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レヴィ=ストロースを意識した人類学者の著書。
秩序立たせるという行為が人間の一部だとする著者は、
まず「分類」したのちに、そこからあふれ出るものを有意味化させる。
無秩序と秩序の境界線上にある「汚穢」を考察する。
膨大な量の具体例は、目が眩む。
ドゥルーズらしさを感じないではないが、
イギリス人らしい合理的な思考をもっている印象。
最後に突然現れて考察される、「死の恐怖」というモチーフはやはり、大きな問題なのだろう。
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あっ!きったなぁ~い。
と言っては人は様々なものを忌避する。
自分の中の秩序を維持せんがための行為である。
人が創りあげる秩序は、当人の経験を何とか統一したものとして掴んでおいて不安をなくしたいという衝動に基づくものなのだろう。また、社会というシステムに寄りかかって生きるしかない人間は社会によって組み上げられた秩序というものも学習によって自己の内に取り込んでいく。意識しようと無意識であろうと…
社会的な秩序は、道徳観念や無言の圧力、有形、無形の罰や法などによって強制的に担保される。とはいえそれは人が生きていくために、この訳のわかんない世界を何とかそれなりに統一したものであるかのように組み上げて築き上げたとりあえずの秩序である。決して永遠普遍のものなどであるはずがない。環境や自分が変わればそれに合わせて変化していくものである。
この世界をありのまま見ようとしても、見ようとしたその時にはそれまでに組み上げた個人の秩序がある。脳には癖があるとでも言うべきか…それまでの人生経験で頭や身体に染み込んでいる秩序がある。人類学の教科書にもなるといえるこの本では、前半、中盤のかなりの部分を割いてそのことを説明しようとしているようだった。
あぁ~すれば、こうなる。こうすれば、あぁ~なる。
これはこうじゃなきゃいかん!
こうであるべきだ。
それぞれに他の人から見れば、単なる思い込みに過ぎないものでも、当の本人にとってはこれまでの人生が積もり積もって、堆積して、結晶したような輝く秩序なんである。ちょっと他人に意見されたぐらいでそうそう揺るぐもんじゃない。
しかし、決定的に環境と自分が折り合えなくなってしまった状況にいたって始めて、生き抜くために古い秩序を捨て、新たな秩序を織り成す必要に気がつくこともあるのかもしれない。それこそ生きるか死ぬかのギリギリまで追い詰められないとそういう悟りは拓けないかも…
科学技術は間違いなくとてつもないほど進歩してきたが、人間の頭の方はそれほど進歩していないような気がした。何しろ遺伝的にはこの5万年、人類は変化していない。脳は身体と切り離されては働きようがない。
Mahalo
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前々から読まねばと思っていた一冊。
不浄なるものと聖なるもの、秩序と混沌、生と死などなどの密接な関係。
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人類学の見地から人類社会における汚れの見方を問うた一冊。
私の表現では正確性を欠くかもしらないが、汚れと認識される事象は社会や個人における秩序の範疇から外れたものであり、それらは古今の宗教、現代人未開人の社会に於いても本質的には変わらないということ、その上でそれら汚穢(の一部)を聖性として取り入れることが既存の秩序体系の矛盾を克服し秩序を再構築する行為であるという視点には非常に感銘を受けた。
各個の説明はかなり丁寧であったが、論旨が直截的に分かる構成だった方が本旨が伝わりやすかったなあという印象。とはいえ、名著であることに疑いはない。
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多くの文化の祭式において、本来拒否されるべき不浄なるものが聖なる目的のために使われるのはなぜだろうか。フレーザーからサルトル、エリアーデにいたるまで多くの人類学的成果を吟味しながら、穢れを通して浮かび上がる、秩序と無秩序、生と死、形式と混沌の関係に鋭く迫る。穢れとは、秩序創出の副産物であると同時に、既存の秩序を脅かす崩壊の象徴、そして始まりと成長の象徴であり、さらに穢れと水はその再生作用において同一をなすものであると位置づける。1966年の刊行
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宗教学、人類学、哲学など幅広い視点から、穢れとタブーについて考察されている。特に、レビ記の解釈、ヒンドゥーのカーストの解釈が面白かった。
本書ではあまり仏教についての言及はなかったが、真言密教もこの人の理論で解釈したら面白いのではないだろうか。
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・祭式には、聖なるもののほか、汚れたものも用いられる。汚穢は相対的なもの、曖昧なもの、異例なものである。
・世界観は社会構造により影響される。未開人は(例えば、金銭を介さず)単純・直接に外界に対しているため、人間中心的・人格的な精神である。
・汚穢は秩序創出の副産物であり、矛盾を超えて再び秩序に受け入れられることで、体系の崩壊や新生をもたらす。
1966年の著書で、あちこち批判もしている。