紙の本
努力と工夫で豊かさを手にいれられた時代
2009/01/04 05:24
12人中、11人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:Shinji@py - この投稿者のレビュー一覧を見る
江戸時代後期に頻発した農民による「一揆は、搾取されているかわいそうな人々が貧しさにおしつぶされて仕方なく起こしたのではなく、必要不可欠である自分たちの存在をもって、生活の有利を獲得するための方法であった。」むしろ現代のデモにちかかったと著者は言う。本気で支配階級に立ち向かうのなら、猟銃が使われるはずだが、それは使われず、もっぱら棒や熊手や鎌といった農民の生活を象徴するものを手に持って一揆に参加したそうである。そもそも農民が全人口の8割に対して武士は5%、武士の持つ武器が農民のものに対して特別優れていたわけでもなく、戦闘から長らく遠ざかって城勤めをする武士が農民とまともに戦って勝てるだろうか。ではなぜ、江戸時代、武士による支配が続いたかといえば、単にそれに代わる社会体制が提示されなかったためであると著者は考える。それは、投資家にふりまわされながら資本主義に代わる社会体制が見つからない現代の我々とよく似ている。
本書は白土三平の『カムイ伝』を題材にして江戸時代の庶民の生活を解説したものである。『カムイ伝』では階級闘争としての一揆が最も衝撃的な場面だが、本書はその背景として生きいきと描かれる庶民の生活に注目する。江戸時代は、庶民が自らの工夫と努力で豊かさを手にいれられた時代であったと言う。綿花の栽培、養蚕、イワシ漁などをもってそれを例証する。
対照的に、武士に対して『カムイ伝』は手厳しい。子供に武士道を説きながら夫の敵討ちを狙う武士の妻子はあっけなくカムイに殺され、職を失って『生きて恥をさらすぐらいなら、死を選ぶのが武士だ』と一家無理心中をする武士の様子は、さながら最近の我を失った無差別殺人を連想させる。武士は給料を受け取って生活していたのだから「現代のサラリーマンと同様だ」と著者は続ける。
『カムイ伝』で漁師が突風で海に投げ出される場面のせりふから。『船板一枚下は地獄の海で、生きる者どうし、お互いさまじゃねえか』『海で生きるもんは体一つが元手だ。家だとか物にこだわっちゃなんねえだ....一番近い陸に向かって逃げるだ』「職業はその仕事独特の人生観や関係意識を生み出していた」そうである。高々200年・300年前の話でも、歴史をさかのぼって俯瞰すると、考え方であり、生き方の幅が現在あまりにも狭くなっていないかと考えさせられる。
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大学の先生と言っても私とほぼ同世代で漫画から学問(興味分野と云った方がいいか?)のヒントを得たのだろう。教える相手は碌に本を読まない連中。白戸三平のカムイ伝は教える方,教わる方の両者にとって格好の教材となる。架空の日置藩のモデルに近いものはないか・・非人と云っているのが実際には穢多であること,穢多にもヒエラルキーがあること。山に住む人々,百姓の生き様,結団力,武士は今の世の日本人ではないか。生きるために何をした・・という問いかけ。若者訴えかけるヴィジュアル性はある。白戸三平・赤目プロと仲良くしておかないといけないね。新聞の書評も好意的であった
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カムイ伝のむこうに広がる江戸時代から「今」を読む
以前読んだ第1部を読み返し、第2部・外伝も読みたくなってきた。
カムイ伝では、穢多・非人を「非人」と呼んでいる。
史実は、犯罪者の処刑や死体の処理、物乞い・大道芸などは非人の仕事、穢多は牛馬の死体の処理をする皮役、皮革処理・皮細工、灯心売買など。
関山直太郎
幕末の人口約3200万人
武士 6〜7%
農民 80カラ85%
町人(工・商) 5〜6%
神官・僧侶 1.5%
穢多・非人 1.6%
「なぜ死ぬとわかっていながら生きなければならないのか、という疑問」
「テロ行為・組織も今は世界的に絶対悪として位置づけられているが、資本主義経済の矛盾や不公平・植民地主義と無関係ではない」
「この世に生きる物はすべて、ふとした瞬間に死んでゆく、実に何気ない」
「生と死に決定的な違いがあるように思われるが、生き物の視点から見ると生も死も明確な区別はない」
「食べ物がどこから来るのか知らない、考えようともしない、・・・現代の日本人」
「武士は何のためにいたのか?・・・今の社会で有用だと思われている人々や職種の中にも、本当は要らないものがあるはずだ。今の社会で無用だと思われている事柄の中に、真に社会や世界の救いになるものがあるだろう」
「カムイの潜む現代社会・・・この社会は驚くほど変わっていない、階級も格差もますます健在だ」
