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どこかで見たことがあるかもしれない風景を、思いもよらなかった言葉で表現していてただただ引き込まれて読後も余韻が残る。
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「全ては伝記のようなものである」とルシアン・フロイドは言う。わたしたちが何をつくるか。なぜつくるのか、どんな風に犬を描くか、どんな人に惹かれるのか。なぜ忘れることができないのか。すべてはコラージュであり、遺伝でさえそうなのだ。わたしたちの中には他人が隠れている。」−『孤児』
初めて読んだ作家であるのだけれど、どこか懐かしさも感じるし、幾つもの思い出を語りたくもなる。そう言えば、この本を手に取ったのは、帯に書かれていたジュンパ・ラヒリの名前に釣られてのことだったが、ジュンパ・ラヒリの語る過去の物語と似たような手触りもある。それは、届きそうで届かない過去の人々の物語、過去と現在のどうしようもない強いつながり、というような印象を残す手触りだ。だがそれは、たとえば、引用した文章が示す事実に対して、人が自然と見出してしまう幻想のような距離の近さに過ぎないものなのかも知れない。この引用はこの本の中で読みながら折った唯一の犬の耳のページにあるものなのだけれど、後から振り返ってみると、確かにこの文章にこの本の核心が全て含まれているようにも感じる。気がつけば、あとがきで翻訳者も引用しているし、実は本の帯にも引用されている。やはり、過去が近しいという思い、それは幻想なのかも知れない、という考えが頭をよぎる。それでも、幾つもの思いが急に心の奥の方から湧きあがってくるのも、また、事実なのである。
20分ほどの道のりを自転車で学校に通っていたことがある。田んぼの中をまっすぐに通る道程である。田に水が入った直後の月明かりの夜など、水面に浮かぶ月を眺めながら見渡す限りの水田の中を駆け抜けて、浮揚感を味わうこともあった。そんなある意味での異次元的体験を呼び起こす道のりは、川霧の発生し易い場所でもあった。近くにあるバイパスは、霧の中で急に車が消えてしまったという逸話が子供たちのあいだでは伝説的に語られていたほどである(確かそういう超常現象を集めた本にも載っていたはず。藤代バイパスの怪とかなんという逸話)。
濃霧の中を自転車で走る経験は、今、改めて言葉にしてみると、世界の連続性ということに対する不信感を抱かせる体験でもあったように思う。それは自分の存在だけが元の世界からすっぽり切り抜かれて、別の世界へ配置され直してしまうような経験だ。濃い霧の中で、およそ人の営みの気配の感じられない田んぼの中の道を走りながら、このまま全く見知らぬ場所へ辿り着いてしまうのではないかという不安に何度も陥ったものだった。あるいはまた、何か未知のものが急に霧の中から現れるのではないかという不安。オンダーチェの「ディビザデロ通り」を読みながら、その時の気持ちが蘇ってくるのを感じる。
この小説では、全てのエピソードが濃霧の中から一瞬だけ姿を見せ、確かめる間もなく再び霧の中に沈んでゆく。霧は、空間の中の位置だけでなく、時間の中の位置の持つ意味も不確かなものにし、徐々に消し去ってゆく。語られるエピソードには、はっきりとした始まりもなくもちろん終わりもない。ただ一瞬だけ傍らを過ぎ去るだけだ。しかし少しずつ霧の向こう側にある世界の姿が想像されてくる。そうし���個々のエピソードが物語として立ち始める、つまり因果のようなものが緩やかに見え始める。その世界が構築されようとする刹那、霧はすべてを飲み込んだまま晴れ上がり始める。霧の向こう側には、いつもと変わらない世界があるだけなのだ。全ては文字通りの意味で霧散してしまう。
全ては断片であり、断片の組み合わせである。その意味が痛いほど解る。誰もが自分の人生の中ではみな主人公というけれど、その物語は一つの意味をなす物語ではない。人生は、とびとびのエピソードを特に意図せずに走り抜けていくだけのことなのかも知れない、そう思うと「真実」という言葉の持つ意味が急に色褪せる。そうだ、普段は霧による明らかな断絶を意識していないだけなのだ。
コラージュされた物語の中で、人は突然、自分の人生の意味を知ったりもする。秘せられた事実、意識の底に追いやられた記憶、そんなものが因果を張り付けないコラージュの中であるからこそ、逆にこちらとあちらを繋ぐものとして浮かび上がってくる。あるいは、それも、浮かび上がってくるように見えるだけなのかも知れないが。そしてその線とて、やがては霧とともに消え失せてしまう幻想である可能性は否定できない。幻想が果たして真実なのか、あるいはそれは問うことの意味すらない疑問であるのか。オンダーチェはもちろん語ることはない。
