。ただ、ハイエク自身の著作を読んでみたいなと思わせる内容にはなっています。
最後には、一貫して計画経済やケインズ主義の大きな政府に反対したその経済哲学および思想哲学を、インターネットの自立分散の分権システムを支える思想として紹介しています。帯に書いてあるように「インターネットを予見した」というのは言い過ぎでは、とも思いますが、数多の経済思想や原理の中で、現時点ではハイエクの主張する自由主義が生き残っているとみなされている中で、重要性が増している思想家なんだなと改めて思わされました。
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バランスの取れたコンパクトな入門書。21世紀のハイエクって視点は面白いと思う。でも,ハイエクって「これはダメ」って言ってくれるけど,「こうすればいい」って話には繋がりにくい気がする。まぁ,それこそが21世紀の我々が自分自身で考えなければならない問題なのかもしれませんが。
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私はずっと池田信夫という人をリバタリアンだと思い込んでいたが、そうでは無かった。
ハイエクの思想を、リバタリアニズムと表現するにはずっと保守的だし、保守というには自由すぎるということで、自由主義と名付けている。
規制されたケインズ主義への反抗であって、すべてを自由にせよと言っているわけではなく、淘汰という自然摂理が自律的に作用するからこそ、頬っておいても問題はない、だからリフレ派はおかしいというロジックに成っている。
このミッシングリンクを除外してインターネット上で話しが進んでいくため、リバタリアニズム全開なのかと疑ってしまいましたが、実際はそうではなく、自由を求めるというよりは、経済活動は民意に任せた方がより良い方向に進むであろうと言う結論を持っていると思える。
彼は経済学マニアではなく、哲学を一通り取り入れて解説している。事に、ハイエクはドイツ人であるので、カントから続くヘーゲルの理論を用いて論述している。
また、共産主義からの脱却が出来たのは、レーガノミクスやサッチャー時代からであり、ほんの30年程度の出来事であって、資本帝国主義社会の異常発達がなされたと思ってもいいかもしれない。
彼の文章には時折断定的な物言いが見られるが、それは間違いであると言ってもいいかもしれない。その失敗・成功というのは今の段階からの歴史的視点であって、500年後からみたら間違いかもしれない。
そして、知識人からしたら正解かもしれないが、非知識人からしたらどうでもいいことかもしれない。
最後に、ジョブズと会ったことも無いのに否定するのは頂けないなと思いながら、現在の光の道の話しに繋がる、無線帯域の適正分配の件、インターネット万能論が展開されるが、ここを読むと2年前から何も変わっていないことが垣間見える。
最後の最後にこう書いてあるのが、面白かった。
「ここでもインターネットという魔物は地上に呼び出され、またたく間に世界を支配してしまったので、好むと好まざるとにかかわらず、後戻りは不可能である。」
ハイエクの自由秩序という考え方が恣意的にインターネットに取り込まれたことではないだろうが、インターネット=魔物という構図が、それだけ不確かだが、驚異的な成長力を人々は恐怖しているのかもしれない。
過去からSFで語られている通り、いずれ知の集合体であるインターネットは自我を持ち始め、我々に変わる新しい生命体になるかもしれない。つまり、我々が取ってきた自由秩序とは新しい生命を生み出すための行為なのかもしれない。
2度目の積読であったが、この書籍は時間を開けて数回読まないと真意を測ることは出来ない、少なくとも私はそう思った。
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「不完全な知識にもとづいて生まれ、つねに進化を続ける秩序が、あらゆる合理的な計画をしのぐ」
ほとんど一人で社会主義やケインズ主義と戦ったハイエクは、彼が「計画主義」と呼んだ、社会を「目的合理的」に計画しようとする思想である。を否定した。
この考え方は、今注目されている行動経済学の根底にある考え方である
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資本主義の中で生きてて市場が本当にいつも正しいか、なんてことはまあ平均的な人はあまり考えません。特に日本で生きていると資本主義だと言いながら、不景気になるとやたら社会主義が流行って困ったことになります。
史上、何人も経済学者なんていましたが、マルクスもケインズも絶対なんてことはなかったわけです。そしてこれからもそうであるように、またハイエクも彼らを否定することで、またハイエク自身が新しく誰かに否定されることで経済云々が進んで行くわけです。
さて、そんな中で労働や賃金というのは一番個人的には気になるところだと思います。本書では同時間で掘るダイヤと鉄の鉱夫を例にとって説明されていますが、なんしかハイエクという人はその当時に主流だった観念みたいのにそぐわないことを言ってたのであまり世間の評価は高くなかったんですけど、今の時代になって注目されようとしているわけです。
中でも、気になった節があります。これは龍馬伝見ながらも思ってたんですけど、主観的価値というものです。まあ詳しいことは読んで確認してもらった方が早いですが、人によって欲しい物につける価値が変わってくるというものです。まあ当然な気もしますがざっくり言うと需要と供給だけでは要素として足りな過ぎとかそんな話ですね。弥太郎は付加価値に目を付けてうまく事業を拡大してました。
