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たしかにそういう見方はあるだろうなあ、と思う。生きるために他の生き物の命をもらっているのを忘れてしまっていること。家族と会話もせず、テレビを見ている生活。ツイアビの生活になることはできないけれど、こういうのは改めた方がいいと思う。できるところから。
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「全ての職業は、それだけでは不完全なのだ」
体の手足と一緒のように職業も、すべては一緒になりたがっている。
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何度も再読して浸透させたい。
印象的な言葉をメモしながら読むと、多くって手が疲れた。話し言葉で、一文ではなく長い前後の説明もあわせて一文になっているものあるけど。
印象的な文の中でも特に『考えるという重い病気』という言葉には驚いた。そんなこと感じたことなかったけど、言われてみれば確かにそれもあるような。
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もしツイアビが物質文明のみならずキリスト教への信仰心をも否定していたら、この本が出版されることはやっぱりなかったんだろうか?終章あたりで突然キリスト教プロパガンダ的な内容になってきたことに戸惑った。戦後の荒廃の中で人々が社会そのものや神に対して疑義を抱きはじめたんだとしたら、 ってここまで書いたところで知ったんだけどこれフィクションなのかよ〜〜〜そりゃヨーロッパ人にとって奇妙なまでに都合のいい話なわけだ。読みながらずっとそこに違和感を感じていた。
西洋人が持ってきたものは何だろうと全部却下してやろうみたいな偏見と先入観に基づいた考え方を根っこに持つことなく、真理だと思ったものを真理だと受け入れるその折り合いの付け方は見習いたいけれど、それ以外に関して取り入れたいとか示唆に富むとかっていうふうには感じられなかった。単なる違いでしかないというか。
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本書は、ドイツ人エーリッヒ・ショイルマンにより1920年に発表され、その後1977年にドイツで復刊された原書を、1981年に日本語訳、2009年に文庫にて再刊されたものである。
著者は、まえがきで「この話は、ヨーロッパ大陸の進んだ文明から自分を区別し、解放しようとする原始の人びとの呼びかけであり、それ以外のなにものでもない」、「世界大戦によって、私たちヨーロッパ人は、人間そのものに対する不信を持つにいたった。今こそもう一度、物ごとを調べ直し、私たちの文明は、果たして本当に私たちを理想へ向かわせるものであるかどうか考え直さなければならない」と語っているが、第一次大戦終戦直後のヨーロッパにあって、現代文明の発展の行き着くところに生じた戦争を見て、人間が本当に目指すべきものは何なのかを改めて考えるべきと、警鐘をならしたのである。
本書で、南太平洋サモア諸島の酋長ツイアビは、「パパラギ(現地語で「白人」の意)のからだをおおう腰布とむしろについて」、「丸い金属と重たい紙について」、「たくさんの物がパパラギを貧しくしている」、「パパラギにはひまがない」、「大いなる心は機械よりも強い」、「パパラギの職業について~そしてそのため彼らがいかに混乱しているか」、「考えるという重い病気」など、現代文明で当たり前と考えられることに対する疑問を率直に語っている。
本書について著者は、ツイアビが現地語で語った話を、ヨーロッパの人々のためにドイツで紹介したと書いているが、現在では著者による完全な創作であることが知られている。
フィクションとはいえ、発表から約100年経ち、益々機械文明の進んだ現在において、本書の提起する問題は一層深刻さを増しており、改めて耳を傾けるべき話といえよう。
(2010年10月了)
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「パパラギ」ツイアビ
白人の世界で1人の人間の重さを測るのは、気高さでも勇気でも心の輝きでもなく、1日にどれくらいたくさんのお金を作る事ができるか?どのくらいたくさんのお金をしまっているかである。
ギラギラ光り、ピカピカ輝き、しじゅう色目を使って自分を目立たせようとしている白人の物は、体を美しくしたとしても、その目を輝かせた事もその心を強くした事もない。
