紙の本
パレスチナ難民のリーダーの1人としてあって、対立せざるを得ない人びとの立場を厳しくも描きながら、「和平」と「異文化共存」の可能性を示した偉大なる作家の作品集。
2009/04/15 14:00
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投稿者:中村びわ - この投稿者のレビュー一覧を見る
PLO(パレスチナ解放機構)のアラファト議長は、私が小中学生だった1960年代半ば過ぎから1970年代半ばぐらいまで、国際ニュースの常連であった。「パレスチナ」という言葉は、その少し奇妙な響きゆえに耳に親しく、石油を日本にもたらしてくれるアラブの国の人びとはああいう風なのか、つまり、布をかぶってヒゲをはやしているものなのだと、あの顔を見るにつけ刷り込まれていった。
何の折だったか、小学4年か5年のころ、中東情勢に興味を持って父親に説明を求めたことがある。父は地方紙か日経か、新聞を広げながら折り込みチラシの裏に地図を描き、丁寧に書いているつもりらしいが乱暴にしか見えない字で言葉をいくつか書き込み、その地域の経緯を解説してくれた。亡父の思い出としては、数少ない良いイメージが残る1つである。
今の子どもや若者たちにとって「パレスチナ」とはどのようなものなのか。結構な量の情報が詰め込まれた某中学受験用テキストには、1ページを割いて中東和平についてのコラムがある。そこには、第二次大戦後のイスラエル建国により中東戦争が引き起こされ、パレスチナに住んでいた80万人のアラブ人が追放され難民が出たと書かれている。アラファトは「パレスチナ人の指導者」とされ、細字で出ているので、試験用に暗記をしておく必要はない人名だということが分かる。PLOの記載はなかった。
このように「パレスチナ」が、蒙古帝国や神聖ローマ帝国のような歴史上にかつて存在した場所であるかのように扱われるようになってしまった現代において、1978年の初版発行から1988年の新装新版を経て、再び新装新版でよみがえったのが、パレスチナの作家ガッサーン・カナファーニーの作品集である本書である。
カナファーニーはPLOの急進勢力であるPFLP(パレスチナ解放人民戦線)のスポークスマンを務めた。1948年、イスラエル建国の直前に起こった、ある村の虐殺事件の衝撃で少なくないパレスチナ人が難民となり、そこにカナファーニーの家族も含まれていた。中学受験用テキストでは曖昧な書き方だが、難民は中東戦争勃発後からではなく、この時点ですでに発生している。 その日、ちょうど12歳になったカナファーニーは、生涯二度と再び、自らの誕生日を祝わなかったという。そして、祝えない誕生日をそう何回も迎えることなく、36歳のときに車に仕掛けられたダイナマイトで姪と共に爆死した。これは後に、特殊部隊モサドが仕掛けたことだとイスラエルが公式に認めたという。
ネット上の情報によれば、30年前に初版で出た本書が新装で、このタイミングで復刊されたのは、昨年のイスラエルによるパレスチナ自治区ガザへの侵攻に絡め、日経新聞にこの本のことが紹介されたかららしい。
優れた文学は時代をくっきり映す鏡であるから、私たちはパレスチナ難民がどのようにして生まれたのかという遠い出来事を、ここに収められた作品により生々しく追体験することができる。それがこの復刊の1つの価値である。その体験の流れを「文学により社会へ、そして再び文学へ(文学→社会→文学)」とも表せるだろう。
そして、それよりも大きな価値だと、少なくとも私はそう考えるのだが、それとは逆の「社会→文学→社会」として表せる価値がある。ここでは、皮肉なことに、ガザ侵攻という新たな悲劇が、人々に忘れ去られ埋もれそうになっていた優れた作品を掘り返し、その文学的価値の不変を人びとに問うたのである。
表題作となっている2作品が巻頭と巻末を飾る役割を果たしているのだが、「36歳で爆死をしなければ……」ということを、やはりどうしても考えてしまう。「亡くならなければ、彼の活動はさらに混迷を極め、文学よりも行動の方が忙しくなっていたであろうから」とも考えられる。しかし、書き続けていれば、アジアの作家として、世界文学の担い手として、一体どれだけの高みに達していたことだろうかと溜め息をもらさずにはいられない。
書かれているのは確かにパレスチナ難民のことや難民社会のことである。けれども、自分たちの主義主張を声高に叫ぶものではなく、パレスチナという不条理に取り囲まれた社会だからこそ起きてしまった出来事、起き得たであろう出来事が、円熟した作家の持つ余裕を従え、柔和と緊張感のメリハリあるバランスでもって書かれている。