霧の中を抜けて見慣れた人家の気配が近寄ってくる頃になっても、自分の不安は完全には消えることはなかった。誰もいない教室で、一人クラスメートが来るのを待つ間、自分は、自分以外の全ての住民が消失した世界に迷い込んでしまったのではないか、という不安と依然向き合っていたのである。あるいは、見慣れた友人が自分を知らないと言い出すのではないか、と怯えながら。
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[ 内容 ]
血のつながらない姉妹と、親を殺された少年。
一人の父親のもと、きょうだいのように育った彼らを、ひとつの恋が引き裂く。
散り散りになった人生は、境界線上でかすかに触れあいながら、時の狭間へと消えていく。
和解できない家族。
成就しない愛。
叶うことのない思いが、異なる時代のいくつもの物語を、一本の糸でつないでいく―。
ブッカー賞作家が綴る、密やかな愛の物語。
[ 目次 ]
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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イングリッシュ・ペイシェントの著者マイケル・オンダーチェの「ディビザデロ通り」。フランスやアメリカの田舎の粗野な暮らし。自分のワールドと全然違いすぎて珍しく感情移入せず冷静に映画を見ている感覚になった。
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時代や場所を越え、重なったり離れたりするそれぞれの人生。登場人物たちは口数が少なく心の内を外に出そうとしません。暴力的な場面さえ静かに物語られます。独白体のものや会話が多用される最近の日本の小説に比べ、その静けさが新鮮で心地よかったです。
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カリフォルニアから物語は始まり、フランスの田舎で終わる。3人の子供の話から始まり、老作家の話で終わる。話は、水面の波紋のように広がり続ける。各物語は重なるようでもあり、全く独立しているようでもある。結末は語られない。読んでいる間、月夜のヨーロッパの田舎を、逞しい夫が御者で、疲れた馬にひかれた荷馬車に乗り、旅している気になった。名も過去もない、野原で猫と踊る放浪の民として。
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血の繋がらない三人の兄弟姉妹が一つ屋根のしたに暮らす平穏な生活は、ある一つの事件がきっかけとなって家族全員を引き裂き、ばらばらにしてしまう。哀しくも交錯する三人の人生は驚くことに時代と空間を越えて繋がっている。マイケルオンダーチェのさらりとした文章の中に溢れる郷愁や、全くいやらしさを感じさせない言葉の選び方に感心した。
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この本に感想書くのは難しい
故に、友達とかにオススメするのとかも難しい...感じ
まあ、書けないのは、表面しか理解してないからであり
一言で云えば未熟故
映画『イグリッシュ・ペイシェント』の原作者による...
っていう文句だけで借りました
イングリッシュペイシェントは好きな映画だったので
スタート地点から終点が予想できない感じ
前半の現代の男女によるあれやこれやが、後半の伏線のようになってないのが凄い
だって大概の物語ってそういう感じじゃない???
あ〜でもなんだろな、
この読了後のぽわんとした余韻心地よく。
もう、それしか表現できない
脳みそ足りない
終盤の一時的な狂気が堪らなくいい
ずっとじゃなくて点なの
全体的にも
点 点 点
の集まり
訳者あとがきにコラージュとあった
まさにそんな感じ
モノクロの画もあればカラーも、傷だらけの色褪せたヤツも
ひとつ云うなら
海外の小説にある、独特なモノの喩え(上手いんだけど)
を日本語にするときって
超シンプルな言い回しにしてくれないと
脳足りんには判りづらいわけですよ
もう手元に本が無いので正確には書けないのですが
もうっ!てなったのは
「目を覚まされた」
ってとこかな
起こされた、でいいじゃん、みたいな
ここだけ書くと別にわかるじゃん、って感じなんだけど
それまでもつらつら面倒な言い回しが続いてたのでイラッときちゃった☆
映像化は難しそうだな〜
しっとりとドライな感じが素敵なのだけど
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オンダーチェ「ディビザデロ通り」読んだ。 http://tinyurl.com/44k2n4h はー濃かった…前後で全然違う2つの話になって面食らう。違う話にどこか面影が。父娘(視点は替わる)、ガラス片、記憶、恋人の呼び違え、初恋、再生の望みと試み、誰かの人生をなぞる/埋める。
マイケルオンダーチェは「イギリス人の患者」が有名だけど、これまで読まず嫌いだった(イングリッシュペイシェントも観てない)。なんか感傷過多でパステル色で心正しい(?)気がして。これは完全に映画ポスターのせいだ笑。「ディビザデロ通り」がすばらしかったから、他のも読んでみよう。
