紙の本
「死」を思うところから始められるエッセイ集
2008/09/09 11:38
4人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ちひ - この投稿者のレビュー一覧を見る
2004年9月から2007年2月まで『月刊J-novelに連載された、「死」をテーマにしたエッセイをまとめたもの。なぜ死をテーマにしたのかは、連載第1回分「さよなら、ゲンキ」の終わりに
「ラテン語で「死」は「モリ」と言う。メメント・モリ。死を想[おも]う。重苦しい。なぜよりによってそんなテーマを、と思われるだろうな。うん。僕もそう思う。思うけれど仕方がない。死は排除したいけれど、現実にそこにある。見て見ないふりはしたくない。平和を願うためには戦争を思わねばならない。この世界の豊かさや優しさを実感するためには、貧しさや憎悪から目を逸[そ]らしてはいけない。
だからメメント・モリ。これがこの連載のテーマ。」
とある。つまり「よりよく生きるためには死を思わねばならない」というのをやろうとしている。(でもそんなに、収録されているエッセイの全部が全部「死」をテーマにしているとも言えないと思う。)
今までの生涯において飼ったさまざまなペットたちとの関わりや、彼らの死のことを思ったり、TV報道における「死」の伝えられ方を思い、そこからニュースやワイドショウの内容・切り口の妥当性について思いを馳せたりもする。一方、役者から映画監督を経て、いま「売文家」として生計を立てている自分自身の変遷を思ったりもしている。かと思うと『歎異抄』第十三条を引き、自分で現代語訳したうえで「警戒すべきなのは外なる悪ではなく内なる善なのだ。」とまとめる回もある。
死を思い考える中で、思考は死から遠く離れた地点にまで自由に飛んでいくことがある。そのときはそのように語れば良い。そう言いたげである。
言われてみればその通りだ。全然関係のないことを考えているうち、いつの間にか「死」について考えていることもあるし、逆に「死」について考えているうちに全然関係のないことを一生懸命に考えていることもある。死は個人の思考の中では全然タブーではない。ならば、このように「死」を自由に考えるのもアリである。
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悩むことは精神的に疲れる。世の中の偉い人は悩みなんてないように見える。人文学的に考えれば、悩むことはとっても大切だ。でも社会、特にビジネスの世界では、悩むことはネガティブな意味になっている。僕たちはすべからくお金を持ちたいから、悩むことを放置しがちだ、精神的にも疲れるし。煽動される人の集団を大衆と呼ぶ。信仰を持てる人と同様に、悩むことを放置できる人は、ある意味では幸福だと言える。でも、どうしてもそれを放置できない人も確実に存在している。そんな人は、他者にコントロールされる代わりに、より深く複雑に悩みの中に潜り込んでいく。そんな人が世界を作っているんだろうと思う。
著者の意見は明快だ。彼はたくさんの人が死ぬことになる、戦争が嫌いなのだ。だから戦争にまで発展するかもしれないメディアコントロールに敏感なのだ。
僕らは道徳とか世論とかを持ち出してきて自分の感情を正当化したがる。それは責任逃れでもあり、集団に属して安らぎたいという無意識の現れでもある。でもそれは歴史を逆行していることなのだ。
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自分「僕」を主語にして、意見を書いているところに魅力を感じる。傲慢でなく、ナルシストでもない。「空気は読めない」と自身で書いているけれども、その自覚があるから、いわゆる「空気が読めない人」ではない。サラリーマン的社会性はかなり低いようなので、独身だろうと少し前まで思い込んでいたけれど、子どもが3人いて、ペットの動物たちも何匹も飼っていることが書かれていた。自分の生き方や考え方を淡々と貫くということと、家族を持つということと矛盾するのかと思っていた。生き物や人間が好きな人なのだろうと、この本を読んで思う。また森達也が好きになった。自分がどう見えるかということは、わかっているのに、興味がなさそうなところが、かっこよく感じる。
テレビのコメンテーターたちにたいして「おまえら最低だ」と書ききった。こんなことを書いても大丈夫なんだろうかと思うことがある。でも少し考えれてみればだれに対して気をつかってるかわからないこと、そんなことについて、よく考えた森達也が自分の言葉で自分の感じたことを書いている。迷いやわからなさもさらしながら。
表紙のバナナの写真はなんなのだろう。白に黄色の表紙が、テーマの「死」のわりにかわいい。友達は「バナナが好きなんじゃない」と言った。そうなのかもしれない。
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「平和を願うため、戦争を思わねばならない。この世界の豊さや優しさを実感するためには、貧しさや憎悪から目を逸らしてはならない」
そのために、それを知らせるために書かれたもの。
「テレビの箱の中で圧縮された記号化された『人の生き死に』を見開きしながら家族で夕食を楽しむ風景は、非常に変だ」
「姑息な自分を体験してほしい」
「警戒するのは外なる悪でなく、内なる善である」
どれもとても心に残った。
作者は、欺瞞を欺瞞として捉えないことの、感じないことの危険さを、
過去の体験、メディアへの批判、それを受け止める側の批判を通して行っている。
だから、「煩悶し続ける」伊坂幸太郎を信用しているんだと思う。
嘘を嘘だと感じなくなることへの恐怖を持ち続ける、その感覚を大事にする。
哲学書とまではいかないが、疑問を持たなかった点について、ドキッとされられる点は多い。半年に一度は読みなおして、自分の視点の狭さを認識したい。
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「生彩」というものは特に感じなかった。これがありのままの思いだ、と言われれば「そうか」ととるしかないが。
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小学校の低学年の頃、夜更けに布団の中に入ってから、ふと自分はいつ死ぬのだと考えた。きっかけはわからない。飼っていた虫か小動物がその日に死んでしまったとか、たぶんそんなところだろう。とにかく考えた。そしてとても強い恐怖に襲われた。
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考えることはしんどいです。流されてしまいたい、白黒つけたい、人間の性。でもそうしたら、大切なことに気付かず、見逃してしまうんだろうなあ。それも嫌です。読みながらそう思いました。
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最近ではメディアの云う事をそのまま鵜呑みにする人は少なくなってきたと思うが、それにしてもレベルの低下は甚だしいと思う。例えば新聞だどを読んでいても、明らかに事実を確認していないと思われる記事を目にすることがある。もっと勉強して欲しいと素人の自分でさえ呆れることがある。
森達也氏はメディア側の人々のなかで信用できる数少ない人だと思う。「メディアなんで信用できない」とはっきり述べているし、自分に不利になるようなことも隠蔽せずに書いている(ように見える。所詮真実なんてわからないのだと思う。)
森氏の著書を読むと非常に勉強になる。メディアとどう対峙すればよいのかがわかるからだ。業界の嫌われ者とご本人は述べているが、これはきっと真実なのだろうと思う。
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メモ→ https://twitter.com/lumciningnbdurw/status/1346758306660929537?s=21