私たちの言葉に「ラウ」というのがあって、これは「私の」という意味であり、同時に「おまえの」という意味でもある。
白人はいつも早く着く事だけを考えている。早く着けばまた新しい目的に呼ばれる。こうして一生休みなしに駆け抜ける。
同じ仕事の繰り返しほど人間にとって辛い事はない。
教養のある人間になにか質問するとしよう。おまえの口がまだ閉じていないのに、彼はお前を目がけて答えを発射する。彼の頭にはいつでも弾がこめられていて、いつでも撃てるようになっている。どのヨーロッパ人も、自分の頭をもっとも速い銃に仕立てる為に、その生涯の最良の時を費やしてしまう。この考え病を治す方法は、忘れる事、思想を投げ捨てる事である。
私たちは、からだをいっそう強くし、心をいっそう楽しく快くすることでなければ何もしてはならないし、する事は許されない。
神様の光とは、互いに愛し合い、心にいっぱいのあいさつを作る事。
私には6歳になる女の子がいます。この子が肉体の、物質的な欲望ではなく、魂の願いに耳傾けるように育ってくれる事を私は望んでいます。私の最大の願いは、自分自身と他人とを、みんながもう少し愛するようになる事です。
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【曾田友紀子先生】
「パパラギ」とは、サモア語で「空を打ち破って来た人」の意味である。ヨーロッパから船でやって来たその白い帆を見てサモアの人々は、空にあいた穴だと思い、その穴を通ってヨーロッパ人が来ると思ったそうだ。1920年代、西サモアの酋長だったツイアビはヨーロッパを旅行し、サモアの生活こそがすばらしいと村の人々に説いていた。彼と親しくなったヨーロッパ人ショイルマンは、後に彼の演説をヨーロッパに紹介した。それがドイツ語で書かれた原著である。本書の魅力は、技術の発展が何をもたらしたかを問うツイアビの価値観にある。「石の箱」と称される鉄筋コンクリート住宅に住み、「若者が、娘を妻にしようと思っても、からだは見せてもらえない…」と洋服を着用するパパラギの生活を嘆き、「肉は罪」とするパパラギを批判し、「パパラギにはひまがない」と憐れむツイアビの演説は、現代を生きるわれわれに多くの示唆と適度の笑いを与えてくれる。
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文明は発展し、機械化が進む事で人類は豊かな生活を手に入れた。しかし、豊かになったというのはなんなのだろうか。朝から晩まで日が暮れた後も働き、粗末な飯を食べ、通帳の残高が増えるのを眺めるのが豊かなのだろうか。
サモアの酋長ツイアビはそんな現代人へ警告を鳴らす。しかし、もう戻れない。恐らくサモア人も。人は豊かになる事に貪欲である。それは人類がここまで進化した最も大きな特徴であろう。豊かに、より豊かに、その進化のスピードが人類の思想のスピードを超えてしまったのだろう。酋長ツイアビから見たパパラギは、現代の日本も同様だ。なんのために働き、なんのために生きるのか。思考することすら放棄するツイアビには、理解できないが現代人としては思考する事を止めることはできない。
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「パパラギ~はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集~」
ウポル島、という。
オーストラリアの右上あたりに、サモアという地域があります。島々です。
その中の一つが、「ウポル島」。小さな島です。
少なくとも、この本が書かれたころは、大らかな原始共産制の暮しだったそうです。
1910年代のことです。
その島の酋長のツイアビという人が、いました。
いろいろあって、ツイアビさんは、ドイツに留学したそうです。
ツイアビさんというのは、酋長だったそうですから、ともあれ大人ではあったのでしょう。
さて、そのツイアビさんが、故郷ウポル島の人々に、
「ヨーロッパの人たちは、こんな暮らしをしているんだよ。おかしいねえ」
と、語った内容、というのがこの本です。
それを、ツイアビさんの友人であった、ドイツ人の(普通の文明人である)エーリッヒ・ショイルマンという人が本にしたそうです。
ショイルマンさんという人は、一時期サモアで暮らしたことがあり、ツイアビさんと友達だった、そうです。