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アメリカの血の繋がらない姉妹と、引き取られた少年の話から始まり、
後半はフランスの作家の生涯で終わる。
現代小説と古典小説が入り混じったような不思議な作品。
登場人物それぞれの人生が書き綴られ、
それが1つになって醸し出される哀愁が漂う作品。
アンナ、クレア、クープの行く末はどうなのだろうか。。。
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「イギリス人の患者」同様、登場人物のそれぞれが個性的で印象的に描きこまれています。どんどんこちらを引き込んでいく筆力を感じます。
主な登場人物、最初は3人なのですが、読み進んでいくと登場人物がどんどん増えていきます。しかもその人物たちの話の中での役割や軽重がよくわからず、誰だっけこの人、みたいな感じで、前に戻って読み直したりしながら前に進むといった感じでした。気合入れて読まないと作品に振り回されてしまいます。私は、そのへん適当に読んでいたので、最後の方に来て、大混乱。この作家は何を書いているのだろうといった感じで、読み終わりました。というか、これって、もしかして失敗作?最後の方は作者もまとめることができなくなって、面倒くさいから書きなぐって終わりにしちゃいましたって感じなのですが。もしかして、この続編があるのなら、それはそれで無理矢理でも納得してもいいのですが、余韻を残すというのとは違う、中途半端な終わり方で、消化不良です、当方は。
所詮小説なんてなんでもありなんでしょうが、これだけわくわくさせておいて、この終わり方は何!です。読み終わってから、話の途中でも、けっこうその話が破たんしていたりして、それっきりみたいな逸話の積み重ねがあり、お楽しみは最後にとっておこうみたいに、本当に最後がどうなるのかわくわくしながら読み進みました。が、このちんちくりんな終わり方は、正直がっかり。
話の中に泥棒が出てくるのですが、これも「イギリス人の患者」の同工異曲を感じてしまいました。同じ作家の作品を続けて読むのはよくないのかもしれませんねえ。「イギリス人の患者」のほうが圧倒的によかった。
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集められた家族、アンナ、クレア、クープの物語からはじまり、ばらばらになった彼らは大人になりそれぞれの人生を歩みはじめる。彼らが出会う、関わりになる人々のそれぞれの物語へ展開されていく。いつの間にか主人公、主要人物が入れ替わり、また別の物語になっていくが、最初の家族の構造が再現されていることにも気がつく。親しかったからこその名前の言い間違い。後半の夢と現実が交錯するのは『イギリス人の患者』を彷彿とさせる。青いテーブルのイマージュ、すべてはコラージュ、そしてまた人生も。
*
巻頭にコレットの葬儀のエピソードがあったのでコレットの話になるのかと思ったけれどそうじゃなかったな。後半、作家が名前を変えて作品を出版するというところが、当初、夫のゴーストライターだった過去があるコレットに繋がるのかなと思ったけれども、あんまり関係ないかもしれない。だんだん登場人物が多くなってくるので半分くらい読んでから家系図をメモしながら読んだ。翻訳者のあとがきも、作品の余韻を残してくれた。
*
"すべてはコラージュだ。私たちが何をつくるのか、なぜつくるのか、どんな人に惹かれるのか、なぜ忘れることができないのか。すべてはコラージュであり、遺伝でさえそうなのだ。私たちの中には他人が隠れている。短期間しか知らなかった人さえ隠れていて私たちは死ぬまでそれを抱え続ける。国境を越えるたびに、それを自分の中に封じ込める。"
http://en.wikipedia.org/wiki/Divisadero_(novel)
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『イングリッシュ・ペイシェント』を映画で見ただけで、初オンダーチェ。
普通の人間の人生の一時期をいくつも描き、それぞれが緩やかに繋がっているのが面白い。クンデラみたいな感じもするけど、あそこまで作者がしゃしゃりでてこない。『最終目的地』に似た雰囲気もあった。
うまくつなぐと、確かに映画にもなりそうな感じはするが、セグーラのエピソード以外は終わった感じがしないので難しいかな。
個人的にはアンナ、クレア、クープの出てくるアメリカ編(って名前ついてないけど)より、セグーラの生涯をたどるフランス編(って名前ついてないですよ)が好き。セグーラと隣の家の幼妻マリ=ネージュが惹かれあいながら、互いに本を読み聞かせするシーン、結婚式の日の二人のダンスシーン、とても美しい。
乗れるまでちょっと時間がかかったが、読んでよかった。