「ハイファに戻って」に織り込まれた1つのエピソードにより、私はカナファーニーという人の度量の大きさに触れた。それは、文豪たちが芸術的な表現によってもたらしてくれる陶酔とはまた別の味わいの美的な感動であった。
ここでは、イスラエル建国の3週間ほど前にハイファで起きた戦闘による混乱で、赤ん坊を置き去りにせざるを得なかったパレスチナ人夫婦の20年後が書かれている。意を決して、赤ん坊を残してきた自分たちの家を再訪することになった夫婦は、そこがユダヤ人入植者に利用されていることを知っている。離れ離れになった息子の情報が少しでも分かれば良いと思っての帰還であったが、幸いにも知ることができた消息は、パレスチナを真っ向から否定するような皮肉なものであった。
カナファーニーは、パレスチナの歴史が一家族に降りかけた不条理を書きながら、主人公の夫の回想をはさむ形で、入植したユダヤ人がもたらした奇跡的なエピソードを提示している。私には、そのようなエピソードを書いた人物が、反イスラエル、反帝国主義の下にテロをも辞さないグループを率いていたとは、とても信じられない。そして、住んでいた場所を追われ、「難民生活を強いられた経験があるにも拘わらず」、感情的怒りを注入することなく、いかにしてこのような物語が書けたのかが不思議でならない。
しかし、「難民生活を強いられた経験があったからこそ」、対立せざるを得ない人びとの立場を厳しく描き切ることができ、そのなかにするりと「和平」と「異文化共存」の可能性があるとすればこういうものなのだという形を示すことができたのだとも思う。
こういうことができた人物の命を収奪したことの贖罪はともかくとして、その損失を一体誰が担ってくれるというのであろうか。
(書き出しのアラファトの外見についての話は、「ハイファに戻って」の挿話に倣ってみたものなのです)
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私が図書館で取り寄せたのはもっと古い、アラブ小説集だが、
少しでも多くの人に手にとってもらいたい。
憎しみの連鎖はこうして生まれていく。
突然断ち切られる幸せ。
ちょうど、村上春樹さんのイスラエルでの演説もあり、心に響く一冊。
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(2009.03.17読了)
イスラエルによるガザ地区への攻撃が治まったころ、「ハイファに戻って」が日経朝刊のコラム「春秋」で紹介されて、品切れになっていたこの本が、復刊になりました。
復刊になる前は、図書館の予約待ちが40人ほどあったので、予約をあきらめたのですが、復刊された本の予約待ちがほとんどなかったので、予約したらすぐ回ってきました。
著者は、パレスチナ生まれの作家で、PFLPのスポークスマンしていたので、36歳の時に、車に仕掛けられたダイナマイトで吹き飛ばされて死亡しています。
小説も、パレスチナ人をテーマにした内容で、かなり衝撃的です。
二つの中編「太陽の男たち」「ハイファに戻って」と五つの短編「悲しいオレンジの実る土地」「路傍の菓子パン」「盗まれたシャツ」「彼岸へ」「戦闘の時」が収められています。
●「太陽の男たち」
パレスチナ難民が家族を養うために、何とかクウェイトに密入国しようとする人たちの話です。密入国の手引きをする料金を高く取った上に、砂漠に置き去りにするひともいるとか。だから、密入国を試みて、クウェイトにたどり着ける人は1割か2割とか。
ノッポ親父ことアブ=ル=ハイズラーンは、国境通行許可をとった車の運転手だ。車は大型の給水車。この車で、密入国させてあげるという。
三人の男を乗せてイラク側の国境は無事通過。ただ、日中に給水タンク(水は入っていない)の中に入るので、大変な暑さで耐えがたい。
しばし休憩ののち、クウェイト側に差し掛かり、再度給水タンクへ。
クウェイト側の通関に手間取り、給水タンクの三人は、絶命。悲惨な話です。
●「ハイファに戻って」
サイード・Sと妻のソフィアは、1948年4月21日水曜日の朝、突然の砲撃によりハイファの町から逃げ出さなければならなかった。ユダヤ軍がイギリス軍の撤退の前に先制攻撃に出たためだった。