「正助のこの向上心と純粋な気持ちこそが、現代まで続く人類の環境破壊の原動力になってきたのではないか」
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http://okaz.wordpress.com/2009/08/20/%e3%82%ab%e3%83%a0%e3%82%a4%e4%bc%9d%e8%ac%9b%e7%be%a9/
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僕がこの本に出会ったのはとある町の古本屋で、今回この記事を書くために再読していると、当時のことがありありと思い出されてきて、少し複雑な気持ちになりました。カムイはやはり、今も我々の近くにいます。
僕がこの本に出会うきっかけとなったのは2009年に仕事の関係で一ヶ月ほど東京に滞在していた時に貪り読んでいた白戸三平の『カムイ伝 全集』がきっかけでした。本編のカムイ伝と平行してとある古本屋でこれを見つけたのがきっかけで、今回記事を書くために再読してあんまりここでは触れませんが、そのときにあったさまざまな出来事があって、少し複雑な気持ちになってしまいました。
カムイ伝については不朽の名作であることは当然こととして前から読もう読もうと思っていたけれども、なかなか読めずじまいで、仕事の合間合間に暇な日がはさまれていて、偶然、近くの図書館に『カムイ伝全集』を揃えてあるところがあって、この機会だから読んでみたいと思っていたので手にして読んでみることにしました。
その内容は衝撃的でした。漫画という表現媒体を通してここまで差別や階級闘争を徹底して描けるものなのかと。そしてその合間合間に詳細に描かれる人々の生活や産業、商業にかかわるさまざまな『知恵』にも深く言及されていて、僕は打ちのめされたことを覚えています。しかも何十年も前の作品であるという事実も僕にはとても信じられませんでした。当然、今以上に検閲も激しかったはずである。
そして、僕が驚いたのが今日の格差社会のことを暗示するかのような『お上』とのすさまじいまでの階級闘争が描かれてあったことでした。この本の基になったものは大学の講義としてまとめられたもので、百姓がただ単に農作業に従じていたわけでもなく、蚕を育てて糸を作っていたり、商人と提携して流通の経路を広げようとしたり、一揆によって、自分たちの意見を『上』に通そうとするなどの多様な『生き方』をこの本を読んで理解を深めることが出来ました。
マンガの本編を読んだあとだとさらに理解は深まるかと思いますが、先に読んでそれからマンガを読んでも、面白いかと思われます。
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田中優子法政大学社会学部教授の「カムイ伝講義」をやっと読んだ。
この解説があると理解が深まる。
Webに連載していたようだ → http://kamui.shogakukan.co.jp/kamui/
私が年を重ねたということもあるが、
今度読むときは、最初に読んだ印象とまるで違うだろうと確信した。
ちょっと今はカムイ伝本編は読む時間がないが…
カムイ伝の存在を知ったのは中学の頃。
当時の担任の先生が紹介してくださったが、
ホルンばかり吹いていて読もうという気が起きなかった。
次に大学の般教の科学史の参考文献として示され、
古本屋で「カムイ伝」と「明日のジョー」と共に購入。
当時は実家から大学に通っている頃で、父も読んでいた。
カムイ伝本編を理解すれば、歴史の講義は要らないという
大学教授もいるといっていた、中学の担任の先生言葉はけして
うそでも誇張でもないと今更ながら思う。
講義の口絵には「カムイ伝」は時代を超えて「いま」のためにある。
と書かれている。
常に歴史に学ぶ視点を持っていかなければならないな。
正助がリーダーとなって子供同士が地域間で争い、
彼の策略で相手に打ち勝つ場面がある。
「おい正助、おまえどうしてそう急にいろんな策が思いつくだ?」
「ハハハ、学問のおかげだ。」
「いろいろ本を読んでそれをいかしていくだ。」
また、農民の子供に文字を教える場面では
「うんだ。役に立たねえ学問は意味ねえからな」
とある。
農民・商人・非人等の働く人々と対比されるのが武士で、
何も生産せず農民に依存するその姿は、
自分の食料を確保出来ない現代の日本人に似ている。
現代は、下級武士がとてつもなく多くなったようともいえるとのこと。
「毛皮やダイヤモンドの背後にどのような搾取構造が潜んでいるか知らない。」
と「講義」で書いていることからもいえる。
著者は新渡戸稲造の武士道をクリティカルに評している。
全ては各人の認識次第であろう。
現代への生かし方は、それぞれ著書でいろいろな場面であるはずだ。