パパラギ、という言葉は、サモア人のコトバで「白人」のこと、だそうです。
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そこまでで想像できるように、要するに、ちょっと気の利いた文明批判、文明批評な訳です。
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”私はたったひとつだけ、ヨーロッパでもお金を取られない、誰にでも好きなだけできることを見つけた。空気を吸うこと"
"パパラギは、たとえ百枚のむしろを持っていても、持たないものに一枚もやろうとはしない。それどころか、その人がむしろを持っていない、と言って非難したり、むしろがないのを、持たない人のせいにしたりする"
"あらゆる機械も、技術も、手品も、人の命を長くしたことは無いし、人を楽しく幸せにしたこともない"
"パパラギは、いつでも早く着くことだけを考えている。彼らの機械の大部分は、目的に早く着くことだけがねらいである。早く着けば、また新しい目的がパパラギを呼ぶ。こうしてパパラギは、一生、休みなしに駆け続ける"
と、言ったような調子。
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ちょっとした、短い、警句。アフォリズム。皮肉。ユーモア。風刺。
そういった本です。
そして、ツイアビさん、「まあだから、我々がパパラギに学ばねばならぬことは、まあ、無いな」という結論になります。
それを超えて何か、大きな結論や風景がある訳でもありません。
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だいたいそういう仕掛の本なんだな、というのは判っていて読みました。
(和田誠さん「ほんの数行」で紹介されていて、知ったんです)
正直に言うと、「はいはい、こういう話ね。判りました」と、軽く読んでいたのですが、
不思議と読んでいるうちに、なんだかちょっと清々しい気持ちに、なっちゃいました。
巻末で、浅井慎平さんが書いていたのですが、
「"パパラギ"は、都市人間の机の上の1本の椰子だ」
言い得て妙。
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この本は��どうやらドイツを中心に1910年代に世に出て、そこそこ流行ったようです。
そして、1970年代に再び復刊されたそうです。
読んで、ちょっと考えてみると。
資本主義、消費都市、都市生活。そういったものが勃興して、対抗するように「共産主義・社会主義」が現実的に出てきたのが、1910年代。
第2次大戦の荒廃の後。戦後生まれ世代による、左翼運動。ヒッピー、フラワームーブメントの70年代。
そういう一種の理想の流行とでも言うか。そういう流れがあるのかなあ、と思いました。
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「ブッシュマン」という映画がありました。1980年の南アフリカ映画だそうですが。
世代によっては、覚えていらっしゃるでしょうか。
あの映画と、味わいとしては同じですね。
クスっと笑える気軽な感じです。
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...それから、ネットで読んだんですが。
ウソなんですって。ツイアビさんという存在は。
エーリッヒ・ショイルマンさんというドイツ人の人が、サモアで一時期暮らしたのは事実だとして。
要は、ショイルマンさんが全般的に創作したんだそうです。
(まあ、ヒントになるようなサモア人の言説はあったのでしょうが)
実は、意外と知られていないそうで。確かに和田誠さんも、創作という前提ではなくて、この本について語っていました。
だからと言って、この本の素敵さは変わらない訳ですが。
手の込んだ創作。
いやあ、パパラギたちの、やりそうなことだなあ。と、ちょっと可笑しかったです。
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パパラギとは白人のこと。ウポル島(現西サモア)の酋長ツイアビが初めてパパラギの住むヨーロッパへ行き、その文化に触れ、帰国後に仲間に語った言葉を集めたもの。お金、職業、機械(鉄道、船)などの概念がないため、その独自の説明や見解が興味深い。物欲にまみれ、現代の生活に慣れきっている私たちには、いろいろと考えさせられる本であった。