砲撃ガ開始された時、サイード・Sは、町の中心部に出かけており、ソフィアは、自宅にいたのだが、心細くなり夫を探しに外へ出たまま町から逃げ出す人の波に巻き込まれ、戻れなかった。自宅には、生後5か月のハルドゥンがいたのに。
20年後のハイファ。1967年6月30日、イスラエルに許可されて二人はハイファにやってきた。かつて自分たちの住んでいた家を訪ねる。
家には老女が住んでいた。「ずっと前から私はお二人をお待ちしていました」と迎えてくれた。ドイツ語なまりの英語だった。
ハルドゥンは、ドウフと名付けられて育てられていた。老女(ミリアム)とその夫(アフラート・コーシン)によって、ユダヤ人の子供として育てられた。この家に住める条件が、生後5か月の子供を育てることだった。(コーシンは、5年前にシナイ半島で亡くなった。)
ドウフは、現在出かけており、間もなく戻るという。
ミリアムは、ハルドゥンまたはドウフが育ての親を選ぶか、生みの親を選ぶか本人に決めさせてくれ、という。あなた方にとってと同様、わたしにとっても息子であるので。
真夜中近くに帰って来たドウフは、軍服姿だった。
ドウフは、実の両親を紹介されても、育ての親以外にわたしの親はいません、という。
さらに���「あなた方はハイファを出るべきではなかった。もしそれができなかったのなら、いかなる代価を支払おうとも、乳呑児をベッドに置き去りにすべきではなかった。そしてもしこれもまた不可能であったというのなら、おめおめとハイファに帰ってくるべきではなかった。20年が過ぎたのですよ。その間あなたの息子を取り返すために何をしたのですか?もし私があなたの立場にあったら、わたしはそのために武器をとったでしょう。武力に勝る手段がありますか。なんて無力な人たちなんだ!20年間、ただ泣いていたのですか!涙では失ったものを取り返せないし、奇跡を起こすこともできないのです。」(250頁)ともいう。
(ユダヤ人とパレスチナ人に安住の地は用意できるのでしょうか?)
(2009年3月20日・記)
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イスラエル軍の侵攻で赤ん坊をのこしたまま町を追われたパレスチナ人夫婦 20年後赤ん坊はイスラエル兵になっていた
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パレスチナの物語。
「そのようなことが起こらないこと」が「祖国」である、と。
考えても考えても、感想が書けない。でも読んで、読んだことで何にも変わらないなんてそんなのある訳ない。
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パレスチナ難民の心情など、パレスチナ問題に対してリアリティを感じながら理解を深められる本でした。打ちのめされます。
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今こそ必読。いやいつでも必読。
カナファーニーが見てきた世界を描いているんだろうけど、オレンジ。靴磨き。密入国。横流し。一遍一遍が重くていたい。
やるせない。
でもそこからの今現在ののパレスチナの状況なんだっていうこと。
誰にも届かないのを知りながらただ叫びぼやくパレスチナのひとたち。でもずっと私たちと同じように生きてるんだ。
手元において読み返したい本。
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1972年に出された本だというのに、全く状況がよくなっていないどころか悪くなっていることに衝撃を受ける。
ユダヤ人もパレスチナ人も家族を愛し、平和に暮らしたい。しかしそれが並び立たない。
ユダヤ人に故郷を追われ、難民となったパレスチナ人の心情が、こちらの心も引き裂かれそうなほど激しく伝わってくる。
日本人はもちろん、アメリカ人にもユダヤ人にも読んでほしい。
どうしたら血を流さず解決できるか、私利私欲を抜きに真剣に考えようよ。
それができていないから、この作品の内容が何度も繰り返される。
この本が過去のものになるよう、何をしたらいいかわからないけれど、何とかしたいと強く思う。
とりあえず、この本をたくさんの人に薦めたい。
文学作品として完成度もリーダビリティも高い。
衝撃的なのは表題作だが、「路傍の菓子パン」のようなユーモア(それすら深い哀しみを湛えているが)のある作品も素晴らしい。