うまく活用していきたい。
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第2章 夙谷の住人達
・(江戸時代は)「国家」概念がいくらか形成されたゆえに、国家秩序のために誰がどういう役割を果たすか、という役割づけがおこなわれるようになる。具体的には、武士は軍役を果たす義務があったので、文武に励まなくてはならなかった(実態は、まったく軍役を果たすことはなくなり、官僚的な事務仕事になった)。農民は一貫して年貢を納める義務があった。職人はやはり軍役にともなうさまざまな道具類を作るべきものであったが、実際には戦争が起こらないので、その能力は布や紙や生活工芸品の生産に使われ、町人や農民の中に吸収されていった。土地持ちの商人は伝馬役などを務める役目があったが、やはり戦争や緊急事態がないので、宿場の商人を除けば、自由であり、基本的には納税義務さえも持たなかった。このように、当初想定されていた役割にもとづく四民の秩序化は、現実の中ではほぼ崩壊しており、貧富の差とも関係なかった。むしろ、武士は貧しく、ある程度職人か、商人化しなければ生きてゆけなかった。農民は盤石だったが、生産構造が大きく転換してゆく中で、食料生産だけでなく手工業品生産も担うようになり、職人や商人の能力ももつようになった。商人は非常に裕福になり、武士に代わって実際の文化創造を担うようになっていった。
・江戸時代を単に士農工商と被差別民の身分制度としてでなく、多くの社会グループの存在する時代、その内部が身分制度化されている時代、そして社会グループ相互の複雑な関係を作っている時代、ととらえたほうが、『カムイ伝』の世界を解くことになる。
第3章 綿花を育てる人々
・江戸時代の日本橋には次々と木綿問屋が出現し、都市における木綿の着物は急速に広がっていったのである。一七世紀前半の帆布のような木綿と、一七世紀後半から現れる、着物に仕立てられる絹のような手触りの木綿とは、異なる木綿だったのではないか?
・江戸時代の日本は、イギリスと同様にインド、中国、アジア諸国からの輸入品にさらされながら、異なる方向をとった。それは多くの人が職を得て、それをネットワークし、それぞれの現場で集中して働きながら国内でモノを作り出す、という仕組みである。これは速水融により産業革命に対して勤労革命と呼ばれた。江戸時代は大量の職人を輩出した時代で、その技術力が近代産業の基礎になった。日本の技術力は単なる機械力ではなかったのである。
第6章一揆の歴史と伝統
・一揆衆はすぐにそれとわかる姿をした。中世では、袈裟や直垂の袖で頭を包み、顔を隠した。鼻を押さえ、声を変えて発言した。これらは、領主・領民の関係を断ち切って一気に参加していることを、姿形で表現しているのである。我々の時代ではこれらを「変装」と考え、逮捕や権力の追及を免れるためと思いがちだが、一揆は犯罪ではない(少なくとも本人の意識では)ので、そういうことではない。日常の自分とは異なる自分、つまり一揆衆に「なる」のであり、一揆が終わればまた日常のじぶんにかえってゆくのである。
・江戸時代の百姓一揆となると蓑を着て笠をかぶり、棒・熊手・鳶口・棹・鎌・まさかりなどを持つ、と���う姿が一般的となった。あるいは、非人姿となって袖乞をしたり、非人やハンセン病患者の来ていた柿色の衣を着て、アウトローであることを示したという。蓑を着て笠をかぶるという姿も、非人やハンセン病患者の姿も、永遠の旅をするスサノヲをかたどっている、と言われる。やはり日常の自分をいったん離れるのだ。
・棒・熊手・鳶口などの持ち物は打ち壊しに使う道具であるが、これらも実際の武器というよりも、農民の象徴として持っていたのではなかったろうか。なぜなら、江戸時代の農民は里に出てくる猪を撃つため銃をかなり持っているはずなのだが、一期には銃・刀・小刀・包丁などが登場しないのである。
・一揆には「世直し」を標榜する時代があった。江戸時代後半のことである。これは「世直し大明神様」という宛名で徳政(質、借金の返済を棒引きすること)の受諾書を富裕層に書かせる、という運動であった。この受諾書に反した場合、打ちこわしがおこなわれた。注目すべきなのは、百姓たちが自分たちで世直しをしようとしたのではなく、富裕層に世直しさせようとしたのだ、という点である。また自分たちに徳政を約束させようとしたのではなく、大明神に対して約束させたことである。一揆が世直しなのではなく、世直しできる人たちに、一揆によってそれをさせる、という点である。そこに、神や様々な象徴を媒介してシステムを変えようとする、一揆の特徴である。
第7章 海に生きる人々