従って、かの有名な文句で誰かが言った神の見えざる手とかとても胡散臭くなる次第です。この辺に関しては平行して読んでいた『モーセと一神教』がなにげに理解を助長(?)してくれますね。唯一絶対の神への信仰って部分が日本人のおれにしては温度差を感じずにはいれない箇所でした。なので、同教徒にとっては受け入れやすい理屈だったかもしれません。そうやって本質からズレたところをハイエクみたいな人に突っつかれるのかなあと。
そして、特に読んで欲しいのはp137-138の官と民への言及です。どっちがどういう場合に向いてるか、かつてのロシアと西側を比較しています。これはとてもうなずけました。
内容が詰まってるのでなかなか感想としてまとまりませんが、読んでおく必要がある本だということは思いました。近頃は下手なノウハウ本が多くって何であんなもんが売れんのかと思っていますが、一冊まともな本読んだ方が表面的ではないノウハウとか自ずと気付けるようになる気がしますね。
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現・上武大学経営情報学部教授の池田信夫(1953-)によるフリードリッヒ・A・フォン・ハイエク(1899-1992)の入門書。
【構成】
第1章 帝国末期のウィーン
第2章 ハイエク対ケインズ
第3章 社会主義との闘い
第4章 自律分散の思想
第5章 合理主義への反逆
第6章 自由主義の経済政策
第7章 自生的秩序の真価
第8章 自由な社会のルール
第9章 21世紀のハイエク
おわりに
リーマン・ショック以来、市場経済における「自由」がそれまで以上に論じられてきたこともあり、ハイエクそしてケインズの見直し気運が起こっているように感じる。19世紀末から第一次大戦の戦禍により混沌としたウィーンで彼は育った。
恥ずかしながら、本書を読むまでハイエクと言えば『隷従への道』で知られる全体主義批判、あるいはケインズ経済学を批判した自由主義者、というぐらいの知識しか持ち合わせていなかった。
競争原理を有効にするために政府による介入・規制を最小限にとどめ、自由な経済活動を促進する、というのがハイエクの議論の中心であろう。そうであれば、必然的になぜ政府の「自由」ではなく、個人の「自由」が求められるのかという問いが議論の根幹となっていく。この問いについての議論は本書では十分でないように感じるが、著者は経済活動を行う個人の認識が不完全であることを説明した上で、下記のように述べる。
「自由に価値があるのは、新古典派経済学のいうように、それによって効率的な資源配分が実現するからではない。人々が神でない以上、合理的な社会的意志決定を行うことは不可能だからだである。(中略)自由の意味は、無知な人々が最大の選択肢を持ち、いろいろな可能性を試すことができることにある。このようにオプションを広げることによって効率が高まることは多いが、それが目的ではない(社会に目的なんかありえない)」(p.89)
本書後半になると、素朴な自由主義者だったハイエクが、晩年になるに連れ、立法による「自由」な社会の制度設計に関心を寄せるようになる様子が書かれている。ただし、第9章の「21世紀のハイエク」は部分は、ハイエクの思想紹介ではなく著者池田の主張であり、特に読むべきものはない。蛇足である。
率直に言って著者によるハイエク著作の引用、解説がどこまで適切なものかは判断がつきかねるが、読了後にハイエクの著作を読んでみようという気にさせるという点で入門書として及第点はクリアしているだろう。
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ハイエクという人の名前はぼんやり聞いたことはあったのですがどんな業績を残したのか全然知りませんでした。アダム・スミスやケインズのように、ミクロ・マクロの初級授業じゃぜんぜん出てこないですからね。
しかし、読んでみるととても面白かった。
普通、経済理論というと、いわゆる資本主義の市場経済重視と、社会主義・共産主義の計画経済という対立軸で語られることが多いと思います。ほとんどの社会主義国家が崩壊した現代では市場経済が正しくて、市場経済効率的な資源配分を実現するという新古典派が主流なわけですね。でも、市場経済重視の新古典派の理論も、社会主義・共産主義の典型的な計画経済も、人間の合理性を前提に置いている点ではどちらも同じ。その合理性を発揮するのが、市場の参加者すべてなのか、一部のエリートなのかという違いでしかない。
それに対して、ハイエクはその合理性の前提自体を疑ったと。前提を疑って、市場や政府が均衡なんていうほとんど計算不可能なところに経済をもっていけるなんて考えを否定した。で、合理的でも、均衡にもっていくこともできない人間ができることは、それぞれがそれぞれの目的にしたがって行動して漸進していける自由を設定することじゃないか、そのためには市場の規制は極力なくして自由な経済活動ができるようにしましょう、と。最終的には新古典派同様市場を重視する姿勢になるんですが、その理由は新古典派とは全然違うところからきているんですね。自由な経済活動によって最適な資源配分を実現するのが目的じゃなくて、市場の参加者それぞれが自由な経済活動できること自体が大事ということかな。新古典派の理論が全体として機能する精緻な機械のイメージなら、ハイエクのはそれぞれが自律的に動いていく細胞のあつまり的な感じでしょうか。
いままで単純に、いわゆる新古典派の市場経済とマルクス経済学の計画経済というぼんやりとした対立軸でしか経済理論を捉えていなかった身としては、経済学に対する見方が一気に変わる本でした。
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孤高の経済学者ハイエク。彼が生前提唱した自律分散型の思考の集積である「自生的秩序」とはいかなる概念であるのか。また、その思考と経済学、更には情報社会との関わりまで見えてくる。