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命からがら逃げ出した故郷パレスチナを20年振りに訪れる夫婦の話「ハイファに戻って」が哀切きわまりない。生後わずかで別れた息子は、イスラエル軍の制服をまとって、夫婦の前にあらわれた。父と子の会話は、全文を引用したくなる濃密さ。
若くして暗殺された作家カナファーニー。パレスチナをめぐる対立と憎悪とを、一身に引き受けたような最期というのは、幸か不幸か。
本作が書かれてから、半世紀。パレスチナをめぐる状況は混迷をきわめている。新装新版が本屋に並ぶことだけは、小さな希望ではないか。
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著者ガッサーン・カナファーニーはパレスチナ人。40年以上前の1972年、36歳の若さで暗殺されてしまい、彼の新作を読むことはできません。巻末の解説がかなり詳しく彼の経歴と著作とを紹介しており、それによるとこの本に収められた短編と中編は1962年から1969年にかけて発表された作品たちのようです。つまり、一番古いものは著者が26歳の時の作品ということ。その若さでこんなに凄まじい世界観の小説が書けるのか、というのが驚きです。
場面はすべて中東。ユダヤ人に住処を追われ難民となったパレスチナ人の流浪の生活、難民キャンプで路上をさまよいながら日銭を稼ぐ子どもたち、キャンプの食糧を盗む難民とそれに加担する国連職員、イラクからクウェートに密入国を図る男たち、幼い我が子を残して逃げざるを得ず、20年ぶりに戻った懐かしい街で奇蹟的に変わり果てた息子との対面を果たすパレスチナ人の夫婦…。
いずれも小説の登場人物ながら、長い中東の混乱の中で恐らくほぼ確実に、この小説に出てきた人々と同じような運命をたどった人々は現実にいたのではないかと思います。それぐらい、限りなく現実世界に近いフィクションを描き出した作品群であるという印象です。
読んでいて辛くなったのが、「彼岸へ」と題された作品で、難民キャンプにいるパレスチナ人が語る一部分。少し長いですがそのまま抜粋。
『俺達は商品的状態なんじゃあねえかって言いたいんですよ。ここを訪れた観光客は、難民キャンプを見落としちゃあいけねえってわけですよ。難民どもは一列になって、できるだけあわれっぽい、本当の悲しさにおまけをつけた顔をして見せるんですよ。すると観光客がその前を通ってぱちぱち写真を撮って、そして自分でもちょっぴり悲しみにひたってみるって寸法ですよ。それから、この観光客がそれぞれの国に帰ると、こう言うわけですよ。”皆さん、パレスチナの難民キャンプをぜひ見ておくべきです。それが消滅してしまわないうちに”
そのつぎには、俺たちは、リーダーシップを取るための材料ってことになってるんですよ。俺たちはその国の声明文に盛り込むためのものとか、人間性を誇示したり、民衆を競売に出すときの、恰好の材料にされるんですよ。旦那さんには、おわかりでしょうねぇ、俺たちは左派とか右派とかの区別なしに、どちらにもご利益のある、政治生命をつなぎとめとくためには欠かせないものの一つにされちまってるんですよ。・・・・・・俺個人としては、単なる一匹の豚ってわけです。それから集団としての俺は、商品として、観光客向けに見世物として、また政治ボスとなりたい者たちには、捨てがたい効能を備えた一つの状態、それが俺なんです。』
この鬼気迫る文章が含まれた短編が、この本で一番古い時代の作品。即ち1962年、26歳の著者が世界に向けて放った痛烈な一撃です。
さすがに今は、難民キャンプを見世物として扱う風潮は影を潜めたと思います。ただその一方で、自分たちの当然の権利を無視され、蹂躙され、苦しむパレスチナの人々の絶望や孤独や哀惜の念もまた、見て見ぬふりの中で影を潜めてしまっているかのように思えます。少なくとも、日本にいる限りは彼らの苦しみについて触れる機会は多くありません。
単なる小説としてではなく、一部の国や指導者の傲慢に酔って踏み砕かれる何気ない日常が今この時も存在しているのだということに気づくためにも、40年以上前のこれらの作品群を読むべきだと思います。ノンフィクションを描いたフィクションとして、必読。
そして、40年以上経っているのに一向に状況に改善の兆しが見えないことについては、遠い日本にあっても何ができるかを考えるべきでしょう。所詮、国と国のやり取りは個人には関係ない、個人では手を出せない、などと諦めずに。