・江戸時代の職業について、注目したいことが二つある。一つは、いかなる仕事も専業とは限らない、ということだ。江戸時代の人々がいかに多種多様の技能を一人の中に共存させていたかは繰り返し書いたが、彼らは生活の必要から出てきた生活技能(料理するとか家を修理するとか)のみならず、現金化することのできる複数の職能を持っていたこともあった。(中略)もう一つは、『日本永代蔵』の例で見たように、職能は多かれ少なかれ現金を生み出した、ということである。
第8章 山に生きる人々
・(16世紀には)日本の鉱山開発は砂金採取から、鉱山採掘の時代に入る。戦国時代の激しい競争の時代を迎え、江戸時代では日常の産業となる。つまり、鉱山開発が存在する、というだけで、日本は所謂「鎖国」体制とは異なる状況に置かれていたことが分かる。江戸時代の日本は、世界競争に巻き込まれていたのであり、それがあめに幕府による貿易統制も必要で、鉱山開発も産業の基礎に位置付けられていたのだ。
‣中世、日本の銀は元寇(マルコ=ポーロが介在?)、明の銀基準の経済、コロンブスの航海、後期倭寇(王直、つまり鉄砲伝来)、ザビエルの来日(日本の経済力にひかれて。そこ尾からキリシタン弾圧も始まる)、と歴史に大きく関係している。
・日本は銀山開発でアメリカ大陸のスペイン人に敗退した。江戸時代に入ってからの1609年、家康はフィリピン提督に、メキシコとの通商と、鉱山技師の招へいを依頼している。(中略)日本の銀は世界競争の矢面に立ち、そして敗れた。それが江戸時代という時代が成立する大きな要因であったことは、もう説明するまでもないだろう。
第12章 武士とは何か
・(水谷三公は)ほとんどすべての代償を払っても、武力行使を回避すべく務め���のは、ここの武士役人だけではない。江戸泰せそのものが武力行使を慎重に回避した。
・(その理由は)武士の武力上の特権とは、持っている刀の長さが違う、という程度の特権である。もう一つは、江戸時代は法治体制として国を作ったのであり、軍事体制として作ったわけではない、ということである。
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やっと読み終えた。
法政大学での授業を再現したものゆえに若者へのメッセージと捉えうるところがチラホラ。
「生」、裏返しての「死」、「自由」、「選択」などの全体としてのテーマとともに、「資格とは」「夢とは」などを問うてくる。
いまの学生には少し重いかも知れないが、大学で学ぶこととはなにかを考える一助になるので、高校生にも読んでもらいたい1冊である。
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「カムイ伝」が大学講義の教材として使われています。江戸時代を考える上で、カムイ伝に描写されている民俗や文化が非常に参考になり、私たちが一般的に抱いている階級社会、鎖国、町民文化といったイメージと異なった世界が見えてきます。
江戸時代は士農工商に分かれ、さらに穢多・非人といった被差別民がいたと言われています。でも、これらは差別というよりは職能で分かれていた意味合いが強く、当時は動物の皮革を武具のために使っていたために穢多を皮革職人として区別していた事情があります。また非人も、死んだ牛馬を解体する重要な役割を担っており、これらの人民の役割は他の階級にとって不可侵なものだったといいます。
同様に、江戸時代もっとも鉄砲を保有していたのは農民だと言われており、獣害対策や冬季の狩猟に使われていたといいます。一揆や強訴によって迫る農民に対してあくまで平和的に解決しようとする武士というなんとも矛盾した関係が描かれており、太平によって非生産階級となってしまった武士の弱体化が見られます。
江戸時代は、着物を中心に文化的な発展が見られた時代です。それまでは麻や絹が中心だった布織物に対して、中国から綿花が輸入されるようになります。その綿花を取り仕切っていたのがオランダであり、やがて中国からインドに綿花の生産国が移るに連れて、日本国内においても洒落たデザインの綿織物が出回るようになります。
国内では金山・銀山をはじめとした鉱物資源開発が進められ、幕府はこれらの鉱物資源を直轄地として支配しながら貿易を長崎に制限することで、綿製品の輸入を一手に管理することになります。一方で各藩は、自国領内での綿花栽培を奨励し、幕府からの綿製品による経済的な圧迫から逃れようとします。
つまり、日本の国内政治も西欧による大航海時代や産業革命の影響から無縁ではなく、むしろ鎖国によって情報統制することで幕府がグローバル化を上手く国内支配に繋げていたことが分かります。明治維新はむしろ国内の鉱物資源枯渇による購買力減少が原因であり、産業の高度化の必要に迫られた歴史的帰結と考えることができます。