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うん。あらすじから予測できることというか、なんというか、価値観の違い、だけではいけなかったのだろうか。
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サモアの酋長ツイアビが欧州視察の旅で見聞きした白人文化を、サモアの人々に語って聞かせる演説をまとめたもの。ほぼ100年前の話だが、不思議と現代と何も変わらない。忙しさ、お金、時間、仕事、機械、物欲、家族、住まい、都市・・・。白人(パパラギ)の家には光も風も届かない。腕に機械を巻きつけ、時間ばかりを気にしている。仕事を一つ覚え、一生その仕事から離れず魚も取れなければ畑を耕すこともできない。自然のままに生きてるサモアの人々から見ると、白人の生き方は不思議で危険なのだろう。ツイアビがサモアに人々に語りかける内容は、そのまま自分に言われているようで、なんとも気恥ずかしい気分。
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2018/3/9
・「パパラギは、巻貝のように堅い殻の中に住み、溶岩の割れ目に住むムカデのように、石と石のあいだで暮らしている。」 p.34
→価値観、文化が違いすぎて凄い文章。この章は色んなモノがさまざまな表現で形容されていて普通に面白かった
・「ーーー息をするのにもすぐに丸い金属と重たい紙が必要になるだろう。なぜなら、あらゆるヨーロッパ人が四六時中、新しくお金をとる理由を探しているのだから。」p.51
→痒い所に手が届くいいサービスだーーと思っていたものが、この文章を読んでから、がらっと価値観が変わった。
・「もてなしをしたからといって何かを要求したり、何かをしてやったからといってアローファ(交換品)を欲しがるような人間を、私たちは軽蔑する---という尊いならわしを、私たちは大切にしよう。」p.59
→僕も大切にしよう。
現代社会に埋没し、見失っていた価値・感覚を呼び覚まさせてくれた良本。
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南太平洋の島国サモアの酋長ツイアビが、ヨーロッパをその目で見て自国で語ったとされる100年ほど前の演説集である。
第三者の視点から近代ヨーロッパを見て、徹底的な観察と批評がなされる。
それは衣服や金銭、所有に依存した精神などに始まり、あげく時間そのものや、考えることへと移る。
確かにこれらは現代人が見てもより深刻に捉えられる問題であり、もはや世界的に同一の考え方で染まりつつある。
私たちはこれらの概念や、科学技術が支える進歩を義務とした生活から抜け出すことが容易ではない。100年近く前の話だが、時代は続き不動なものとなっているらしく、今読んでも新鮮な驚きがある。
だが最終章近くでそこまでになんとなく覚えた違和感の正体が決定的になったが、この話はかつてキリスト教の布教を受けそれを受け入れた島の酋長が見たとされるヨーロッパの現実、という体である。
そもそもキリスト教自体が極めてヨーロッパ的であり、それの根幹である神を善いものとしていることに違和感を覚え、調べたらやはり創作であるとのことであった。
冒頭の語ったとされる…とはそういうことだ。
しかし本書で語られること自体はそれが理由で唾棄されるものではないし、現代でも精彩を失わない強さがあり、ユーモアもあり単純に読み物としておもしろい。
私たちがなにかを考えるときや問題にするとき、現代的な、つまりヨーロッパ的思考や観念を源流とした概念が前提として頭にある。
従って全く異なる観点から物事を見るのであれば、そもそもの前提それ自体を客観的に知る必要がある。
決まった時間にとらわれた生活を意識しても、そもそも時間そのものを疑うことはなかなかない。
哲学的意味の時間存在への批判や懐疑ではなく、リアルな日常生活の上で構築され繰り返される時間割り振り、曜日や週間の単位が当たり前であるということ自体への疑問など。
進歩と素朴、どちらが正しいでもないが、私たちの「当たり前」を一考する上で読む価値は充分にある。
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ひろゆきが面白いって言ってた。
(ひろゆきがサンダルしか履かない理由の話のとき)
https://www.youtube.com/watch?v=7GIW-Bv6kPg