このような歴史を振り返るにつけ、物質的なグローバル化から金融的なグローバル化へと変貌を遂げている現代の国際社会においても、同様のケースが起こっていることが分かります。つまり、護送船団方式によって守られた日本の第二次産業を中心とした労働集約的な産業構造が限界を迎えており、金融や情報の分野でまた産業の高度化の必要に迫られています。
このような時代において、一般大衆はどのように自分たちの身を守っていたのでしょうか。それは、生活に必要な最低限の衣食住を内製化し、サツマイモのような飢饉対策の作物を栽培し、漁業技術を発達させて、森林からの恵みによって生き延びたのです。
グローバル化社会において、農村回帰や第一次産業振興といった分野に注目が集まるのは、当たり前なのかもしれませんね。
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購入してから、ほぼ1年間「積読」状態であったが、この度ようやく読了。「積読」も効果絶大。あの時に購入していなければ、読むことがなかっただろうから。実に優れた良書である。しかも、その元になった『カムイ伝』が、これほど雄大で緻密な構造を持っていたことを、本書によって知ることができた。『カムイ伝』は江戸の日本ばかりか、当時の世界ともリンクしているし、それはまた現代の我々の問題でもある。
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実はカムイ伝を読んだことがない。
“ひとり ひとり カムイ”というフレーズが印象的な主題歌のアニメ「忍風カムイ外伝」は小学生のころ再放送でよくやってたので見ていた。疾走感あふれる画面や乾いたストーリーは大人のアニメとして今でも充分放送に耐えうる高クオリティの作品と思うが。
おっと、話題がそれたけど、劇画未見の私でもこの本は興味深く読めた。
この本はカムイ伝という劇画作品を論じるものではなく、あくまでカムイ伝を借りて江戸時代の社会の実像に迫っている。
「カムイ伝は穢多の記述が衝撃的で、その印象がひとり歩きしてしまったふしがある。」一般的に、穢多を「被差別民」としての受け身の側面で書いたものだけが目につくが、皮革を扱う「職能集団」として当時の社会から必要不可欠とされていたという能動的な側面にも焦点をあて、加差別と被差別という大きなテーマの前で隠れがちな本来的な姿を示してくれている。
同じ切り口で農民、武士の各階級の姿にも迫っている。
江戸期の農民を著者は研究の結果、「百姓と呼ばれることに誇りを持ち、その名のとおりじつに多様で、一人の人間にいくつもの技量(わざ)があり、自治的な村落経営をおこない、権力とわたりあって自らにふさわしい生活を獲得しようとする、そういう知恵者たち」と位置付けている。
江戸時代の社会階層を既成の固定化された見方だけで捉えていては、階層や格差といった見た目のワクに目を奪われ、そこで思考が止まり、実は社会的なワクや制約の中でもしたたかに生き、カムイのようにワクを飛び越えさえしたような「教科書に載らない歴史」は見えない。
階層や格差が人間社会で生きる以上避け得ないものとしても、それらのワクを軽くはみ出し、超越するような人間の力の可能性を信じたい。
それは現代社会に生きる私たちのあり方や考え方にも通じるが、江戸時代の社会とカムイ伝にそのヒントを著者は見出している。
「いまもカムイはどこかに潜んでいる」-巻頭のこの言葉にそれが集約されている。
(2012/2/12)
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江戸時代は、世界史上まれにみる平和な時代で、地方の村々の自治やら、江戸などでは庶民文化の繁栄を謳歌した時代といわれるようになった。ではあの1970年前後のころに大ヒットした白土三平の劇画『カムイ伝』の百姓一揆の世界は何だったかということになるのだが、
この本によると『カムイ伝』は、江戸時代初期の17世紀の大阪周辺の和泉国のある近郊農村を舞台にした、ないしヒントにしたものらしい。まだ戦国浪人もあぶれていて大河川付替などの開発ラッシュの時代である。「平和な江戸時代」とは18世紀から19世紀初期をいうのだった。
江戸時代は、農地の年貢を除いた税制一般についてはまるで研究が進んでいないのが実情とも書かれてあった。
この本の後半は文体も全く異なり、二名の共著にすべきだったということが、後書きでほのめかされていた。
田中優子『カムイ伝講義』2008 小学館
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白土三平のマンガ「カムイ伝」「カムイ外伝」を教材とし、
当時の江戸の暮らし─特に農民や非人、穢多の暮らしへと
誘う本。これを読むと我々が思っている江戸時代史という
ものがいかに表層しかなぞっていないかということがよく
わかる。本の最後数十ページがこの本の一番肝心要のところ
だろう。最後まできちんと読んで欲しい本であった。